第5章 記録する女
翌朝の会社には全員が揃っていた。空気が張りつめている。黒崎は飯田のデスクの上に、1枚の写真を置く。古いセダンの後部座席で、飯田が封筒を受け取っている写真だった。飯田は写真を見て、ゆっくりと息を吐く。
「……高瀬か」と飯田が言った。
「ごめんなさい。でも、見過ごせなかった」
「え、なに、どういうこと。飯田さん、何もらってんの」
「清原管理官のエスだ。2年前から」と黒崎は言った。
真帆と琴美が凍りつく。
「エスって……警察のスパイ? うちに? 嘘でしょ」と真帆が言った。
「嘘じゃねえよ」と飯田が言った。
飯田は椅子にどかっと座り直す。開き直ったのか、疲れきったのか、判別できない顔だった。
「2年前、俺は前の探偵事務所でやばい浮気調査に手を出して、無断で部屋に入り、録音機を置いた件で立件されかけた。そこに清原が来た。『見逃してやる。代わりに、黒崎という男の会社に潜り込め』ってな」と飯田が言った。
「最初から、黒崎さんを調べるために」と遥が言った。
「清原は黒崎がアリバイを作ってるって、ずっと前から睨んでたんだよ。でも証拠がなかった」と飯田が言った。
「何を流した」と黒崎は言った。
「たいしたもんは流してねえ。依頼の数とか、社員の顔ぶれとか。ヤバいとこは全部ぼかした。……信じなくてもいいけどな」と飯田が言った。
「金は」と黒崎は言った。
「もらってた。月に20万」と飯田が言った。
「最っ低」
「ああ、最低だよ」と飯田が言った。
飯田は立ち上がる。
「娘がいるんだ。別れた女房のとこに。心臓が悪くてな、手術に金がかかる。……言い訳だよな。わかってる」と飯田が言った。
誰も、何も言えない。
「上野の件は俺が清原に流した。それは認める。でも、それだけだ。人殺しの片棒なんか担いじゃいねえ」と飯田が言った。
「わかってる」
「……は?」と飯田が言った。
「上野に来たのは警察だった。犯人じゃない。お前は犯人の情報源じゃない」
飯田は黒崎を見つめる。
「じゃあ、なんで俺を晒した」
「俺がここで確かめると決めた。高瀬のせいにするな」と黒崎は言った。
飯田の顔が、くしゃりと歪む。
「……クビか」
「清原との連絡は続けろ」
「え?」と誰かが言った。
「向こうが何を知りたがっているか。それがわかれば、向こうが何を知らないかもわかる」と黒崎は言った。
飯田の娘は7歳だった。手術に向けた入院と検査が続き、元妻は勤めを減らしていた。費用の全額が家族の負担になるわけではない。それでも、交通費、付き添いの食事、減った収入、家賃といったものは制度の名前を並べても消えなかった。
月に20万円の金を受け取る時、飯田はそれらを頭の中で計算した。計算すると裏切りに使い道ができる。使い道があれば、裏切りではなく必要経費のように感じられた。
真帆が最低だと言った時、彼は反論しなかった。反論に娘を使えば、娘もこの部屋へ連れてこなくてはならない。何も知らずに病院のベッドで折り紙をしている子を、言い訳の証人にしたくなかった。
しかしもう、名前のないまま連れてきてしまっていた。
「娘のためだって話は取り消す」
飯田は誰も見ずに言った。
「俺が金をもらった。俺が決めた。それだけだ」
琴美は机に置いた写真を伏せた。
「お嬢さんのことを聞いたら、責められなくなると思ったんですか」
柔らかい声だった。その柔らかさが、飯田には怒鳴られるより堪えた。
「思った。たぶん」
真帆が顔を背けた。遥は何も言わなかった。
黒崎は連絡を続けろと命じたが、飯田はすぐには頷かなかった。前より役に立つ裏切り者になれば、許されるのだろうか。今までの生活と、たいして違わない気がした。
「連絡する時は内容を残す。隠して渡すのはもうやらねえ」
黒崎は一瞬、難しい顔をした。捜査の動きを知るにはその条件は不便だった。
「わかった」
不便なまま了承することが、今の2人にできる約束だった。
遥が、黒崎を追い詰めるように詰め寄る。
「飯田さんを残すんですか。警察のスパイを」と遥が言った。
「スパイだとわかっているスパイは1番安全な仲間だ」
「屁理屈です」
「高瀬。上野の結果は飯田。じゃあ、池袋は」と黒崎は言った。
遥は言葉に詰まる。
「……誰に、池袋と伝えたんですか」
「まだ言えない」
「私には言えないんですか」と遥が言った。
「お前にも言えない。俺は今、誰も信用できない。自分自身も含めて」
給湯室を出た遥は洗面所で自分の顔を見た。飯田を尾けて写真を撮ったことに後悔はなかった。しかし本人へ聞く前に、黒崎へ送った。会社を守るためだと思っていた。黒崎に、自分だけは信じてほしかったのかもしれない。
警察を辞める時、直属の上司は君の正義感はよくわかった、と言った。それから、組織としての判断も理解してほしい、と続けた。相手に都合のよい時だけ、自分の行動に正義という名がつく。
彼女が異議を申し立てた事件は重大な殺人ではなかった。小さな窃盗だった。防犯映像に似た背格好の男がいて、近所に住む被疑者には前歴があった。聞き込み先の女性はその時刻に店で見たと思う、と話した。店のレシートは本人のものか確かめられなかった。だから調書を取るほどではないとされた。
女性は最後に、間違っていたらごめんなさい、と言った。そのひと言が、話を採らない理由に使われた。遥には記憶に慎重な人ほど証人から外れていくように見えた。
彼女は報告書に、その話も書いた。別の報告書には載らなかった。誰も原本を破かなかった。誰も捏造しろとは言わなかった。次の書類へ写さないだけで、話はなくなっていく。
この会社では逆のことをしていた。なかったものが次の書類へ写され、依頼人の口へ渡る。遥は自分がどちらも嫌いだと知っていた。嫌いだというだけで、ここを去らずにいられる理由にはならない。
蛇口を閉めても水が1滴落ちた。父の店の蛇口も、いつもそうだった。日曜になると父は修理しようと言い、翌週まで直らなかった。人の暮らしは決めた通りに進まない。捜査もそうだったはずなのに、書類になると不自然なほど滑らかになる。
狭い部屋に、ラックが並ぶ。冷却ファンが低い音を立てていた。遥が1人、懐中電灯でラックの裏を照らしている。
池袋の情報はどこから漏れた。人の口からか、それとも……。
遥はラックの1番下へ目を向けた。パネルのネジが1本だけ新しい。遥はドライバーでネジを外す。パネルの奥に、黒い外付けハードディスクが3台、隠すように並んでいる。ラベルには真帆の丸い文字で日付だけが書かれている。
テーブルの上には3台のハードディスクが置かれた。真帆はそれを見て、目を伏せる。黒崎は飯田、琴美、遥が囲んでいる。
「おいおい、今度は真帆ちゃんかよ」と飯田が言った。
「……中身、見た?」
「まだ。あなたの口から聞きたかった」
真帆は長い沈黙のあと、自嘲気味に笑う。
「この会社で受けた依頼、全部入ってる。依頼人との面談の録音、作った映像の元データ、差し替える前の本物の映像。会社のバックアップとは別に、私が個人的に取ってたやつ」と真帆が言った。
「なぜだ」と黒崎は言った。
「保険」と真帆が言った。
「保険?」と飯田が言った。
「私さ、前はテレビ局で編集やってたじゃない。情報番組。ある日、ディレクターに言われたの。『この主婦のインタビュー、もっと怒ってる感じにつないで』って。言われたとおりにつないだ。そしたら放送後に、それが捏造だって大問題になった」と真帆が言った。
真帆は指先でハードディスクを叩く。
「ディレクターは『そんな指示は出していない』。プロデューサーは『編集担当の独断』。指示はぜんぶ口頭で、メモ1つ残ってなかった。私だけクビ。ネットには名前と顔まで晒された。番組を作った人たちは今も普通にテレビ作ってる」と真帆が言った。
「……ひどい」と琴美が言った。
「そのとき思ったの。記録を持ってない人間はいつでも犯人にされるんだなって。だから、ここに来てからは全部取ってる。いつか、全部私のせいにされた時のために」と真帆が言った。
「俺が、お前を売ると」と黒崎は言った。
「社長が、とは思ってない。でも、何が起きるかわかんないじゃん。現に今、起きてるし」と真帆が言った。
真帆は黒崎をまっすぐに見る。
「これを誰かに渡したことは1度もない。それは誓う」と真帆が言った。
黒崎はしばらく真帆を見つめる。
「……由里子さんの面談の録音はあるか」と黒崎は言った。
「あるよ」と真帆が言った。
「全部、聞かせてくれ」
真帆がテレビの仕事を始めた頃、先輩に最初に教わったのは余った部分を捨てるな、ということだった。尺に収まらない部分も別の番組で使える。その実務的な教えを、彼女は人に対する誠実さのように受け取った。
問題になったインタビューの主婦は商店街の再開発に反対していたわけではなかった。仮店舗の場所が遠くなると、買い物が難しい。そう言った。賛成も反対も、生活の都合の中にあった。
放送では賛成を示す前半が切られ、別の質問への不満の答えがつながれた。主婦は怒っている住民になった。真帆はその画を作った。上司に命じられたことは事実だったが、命じられてできてしまったことも事実だった。
騒動の後、彼女は主婦へ謝りに行こうとして、玄関前まで行って帰った。自分の名が報道されたことで謝罪は済んだような気がした。職を失い、友人からの連絡が減り、母親に泣かれた。10分苦しんだと、自分では思った。
だが主婦は何も返してもらっていない。近所で誰に何を言われたのか、買い物に戻れたのか、真帆は知らなかった。
黒崎の会社へ来た時、彼は君の技術がほしい、と言った。やり直せる気がした。編集した結果、人が喜んでくれる。被害に遭ったのは依頼人で、自分は助ける側だ。そういう仕事なら、同じ指を使っても別の人間になれると思った。
ハードディスクを隠したのは黒崎を信用しなかったからだけではない。自分がまた、できあがったものを信じ始めるのが怖かった。保存した元映像を見れば、違いは残っている。違いを残すことで、自分はまだ取り返しのつく側にいると思えた。
取り返す人を決めずに、資料だけを残していた。
「私も、あの主婦に謝ってないんだよね」
真帆は急に言った。誰に向けた言葉でもなかった。
「謝ったつもりになってた。クビになったから」
黒崎は顔を上げた。真帆は返事を待たず、ディスクを机の中央へ押した。
「これを持ってることで、何かやった気になってたのかもしれない」
琴美がそっと、電源の切れた機器の向きを揃えた。壊れものを扱う手つきだった。
全員がスピーカーの前に集まっている。音声が再生された。応接スペースの音が聞こえた。ドアが開閉する音がした。
「こちらでお待ちください。すぐに担当の者が参ります」という琴美の声が届いた。
ドアが閉まる音がした。しばらく声が途切れた。衣擦れが聞こえた。スマートフォンが振動した。
「……はい。ええ、来ています。今、ここに」
全員が身を乗り出す。
「明日の9時。わかっています。……わかっています。逃げたりしません。でも、約束してください、先生。夫には何も」
誰も口を開かなかった。電話の向こうの声は聞こえない。
「……そうですか。それなら、いいんです」という由里子の声が聞こえた。
通話が切れた。その後に、すすり泣くような息が小さく続いた。ドアが開く音がした。黒崎たちの足音が近づいた。真帆は再生を止める。
「先生……」
「電話の相手を『先生』と呼んでた」と遥が言った。
「医者、弁護士、政治家、学校の先生」と真帆が言った。
「沢井さんも、弁護士でした。……『先生』と呼ばれる人でした」と琴美が言った。
全員が琴美を見る。
「あ、いえ、そういう意味じゃ……」と琴美が言った。
黒崎は黙ったまま、琴美の横顔を見ている。
録音の中で、由里子は2度「わかっています」と言っていた。初めの声は相手への返事だった。2度目は自分へ言い聞かせているように聞こえた。
誰もその感想を、事実としてノートには書かなかった。真帆は発言を時刻とともに抜き出した。話していない部分にも長さを残した。沈黙はこれまで彼女が真っ先に削っていたものだった。
遥は由里子が受け取った名刺を思い出した。携帯へ連絡は来ていた。自分はできることをした、と言えるだけの記録もあった。それでも、足りなかったという思いは消えない。記録は責任を分けることができるが、後悔を等分してはくれない。
「先生という呼び方だけでは誰とも決められない」
黒崎が言った。全員が頷いた。宮坂の顔を思い浮かべなかった者はいなかった。けれど思い浮かべたあと、外した理由もそれぞれにあった。
真帆にとっては仕事を失った時に話を聞いてくれた人だった。飯田にとっては逮捕をちらつかせずに自分と話してくれる法律家だった。琴美にとっては父の事件に関心を示した人だった。黒崎にとっては兄は無実だったかもしれないと、ためらわず口にした最初の元検事だった。
疑うのに必要なのは相手を知らないことではなく、知っている相手に対しても、知らない部分があると認めることだった。その夜の5人にはまだ難しかった。
真帆はもう1つのファイルを開く。あの夜の、由里子からの着信の録音。
「もう一個、わかったことがある。社長にかかってきた、あの電話」と真帆が言った。
波形を2つ並べる。
「あの電話の『黒崎さん』って部分。響き方が、さっきの面談の録音とほぼ同じなの。つまり、この応接スペースで録られた声」
「うちの録音を、使った……?」
「たぶん。で、『次はあなたが誰かを殺す番です』のほうは全然違う部屋。響きが長い別の場所。部屋の形までは断定できない」と真帆が言った。
「由里子さんの家のリビングじゃないのか」
「わかんない。でも、『番です』の前で削られた0.3秒。あそこに何が入ってたのか、私、ずっと気になってる」と真帆が言った。
「戻せるか」と黒崎は言った。
「元の録音がどこかにあれば」と真帆が言った。
黒崎は腕時計に触れる。
「……あの夜。家の中で、由里子さんは何かを録音していたのかもしれない」と黒崎は言った。
深夜のラーメン屋で、飯田と遥はカウンターに並んだ。2人は湯気の向こうで黙って麺をすすった。
「尾けてたのか。俺を」と飯田が言った。
「……はい」
「元警察官の勘ってやつか」
「元警察官の、癖です」と遥が言った。
飯田は苦笑する。
「なんで警察を辞めた」
「上司が、証拠を握りつぶすのを見たからです。担当の事件で。被疑者に有利な証言を、なかったことにした。異議を申し立てたら、交番勤務に飛ばされました」
「それで、証拠を作る会社に? 皮肉だな」と飯田が言った。
「証拠をなかったことにする人たちと、証拠をあったことにする人たち。どっちがましなのか、確かめたかったのかもしれません」
「答えは出たか」
「まだです」と遥が言った。
遥は箸を置く。
「……父が、昔、同じ目にあったんです。警察に、本当のことを話したのに、なかったことにされた。父は死ぬまで、そのことを悔やんでた」
「何の事件だ」
「父はコンビニをやっていました。それ以上はよく知らないんです。父は詳しく話してくれなかったから」と遥が言った。
飯田はちらりと遥を見る。何も言わずに、ラーメンのスープを飲み干す。
ラーメン屋を出てから、飯田は元妻へ電話をした。遥は先に駅へ向かおうとしたが、途中で立ち止まった。聞くつもりはなかった。聞こえてくる飯田の声は事務所にいる時より小さかった。
「金、今月は遅れるかもしれない」
理由は言わなかった。相手が長く話した。飯田はうん、と繰り返した。
「払わないって話じゃない。遅れるかもしれないから、先に言った」
電話を切ると、飯田は遥に気づいた。
「聞いてたか」
「少し」
「調書にしてくれ」
冗談にはならなかった。飯田も笑わなかった。
遥は父のことを少し話した。店がなくなった後、父は家の時計をすべて同じ時刻に合わせるようになった。朝、ラジオをつけ、時計を1つずつ外す。電子レンジの表示まで合わせた。最初は几帳面になったのだと思った。後には父が何を怖がっているのかわからず、苛立った。
「遅れるからやめてって、言ったんです。学校に行く前に、毎朝それをするから」
飯田は煙草を取り出しかけて、しまった。
「言うだろ。子供なら」
「そうでしょうか」
「親の事情を全部わかってたら、子供やってられない」
遥は初めて、その言い方で父を思い出した。子供の自分まで、正しい対応をしなければならなかったわけではない。そう思うと、父を憎んでいた時期があったことを、少しだけ認められた。
飯田は駅の入口で手を挙げた。背中を追って写真を撮った夜とは違って、どこへ帰るかを遥は知っていた。知っているから疑わなくていいとは思わなかった。ただ、相手の生活が見えた。
琴美が電話応対をしている。鉄の扉が開く。清原と中津の後ろから、制服の警察官が2人入ってきた。オフィス中の視線が集まる。
「伊東琴美さん」と清原が言った。
琴美は受話器を持ったまま固まる。
「昨年6月に亡くなった弁護士、沢井義明さんの件で、お話を伺いたい」
「事故と処理された件だと聞いていますが」
「再捜査中だ。……伊東さん。あなたは昨年6月まで、沢井法律事務所で事務員として働いていましたね」と清原が言った。
琴美の顔が、さっと青ざめる。
「……は?」
「琴美ちゃん、前は派遣で事務やってたって」と真帆が言った。
「沢井さんが亡くなった夜、最後に事務所で沢井さんと会っていたのはあなただ。その翌月、あなたはこの会社に入っている。前職の欄は空白のまま」と清原が言った。
「琴美ちゃん……本当なの?」と遥が言った。
琴美は唇を震わせる。何も答えない。
「任意同行をお願いします」と清原が言った。
中津が琴美の腕に手をかける。琴美は受話器を置き、ゆっくりと立ち上がる。扉の前で、琴美が振り返る。黒崎を見る。
「黒崎さん。私……」と琴美が言った。
言葉が続かない。目に涙がたまっている。
「私、黒崎さんにだけは嘘をつきたくなかった」と琴美が言った。
扉が閉まる。黒崎は立ち尽くしている。机の上で、池袋と書かれたメモが、空調の風にかすかに揺れる。
琴美が使っていた電話には保留の表示が残っていた。真帆が慌てて取ると、宅配便の確認だった。明日の午前か午後か。世界の用事は誰かが警察へ連れていかれても続いていた。
真帆は午前でお願いしますと答えた。明日の午前に誰がこの部屋にいるのか、わからなかった。
黒崎は琴美の椅子へ手を伸ばした。机の上に、相談者へ渡す説明文があった。無実であることと、アリバイが存在することは同じではありません。彼女は法律の解説から写したのではなく、自分の言葉で書き直していた。
その文の下へ黒崎は以前、安心してご相談ください、と加えるよう指示した。琴美はまだ加えていなかった。
経歴の空白を尋ねなかったのは採用した自分の落ち度だった。そう考えれば、上司として反省できる。しかし空白を持つ人間のほうが働かせやすいと、どこかで思っていなかったか。質問されないことを、恩だと思ってくれる。黒崎は椅子から手を離した。
入口の扉の下に、琴美が帰り際に落とした小さなクリップがあった。拾って机へ置いた。何かをしているように見えることなら、いくらでもできた。




