↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アリバイ株式会社  作者: ぽむぽむ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/8

第4章 カナリア

岡野邸へ行く前に、黒崎は三枝朋美の住んでいたアパート跡を訪ねた。建物は建て替えられ、道路側に駐輪場ができていた。階段のあった位置を特定しようとしたが、塀の基礎さえ残っていなかった。

 ここへは兄の判決後に来たことがなかった。兄の無実を考えるためには必要な場所だったのに、殺された女の暮らした場所として訪ねることを避けていた。

 朋美が兄と交際していたことは知っていた。2度、食事をしたこともある。2度目の店で、朋美は熱いグラタンの皿に触れてしまい、指を水のグラスへ入れた。颯一が氷を取ろうとすると、もう大丈夫、と笑った。どちらが別れを告げたか、隆史は知らない。知らないことを、事件後には何度も聞かれた。

 兄を救おうとする人間にとって、被害者は事件の入口になってしまう。どんな人だったかより、誰に会ったかが重要になる。いつ笑ったかではなく、いつ最後に生きていたかが問われる。

 歩道の向こうから女性が自転車を押してきた。前の籠に花が入っていた。一瞬、朋美が年を取って現れたように感じた。もちろん違った。彼女は黒崎の横を通り過ぎた。朋美が生きていれば41歳になっているはずだった。黒崎はその計算を今までしたことがなかった。

 スマートフォンを取り出し、当時の記事を読み直した。朋美の名は見出しより小さかった。兄の名は大きかった。冤罪を晴らすことを考える時、黒崎も同じ順番で2人を置いていた。


 岡野邸へ向かう前日、黒崎は由里子が会社へ来た時の記録を読み直した。受付で書いた住所と電話番号以外、彼女の筆跡はほとんど残っていない。何を知っていたか、何を隠したか。今ではすべて、死者への質問になっていた。

 由里子は10月19日の朝、自宅の台所で紙袋を修理していた。古い店のロゴは長くしまわれていたために紙の折り目だけ濃く残っていた。なぜその袋を取っておいたか、大輔には話したことがなかった。

 17年前、高瀬の店で買い物をしたことがある。事件の後だった。裁判で使われる資料について宮坂と話した帰り、店の前を通った。自分が証言した男が傘を買った店だと知っていた。

 店長は普通に釣り銭を渡した。由里子の顔に気づかなかったのか、気づいても何も言わなかったのかはわからない。雨の日だったので、紙袋の上からビニールをかけてくれた。

 由里子はその親切を、ずっと捨てられなかった。事件に関わるものだから取っておいたという説明なら、自分にもできた。しかし何を買ったのかは忘れていた。覚えているのは、濡れないようにしますね、と言った店長の声と、袋の底を支える手の温かさだけだった。

 あの日、店の外でビニールを外した時、由里子はそれを捨てた。紙袋は濡れていなかった。自分のした証言を取り消せないのに、知らない人の親切だけが傷まないで残っていることを、ひどく不公平だと思った。

 袋の持ち手を補修するたび、店長は今もあの場所で店を続けているのだろうかと考えた。確かめに行くことはなかった。そこで暮らしている人の時間へ、自分が入り込む権利はないように感じた。

 紙袋の底へ記録媒体を留めた時、由里子はこれを相手が見つける保証はないと思った。だから別に手紙も用意した。全部を1度に差し出せばよかった。それができれば、そもそも17年もかからなかった。

 大輔はまだ寝室にいた。寝息が聞こえた。若い頃、大輔の眠っている顔を見ると安心した。罪を犯した男でも眠れることを、その時は不思議に思わなかった。眠れないのは自分のほうだった。

 宮坂からの連絡は前夜にも来ていた。約束を守れば夫には何もしない。その言葉は幾度も使われ、もはや約束ではなくなっていた。大輔の会社の取引にも宮坂が関わり、由里子の相談先にはいつも先回りしていた。助けを求める相手と、恐れている相手が同じ名前になった時、逃げる方向は見えなくなった。

 由里子は警察の通報画面を開いた。押さなかった。その行為を夫への愛の証拠だと思いたかった。しかし画面の中で、自分の指は小刻みに震えているだけだった。

 朝食の皿を2枚出し、1枚を戻した。大輔は食べないと言っていた。台所の小さな予定はまだ続いていた。自分が翌日の夜に殺されるという言葉は現実の予定と同じ場所へ置けなかった。

 家を出る時、鏡を見た。もっと悲惨な顔になっていれば、誰かが事情を尋ねてくれるだろうか。鏡の女は44歳で、少し寝不足なだけだった。

 会社へ向かう電車で、隣に座った人が眠りかけ、由里子の肩へ寄りかかった。由里子は体を動かさなかった。自分へ何も求めていない重さが、久しぶりだった。

 神田へ着いてから、道を1本間違えた。携帯の地図を見て戻った。死ぬと言いに行く人間も、道を間違えれば戻る。小さな間違いには戻る道が見える。

 5階まで階段を上がり、途中で息を整えた。その時にはまだ、全部話そうと思っていた。扉が開き、若い女が迎えた。名前を尋ねられ、岡野ですと答えると、戸川だった頃の自分がまた遠ざかった。


 岡野邸のカーテンは閉め切られていた。祭壇には由里子の遺影が置かれていた。大輔はソファに座り込んでいた。剃られていない髭が頬を覆っていた。その前に、黒崎が立っている。

「……どなたですか」と大輔が言った。

「奥さんに、あなたのアリバイを作ってほしいと頼まれた者です」

 大輔の顔から血の気が引く。

「あのホテルのバーの……あれはあなたが」

「奥さんは自分が殺されることを知っていた。あなたが疑われないように、3000万円を払った」と黒崎は言った。

「そんな……」

 黒崎は古い写真をテーブルに置く。若い由里子と大輔が写っていた。

「17年前。奥さんは旧姓の戸川由里子として、ある殺人事件の裁判で証言しています。被告人は黒崎颯一。俺の兄です」

 大輔は写真を見つめたまま動かない。

「ご存じでしたか」と黒崎は言った。

「……妻はあの事件のことを、17年間、1度も口にしませんでした」

「答えになっていません」

「知っていました。でも、それだけです。妻は見たものを、見たとおりに話しただけだ」と大輔が言った。

「奥さんはその証言の横に『嘘』と書き残していた」

 大輔の手が、膝の上で小刻みに震え始める。

「帰ってください」

「岡野さん」と黒崎は言った。

「帰ってくれ!」

 大輔は立ち上がる。黒崎は写真を取り上げ、背を向ける。ドアの前で、大輔の声が追いかけてくる。

「……妻は。妻は何か残していませんでしたか。手紙とか、録音とか」

 黒崎は振り返る。大輔の目に浮かんでいるのは悲しみではなく、怯えだ。

「なぜ、録音だと?」と黒崎は言った。

「……いえ。何でもありません」


 大輔は黒崎が帰っても玄関の鍵をかけなかった。誰かに入ってこられる恐怖と、誰も来ない恐怖が、交代で彼を動かしていた。

 台所に、由里子が買った梨が3個あった。果物は届けられたものではない。買い物袋から出して、まだ冷蔵庫へ入れないままにしてあった。自分が死ぬと決めている人間が、梨を3個買うだろうか。大輔は毎朝それを見て、どこかに勘違いがあると思った。

 保険の手続きに必要な書類は棚の中に揃っていた。由里子は自分が几帳面な妻であったという証拠を、死後まで残していた。だが、大輔のネクタイの染みは取れていなかった。ワイシャツの袖のボタンも、ほつれたままだった。死んだことで初めて気づく不完全な家事が、暮らしていた人間の大きさになった。

 由里子を守れなかった、と言うことはできた。その言葉なら、自分も被害者の側に立てる。だが彼女が守り続けてきたものを、大輔は知っていた。17年前の夜、恋人の部屋へ逃げ込んだ時、最初にしたのは謝罪ではなかった。誰にも言わないでくれ、と頼んだ。

 その時の由里子の表情だけはどうしても思い出せなかった。泣いていた気も、怒っていた気もする。自分の恐怖で、相手の顔をほとんど見ていなかったのだ。

 電話が鳴った。宮坂だった。大輔は応答しなかった。少しして、必要な書類を整理しておくように、という文章が届いた。何の書類なのかは書かれていなかった。由里子がいなくなっても、用事の順番だけは届く。

 大輔は梨の皮をむこうとした。刃が滑り、指に小さな傷ができた。たいした出血ではない。それでもしばらく、台所から動けなかった。


 ホワイトボードには名簿のコピーが貼られていた。赤い丸が目に入った。最後の行には「黒崎隆史」の名があった。

「確認した。この名簿の書式、うちの社内システムから出力する形式そのまま。日付の書き方も、依頼番号の振り方も」と真帆が言った。

「外部から侵入された可能性は」

「ログを3年分ひっくり返した。確認できる範囲では不審な接続は見つからない。でも、侵入がなかった証明にはならない」

「じゃあ、どこから漏れたんだよ」と飯田が言った。

 誰も口を開かなかった。全員が、互いの顔を見ないようにしている。

「……中から、ってこと?」と真帆が言った。

「そんな」と琴美が言った。

「名簿にアクセスできるのはこの部屋にいる5人と、宮坂先生だけだ」と黒崎は言った。

「先生を疑うのか? あの人がいなかったら、俺たちはとっくに全員ブタ箱だぞ」と飯田が言った。

「誰も疑っていない。だから確かめる」と黒崎は言った。


 カナリアの話を最初に教えたのは宮坂だった。ある依頼人の情報が週刊誌へ流れた時、別々の情報を渡してはどうか、と穏やかに提案した。毒のある場所へ鳥を連れていくからではない、文書にそれぞれ小さな印をつけるんだ、と説明した。

 黒崎はその時、宮坂を信用できる理由が増えたと思った。信用を確かめる方法を教えてくれる人間が、自分を裏切るとは考えなかった。

 今回、誰に何を告げるかを決める時、宮坂の名を最初から枠の外へ置いた。顧問だから、外部だから、暗号の鍵を持たないから。理由は3つ用意できた。用意できる理由の数と、理由の正しさは別だった。

 それに気づくのは後のことになる。

 黒崎は4枚の紙を机に並べた。情報の流れを調べるつもりだった。しかし紙に場所を書き終えると、社員の顔がその場所へ貼りついた。品川は真帆、上野は飯田、池袋は琴美、渋谷は遥。自分が検査しているのが経路なのか人間なのか、次第に区別しなくなった。

 琴美には登録を頼んだ。ほかの3人には頼まなかった。その条件の違いに、黒崎は気づいていた。気づいていても、結果を見ればわかると思った。科学捜査の職場を出てからも、自分のやり方に科学という名前がついているつもりだった。


 黒崎は狭い社長室へ真帆を呼んだ。黒崎と真帆だけがいた。

「新しい依頼が入った。北条という男だ。明日の夜9時、品川の埠頭で人と会う。その時間のアリバイがほしいそうだ」と黒崎は言った。

「了解。品川ね」

「この件は俺とお前だけで動く。他の誰にも言うな」

「……わかった」と真帆が言った。


 給湯室で、黒崎は飯田を呼び止めた。

「北条という依頼人だ。明日の夜10時、上野の公園。お前だけに頼む」と黒崎は言った。

「なんで俺だけ」

「口が堅いからだ」

「褒め言葉として受け取っとくよ」と飯田が言った。


 受付で、黒崎は琴美へ声をかけた。

「北条という依頼人の受付を頼む。明日の夜8時、池袋の西口公園。いつもどおり、システムに登録しておいてくれ」と黒崎は言った。

「はい。……他の方には」

「言わなくていい」


 屋上のフェンス越しに、神田の街が広がっていた。黒崎と遥は並んで立った。

「北条という依頼人だ。明日の夜11時、渋谷の歩道橋の上」と黒崎は言った。

「……黒崎さん」

「何だ」

「同じことを、他の3人にも言いましたね。場所と時間だけ変えて」と遥が言った。

 黒崎は答えない。

「カナリア・トラップ。漏れた経路を調べる手です。漏れた情報の中身で、誰が漏らしたかを特定する」

「……さすがだな」

「私にも、試してるんですね」と遥が言った。

「お前だけ例外にしたら、それこそ不公平だ」

 遥は悔しそうに笑う。

「いいですよ。渋谷の歩道橋、誰も来ないことを祈ってます」

「宮坂先生には言っていない」と黒崎は言った。

「どうして」

「先生は会社の外の人間だ。毎晩のバックアップは暗号化してあるし、鍵は真帆しか持っていない」

 遥は何か言いかけて、飲み込む。


 屋上から、電車の窓が列になって流れるのが見えた。遥はあの窓の中に今帰る場所がある人たちが座っていることを、少し羨ましく思った。自分にも部屋はある。だが仕事を終えて帰る時と、何かから離れて戻る時では同じ部屋でも違って感じられる。

「なぜ、私を採ったんですか」

 黒崎はフェンスへ視線を置いた。

「履歴書に嘘が少なかった」

「少ないかどうか、確かめましたか」

「辞めた理由は隠さなかった」

「それは隠せないからです」

 遥は笑った。会社に来た本当の理由を、黒崎には全部話していなかった。再審に関わる民間の技術者を調べていた時、黒崎の名前を見つけたこと。父が失った店と同じ地域で、彼の兄が捕まっていたこと。直接の関係までは知らなかったが、偶然だけで応募したわけではないこと。

 父の話をすると、誰もが気の毒だと言った。それ以上のことは調べてもらえなかった。遥は気の毒という言葉を、自分の正しさの証明として持ち歩きたくなかった。

「私も、ここへ来れば何かを確かめられると思っていました」

「何を」

「今はまだ、私から言いたいです」

 黒崎はそれを拒まなかった。自分も同じことをしている人間だけが持つ、寛容に似た弱さだった。


 事務所を出てきた宮坂が黒い車に乗り込んだ。ルームミラーには小さな紺色の御守りが下がっている。母が大切にしなさいと言って渡したものだ、と以前話していた。宮坂は走り出す前に向きを直し、スマートフォンのファイル一覧を確認した。画面を閉じる時も、御守りはわずかに揺れていた。


 荒木が暮らしていたのは小さな一軒家だった。仏壇には荒木の遺影が置かれていた。黒崎が線香をあげている。後ろに、妻の静江が座っていた。

「主人の部下だった方が来てくださるなんて。……あの人、職場ではずいぶん厳しかったでしょう」と静江が言った。

「ええ。でも、仕事は正確な人でした」

「最後の何年かはずっと何かを悔やんでいるようでした。お酒が増えて、夜中にうなされて」

「何を悔やんでいたか、ご存じですか」と黒崎は言った。

「亡くなる少し前に、1度だけ。『颯一くんの件で、謝りに行かなきゃならない人がいる』って」

 黒崎は静かに目を閉じる。

「颯一くんというのは」

「……兄です」と黒崎は言った。

 静江ははっとして口を押さえる。

「亡くなる前の週に、手紙が届いていました。差出人のない手紙で。読んだあと、主人はそれを燃やしてしまって。『会ってくる。全部話してくる』と、それだけ」

「誰に会うと」

「わかりません。その日、主人は競馬に行くと嘘をついて出かけて……」と静江が言った。

 黒崎はうつむく。府中の競馬場にいたという記録だった。自分たちが作ったアリバイを、黒崎は思い出した。

「黒崎さん。主人は事故だったんでしょうか」

 黒崎は答えられない。


 静江は仏壇の下から、荒木の眼鏡を出した。レンズの縁に細かい傷があり、鼻あてが黄色く変色していた。

「事故のあと、これだけ直そうかと思ったんです」

「使う方が」

「いないんです。いないんですけど」

 黒崎は頷いた。止まった時計に触れそうになり、やめた。自分の悲しみを差し出して親しくなる資格はなかった。

 静江は夫が家では料理をしていたことを話した。退職してから覚えた。味噌汁に豆腐を入れすぎる。食べ残すと、翌朝自分で食べる。黒崎の知っている荒木には味噌汁を温める時間がなかった。人の鑑定書に赤鉛筆を入れる指だけがあった。

「ひどいことをした人だったんでしょうか」

 不意に静江が聞いた。

 黒崎は答えを選んだ。人だった、という問いに答えるには自分は荒木の一部分しか知らない。したことについてなら、答えられる。

「兄の事件で、確かめるべきことを、確かめませんでした。俺もです」

 静江は眼鏡を布で包んだ。謝罪の言葉は出なかった。夫の代わりに頭を下げれば、この客は帰るかもしれない。しかし、その頭の下げ方で夫のしたことが何だったかまで決められたくないようだった。

「主人の書類、必要なら見てください。ただ、家の中のことまで全部、嘘だったようには書かないでください」

 黒崎はその頼みを引き受けられるか迷った。

「確かめたことだけ、書きます」

 静江は頷いた。それで10分とは言わなかった。

 机の引き出しには便箋が2枚あった。どちらにも書き出しだけがあった。黒崎君へ。続きはなかった。差出人を隠した手紙は人を外へ連れ出したのに、本名で書こうとした2枚は机から出られなかった。


 黒崎は倉庫の陰に身を潜めた。暗視カメラを構えている。波の音。誰も来ない。9時15分。黒崎はカメラを下ろす。


 次に向かったのは上野だった。黒崎は木立の陰から噴水広場を見張った。噴水の周りをジョギングする男が通り過ぎた。やがて、背広姿の男が2人、ベンチの近くへ現れた。周囲を見回し、耳のイヤホンに手を当てる。黒崎は望遠レンズを向ける。ファインダーの中に、片方の男の顔が入った。中津だ。

 ……警察。

 黒崎はレンズを下ろす。奥歯をかみしめる。


 黒崎はその前に訪れた池袋での出来事を思い返していた。午後8時に訪れたのは池袋の西口公園だった。若者たちが行き交う。黒崎は植え込みの陰にいた。8時ちょうど。黒崎のスマートフォンが震える。画面に「岡野由里子」と表示された。メッセージが1通届いていた。「罠を張るなら、もう少し上手に」黒崎は周囲を見回す。群衆の中、誰がこちらを見ているのか、わからない。続けて、画像が1枚届く。

 そこに写っていたのは植え込みにしゃがむ黒崎の背中だった。たった今の姿に見えた。黒崎は立ち上がり、人混みをかき分ける。誰もいない。誰もが他人の顔で通り過ぎていく。


 午後11時の渋谷で、黒崎は歩道橋へ上がった。足元を車のライトが流れていた。遥が、手すりにもたれて立っている。階段を上がってきた黒崎が、それを見て足を止める。

「誰も来ませんでした。……私以外は」と遥が言った。

「なぜ、ここにいる」

「自分が疑われてる場所くらい、自分の目で確かめたいじゃないですか」

 黒崎は遥の隣に立つ。

「結果は」と遥が言った。

「品川と渋谷は何も起きなかった」

「上野と池袋は」

「上野には警察が来た」と黒崎は言った。

「……飯田さん」

「池袋では誰かが俺を撮っていた」

 遥は言葉を失う。

「池袋は誰に」と遥が言った。

 黒崎は答えない。歩道橋の下を流れていく車の列を見つめている。


 渋谷までの電車で、黒崎は自分を写した画像を何度も開いた。植え込みにしゃがむ背中が、ひどく小さかった。遠くから撮られた写真なのか、もっと近くに人がいたのか。周囲の光の具合だけでは決められない。画像に残っている情報から撮影者を特定できるとは限らない。

 自分が映っていることを、人は自分が見られていること以上に恐れる。写真は見ていた人がそこを離れてからも、視線だけを残す。

 黒崎は携帯を伏せた。電車の窓には自分の顔が重なっていた。池袋の情報を知る者を、琴美だけだと考えた。システムへ登録してくれと頼んだ自分の声はその考えの外にあった。

 歩道橋で遥が待っているのを見つけた時、彼は安心した。誰も来なかった場所に立つ人間を、信用できる気がした。しかしそれも、何も起こらなかったことを無実の証拠として扱っているだけだった。

 遥は彼に缶入りの温かい茶を渡した。

「冷めましたけど」

 黒崎は受け取った。指に少しだけ熱があった。

 疑われた人間から茶をもらうことは疑う側の想像には入っていなかった。


 翌朝、社員たちはいつも通りに出社した。琴美が、明るい声でお茶を配っている。

「黒崎さん、北条さんの件、昨日の夜どうでした? システムには登録しておきましたけど、その後のご連絡がなくて」と琴美が言った。

「……キャンセルになった」

「そうですか。残念」

 琴美は自分の席に戻る。遥が、黒崎の顔を盗み見る。黒崎は表情を消している。


 路地裏の駐車場に、古いセダンが止まっていた。その後部座席に、飯田が乗り込む。運転席には中津がいた。清原は助手席にいた。遠くのビルの陰から、遥がその様子を見ている。黒崎に頼まれたわけではない。自分の判断で、飯田を尾けてきたのだ。


「昨日の上野。お前の情報どおりに張ったが、誰も来なかった」と清原が言った。

「……ガセだったんすよ。黒崎のやつ、最近ピリピリしてて」

「ガセか。それとも、試されたか」

 飯田は黙る。

「黒崎はお前を疑ってる。そう考えたほうがいい」と清原が言った。

「だったら、もう降ります。俺だって、こんな仕事」

「降りられると思うか」

 清原は封筒を差し出す。封筒には厚みがあった。

「今月の分だ」と清原が言った。

 飯田は封筒を見つめる。しばらく受け取らない。やがて、ゆっくりと手を伸ばす。

「黒崎は何をしてる。岡野由里子の件で、何を掴んだ」

 飯田は封筒を握ったまま、窓の外を見る。


 遥は物陰から見ていた。スマートフォンで、車内の飯田の姿を撮影する。シャッター音は消してある。画面に、封筒を受け取る飯田が収まった。遥は震える指で、黒崎に電話をかける。

「……黒崎さん。飯田さんが」と遥が言った。

 電話の向こうで、黒崎が黙って聞いている。

「飯田さんは清原管理官のエスです」

 車のテールランプが、路地の奥へ消えていく。


 黒崎は電話を切った。社長室には明かりをつけていなかった。机の上には4枚のメモが並んでいた。品川、上野、池袋、渋谷と記されていた。黒崎は上野のメモを裏返す。それから、池袋のメモを、長い時間見つめている。そのメモには「伊東琴美」と書かれていた。


 机の紙を裏返すと、飯田の名は見えなくなった。だが事実は何も変わらなかった。黒崎は紙を戻した。順番を変えるだけで、少し考えが進んだ気になる。仕事ではそれを整理と呼んでいた。

 琴美は毎日、誰より早く給湯室の布巾を替えた。自分の机より先に、依頼人の座るソファを拭いた。そうした行為は無実の証拠にならない。黒崎にもわかっていた。わかっているのに、思い出すのはそんなことばかりだった。

 誰も信用できないと言えば、自分だけは疑う側に残れる。黒崎はそれを、孤独だと思っていた。実際には自分を含めて考える仕事を後回しにしていた。

 電話の画面に、遥から送られた写真があった。飯田が封筒を受け取っている。その瞬間だけなら、説明の余地は狭い。受け取るまでに何を言われたか、受け取った金をどこへ持っていくのかは写っていない。

 黒崎は写真を閉じた。明日、本人に聞こうと思った。本人が話すことを信じられるかどうかはその後の仕事だった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。