↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アリバイ株式会社  作者: ぽむぽむ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/8

第3章 報酬のない依頼

写真はテーブルの上に残っていた。そこにいるのは門の前で立ち止まった黒崎だった。

「説明してもらおうか」と清原が言った。

「散歩です」

「世田谷の住宅街を、夜9時に」

「眠れない夜は知らない街を歩くことにしてる」と黒崎は言った。

「ちょうど人が殺された家の前で立ち止まって」

「立派な門だったので」

 中津が鼻で笑う。清原は笑わない。

「門柱のカメラにはお前が9時1分に立ち去る姿も映っている。家の中には入っていない。だから今夜は逮捕しない。だがな」と清原が言った。

 清原は身を乗り出す。

「被害者の夫には完璧なアリバイ。そして被害者の家の前には科捜研出身の映像の専門家。俺にはそれが偶然には見えない」

「刑事さんの見え方まで、責任は持てません」

「明日、任意で署に来てもらう」と清原が言った。


 翌日の取調室でも、黒崎の前に清原が座った。中津が記録を取った。

「岡野由里子とはどういう関係だ」と清原が言った。

「面識はありません」

「では岡野大輔とは」

「ありません」と黒崎は言った。

「お前の兄貴は17年前、目撃証言で有罪になった。覚えてるか。目撃者は何と言ったか」

「……『雨の中、アパートの階段を降りてくる男を見た。顔ははっきり見た』」

「よく覚えてるな」と清原が言った。

「忘れるわけがない」

 ドアがノックされる。宮坂が入ってくる。

「失礼。黒崎さんの弁護人の宮坂です。任意の聴取はここまでにしていただけますか」

「……宮坂先生。検事を辞めてから、ずいぶんと面白い依頼人をお持ちで」と清原が言った。

「清原君も、管理官になって相変わらず思い込みが強い」と宮坂が言った。

 2人は短く視線を交わした。清原が先に顔を背けた。黒崎には、何を知っていて目を逸らしたのか判断できなかった。

「帰ろう、黒崎君」と宮坂が言った。


 庁舎を出て、宮坂と黒崎は並んで歩いた。

「門の前で何をしていた」と宮坂が言った。

「止めるつもりでした。……止められなかった」

「君らしくない」宮坂は黒崎の横顔を見た。「君はこれまで、何かを始める前に必ず結果を計算してきただろう」

「先生。あの名簿のこと、どう思いますか」と黒崎は言った。

「誰かが君を兄さんの事件に引き戻そうとしている。君が冷静さを失うのを狙っている。乗るな」

「もし、兄の事件に関わった人間が殺されているとしたら」

「それでも乗るな。それこそが、相手の筋書きだ」と宮坂が言った。

 宮坂は迎えの車に乗り込む。ドアが閉まる。


 車が見えなくなるまで、黒崎は庁舎の玄関前に立っていた。取調室より外のほうが息苦しい。中では答えないという行動を選べた。外では何もしないことにさえ、自分で責任を持たなければならなかった。

 携帯電話には琴美から着信があった。折り返すと、昼食を取ったかと聞かれた。空腹だった。人が死んでいても、自分が疑われていても、空腹になる。それを琴美に知られたくなかった。

「戻る」

「食べてからでも大丈夫です」

 大丈夫、という言葉が何を指すのか、黒崎にはわからなかった。会社も、仕事も、昨日の自分も、何ひとつ大丈夫ではない。

 駅へ向かう途中、弁当屋の前で立ち止まった。焼き魚が入った弁当を兄はよく買った。隆史は冷めた魚が嫌いだった。兄はいつも、じゃあ唐揚げと交換しよう、と言った。弟に合わせて弁当を選んでいたことには兄がいなくなってから気づいた。

 黒崎は焼き魚の弁当を買った。償いにもならない買い物だった。会社へ持ち帰ると、蓋を開ける前に冷めてしまった。


 鉄の扉の前で、学生服の少年が立ち尽くしている。山辺翼という16歳の少年だった。くしゃくしゃの封筒を手にしていた。階段を上がってきた飯田が気づく。

「なんだ、坊主。ここは塾じゃねえぞ」と飯田が言った。

「……アリバイを、作ってくれる会社ですよね」

 飯田は思わず周囲を見回す。


 翼の前には飯田と琴美が座った。少し離れたデスクで黒崎が書類を見ている。

「母さんが、警察に連れていかれました。三上を殺したって」と翼が言った。

「三上さん、というのは」

「母さんの、彼氏。……彼氏っていうか、うちに住み着いてた男です。酒飲んで、母さんを殴って、俺も殴って」

 翼はテーブルの上に封筒を置く。1000円札が5枚と小銭が出てきた。

「5000円と、少しあります。お年玉、全部です。三上が死んだ夜の11時、母さんは家にいなかったことにしてください」と翼が言った。

「坊主、ここの相場、いくらか知ってるか」

「知りません」と翼が言った。

「通常は20万円以上かかる」と飯田が言った。

 翼の唇が震える。

「足りない分は働いて返します。何年かかってもいいです」

「飯田」

 黒崎は書類から顔を上げずに言う。

「今はそれどころじゃない。お引き取りいただけ」と黒崎は言った。

 翼は泣き出しそうな顔で立ち上がる。


 翼の封筒にはお年玉、とボールペンで書かれていた。字の上を何度も指でこすった跡がある。誰かにもらった時の紙ではなく、自分で分けて保管するための封筒だった。

 飯田は小銭を数えなかった。数えてしまえば、足りないと言わなくてはならない。翼は彼の手を見つめていた。大人が金を数える時の顔を、この少年はよく知っていた。

「母ちゃん以外に、連絡できる人はいないのか」

「先生が、親戚にって。でも、母さんの姉さんはうちに来るなって」

「飯は」

「食べました」

 琴美がすぐに立ち上がった。給湯室に置いてあった袋入りのパンを持ってきて、これは余ってしまって、と言った。翼は断る準備をしていたのに、余ったものの扱いには言葉を用意していなかった。膝に置き、袋の端だけ裂いた。

 黒崎は机で、その音を聞いていた。古い電話線の資料を見ているふりをした。目の前の少年を助けたとしても、名簿の謎は進まない。由里子を死なせた理由もわからない。頭の中で順序をつけることはできた。

 その順序で1番後ろへ置かれた者が、どうなるかも知っていた。

「今はそれどころじゃない」

 口にした瞬間、荒木の声に聞こえた。自分の声なのだから、記憶が間違っていた。黒崎はそう考えた。


 翼は階段を降り始めた。後ろから飯田が追いかけてくる。

「待て」と飯田が言った。

 飯田はポケットから500円玉を取り出す。

「俺はな、迷ったらこいつで決める。表なら受ける。裏なら受けない」

 親指で弾く。コインが宙を舞った。手の甲で受け止め、覆う。ゆっくりと手を開く。出たのは裏だった。翼はうつむく。飯田はコインをポケットにしまう。

「……で、家はどこだ」

「え?」と翼が言った。

「裏でも受ける。今日はそういう気分なんだよ」


 コインを弾いたのは翼のためというより、自分が断れる可能性を残すためだった。裏が出れば断る。そう決めてみると、断った後の少年の背中が浮かんだ。その背中を見たくない、という程度の理由で、飯田は仕事を引き受けた。

 階段の途中にある窓の鍵は壊れていた。風が吹くとがたがた鳴る。翼はその音に肩をすくめた。

「大丈夫だ。窓だ」

 飯田が言うと、翼は恥ずかしそうに頷いた。殴られる人間は音の理由を確かめる前に体を動かす。飯田は探偵だった頃、浮気調査の報告書を渡す部屋で、何度かその動きを見た。撮った写真を渡せば仕事は終わりだった。写真を見た人が、その後どう動くかまでは料金に入っていなかった。

 携帯に元妻から短い連絡が来ていた。病院からの説明日が変わったという。飯田は既読をつけ、今夜電話する、と返した。今夜も電話しなければ、元妻は明日の朝、もう1度同じ連絡を送る。返信のつかない日々を数える仕事を、ずっと彼女にさせていた。

 翼が足を止めた。

「お仕事、大丈夫ですか」

 飯田は携帯をしまった。

「今してる」

 少年の顔に、初めて少しだけ年齢が戻った。


 アパートのドアには規制線のテープの名残があった。飯田と琴美は翼の案内で中へ入った。部屋は荒れていた。割れた食器が残っていた。壁にはこぶしで殴ったような穴があった。

「お母さんは何て供述してるの」と琴美が言った。

「三上と言い争って、突き飛ばしたら、頭を打って動かなくなったって。それで、怖くなって……三上を外に運んで、川沿いに置いてきたって」

「女1人で、大の男を運べるか」

「……」と翼が言った。

「翼くん。その夜、あなたはどこにいたの」と琴美が言った。

 翼は答えない。拳を握っている。

「坊主。突き飛ばしたのはお前だろ」と飯田が言った。

 翼の目から、涙がこぼれる。

「三上が、母さんの首を絞めてたんです。だから、後ろから思いきり押したら、あいつ、棚に頭をぶつけて……そのまま倒れて」と翼が言った。

「それで、お母さんは」と琴美が言った。

「『あんたは部屋にいなさい。何も見なかった。何もしなかった。いいね』って。……気がついたら、三上はいなくなってて、朝になったら母さんが警察に」と翼が言った。

「母ちゃんはお前をかばって自首したわけだ」と飯田が言った。

「だから、母さんのアリバイを作ってほしいんです。母さんが無実になれば……」と翼が言った。

「代わりに、お前が捕まる」と飯田が言った。

「それでいいんです!」と翼が言った。

 飯田は何も言えなくなる。琴美が、翼の肩にそっと手を置く。

「……飯田さん。ちょっと、おかしくないですか」

「何が」と飯田が言った。

「お母さんは三上さんを『川沿いに置いてきた』と供述してる。でも、ニュースでは三上さんの遺体は国道沿いの歩道で見つかったと」と琴美が言った。

 飯田の目つきが変わる。


 台所には4人分ほどの食器があった。実際に暮らしていたのは3人だった。欠けた縁のある茶碗を、翼は流し台の奥へ押し込んだ。誰のものか、飯田は尋ねなかった。

 香織が逮捕された時、警察は冷蔵庫の中を閉めて帰った。電気を止める人はいなかった。冷蔵庫の扉には翌週の安売り広告が貼ってあった。鶏肉の値段に赤い丸がある。母親は来週も、この部屋で何かを作るつもりだった。

 翼は何を話せば母が助かるかを尋ねた。琴美は助かる話を作るのではない、と言った。その言葉が自分の職場では使えないことに気づき、少し黙った。

「覚えているところから。わからないところはわからないでいい」

 翼はまず、テレビの音が大きかったと言った。三上が音量を上げた。母が隣に聞こえると言った。そこで言い争いになった。だがその順番も、話しながら変わった。

 飯田は口を挟まなかった。探偵の仕事では聞きたい場面に早く着こうとして、相手の記憶を急がせる。急がせれば、隙間は相手が埋めてくれる。気まずさをなくすために、人は見ていないことまで話す。

 翼の言葉が途切れたところで、琴美は水を出した。

「母さん、俺を部屋に入れたあと、外に出ました。音がして。俺、ずっと布団かぶってた」

「三上さんを運ぶところは見た?」

 翼は首を振った。

「朝に聞いた。母さんが運んだって。だから」

 だから、そうだったのだと理解した。琴美はノートに、本人は見ていない、と書いた。

 飯田は部屋の入口を見た。重い男を外へ運ぶなら、何かに乗せるか引きずる必要がある。できないとは言えない。しかし、そうしたと決める資料も、今はない。

 少年が嘘をついているかどうかより先に、自分たちが何を知っていないかを数える。こんな当然の仕事を、飯田は長く忘れていた。


 翌日、飯田はトラックの行き交う国道へ向かった。歩道の植え込みに、小さな花束が置かれている。飯田は周囲を歩き回り、ビルの入口や駐車場を1つずつ見上げる。

「警察は母ちゃんの自白で満足して、ろくに調べてねえ。……なら、まだ残ってるはずだ」と飯田が言った。

 コインパーキングの前で立ち止まる。軽トラックが止まっていた。フロントガラスにはドライブレコーダーがついていた。


 作業着姿の中年男が、軽トラックの横で飯田と話している。

「ああ、あの夜もここに停めてたよ。録画? ずっと回しっぱなしだけど」と中年男が言った。

「見せてもらえねえかな。礼はする」

「礼なんかいいよ。ニュース見て、気になってたんだ」


 その夜、真帆のモニターにドライブレコーダーの映像が映し出された。国道沿いの歩道を、男が千鳥足で歩いてきた。三上だった。頭を押さえているが、確かに自分の足で歩いている。

「三上さん……生きてる」と琴美が言った。

「11時41分。翼くんが突き飛ばしたのは11時ちょっと前って言ってたよね」

 画面の中、三上がふらつき、車道に一歩はみ出す。次の瞬間、ヘッドライトが三上を飲み込む。ブレーキ音はない。白いワゴン車がそのまま走り去る。真帆は映像を止める。

「……ひき逃げだ」

「三上はその時点では生きて歩いている。その後、車にはねられた。部屋を出た時の詳しいことはまだわからない」と飯田が言った。

「お母さんは三上さんを運んでなんかいない。たぶん、目を離した隙に三上さんがいなくなって、翼くんのせいで死んだと思い込んだ」と琴美が言った。

「で、息子をかばって嘘の自白」と飯田が言った。

 黒崎が、いつの間にか後ろに立っている。

「この映像に、手は加えたか」と黒崎は言った。

「一切。元データのまま」と真帆が言った。

「なら、偽のアリバイを作る必要はない」と黒崎は言った。

「ああ。作る必要のない、実際に起きたことの記録だ」と飯田が言った。


 画面の中の三上が立って歩いたからといって、翼の押した行為と死亡との関係が、それだけでなくなるわけではなかった。遥はすぐに、その点を言った。頭の傷が歩行に影響した可能性もある。死因については医師の判断が必要だ。

 飯田はせっかく見つけた映像を否定されたような顔をした。

「それでも、母ちゃんが殺して運んだって話は違うだろ」

「違う部分がある。それを、正確に届けます」

 琴美は香織の弁護人を調べて連絡した。初めの電話では警戒された。アリバイを作る会社という名は出さなかったが、民間の調査員が急に映像を持ち込むという話そのものが、信用を要した。

 真帆は元の記録媒体を預かっている人の氏名、受け取った日時、複製した手順を書いた。見やすく補正した映像は別にした。元データには触れない。会社の机の上で、その2つを並べて保存するのはひどく不思議な作業だった。いつもは見やすくしたほうだけが、外へ出た。

 翌日、ドライブレコーダーの持ち主は弁護士と警察に事情を話した。通行経路が照合され、別の車の記録から白いワゴン車の捜査が進んだ。香織の言葉も録り直された。捜査は1本の映像で終わるほど簡単ではなかった。

 翼は待つことになった。助かった、と誰も言ってくれない数日を、琴美の紹介でつながった支援先の人と過ごした。夜になると会社へ電話が来た。新しい情報がなくても、飯田は出た。

「まだか」と翼が聞く。

「まだだ」と飯田は答える。

 何もしていないように思えるその会話が、嘘を渡さずに続けられる、今の仕事だった。


 数日後、警察署から山辺香織が出てきた。翼は母へ駆け寄った。2人は言葉もなく抱き合う。少し離れた電柱の陰で、飯田がそれを見ている。翼が気づき、駆け寄ってくる。くしゃくしゃの封筒を差し出す。

「これ。約束の」と翼が言った。

 飯田は封筒を受け取り、中を確認する。それから、翼の学生服の胸ポケットにねじ込む。

「うちの会社はな、作ったアリバイにしか金を取らねえんだ。今回は何も作ってない」

「でも」

「その金で、母ちゃんにうまいもんでも食わせてやれ」と飯田が言った。

 飯田は背を向けて歩き出す。ポケットの500円玉を取り出し、空に弾く。手の中へ戻して、そのまま歩いていく。


 香織が外へ出られるまでには映像を提出してからも確認が続いた。事件の捜査は続いており、翼についても、暴力から母を守ろうとした経緯を含めて事情を確かめる必要があった。誰にも、全部終わったとは言えなかった。

 抱き合った母子はしばらく離れなかった。飯田はその姿を電柱の陰で見ていた。写真に撮れば、仕事が成功した証明になる。撮らなかった。

 香織は飯田に礼を言おうとして、途中で、息子には自分が話したことをどこまで伝えたのか、と尋ねた。

「運んでないことは話した」

 香織は唇を噛んだ。

「この子が捕まると思って。私が言えば、私だけで済むと思って」

 翼が、なんでだよ、と言った。声に怒りがあった。抱き合えばすべてが元に戻るわけではない。母の嘘は息子を救おうとして、息子に別の嘘を買わせようとした。

「母さんがいなくなったら、俺、どうすんだよ」

 香織は答えられなかった。

 飯田は2人に弁護士の連絡先を渡した。住まいと暮らしの相談は自分では支えきれない。料金を取らなければ善い仕事になるのではない。仕事を引き継ぐところまでしなければ、少年はまた、このビルの階段へ戻ってくる。

 帰り道、飯田はコインを弾いた。落としかけ、慌てて拾った。500円は今も500円だった。拾い上げた指に砂がついた。払いながら、自分は格好のつく人間にはなれない、と可笑しくなった。

 その夜、元妻へ電話した。金は今月も用意する、と言いかけて、病院で何を言われたのかを先に聞いた。説明は長かった。飯田は途中で1度、わからない箇所を聞き返した。元妻は珍しいね、と言った。責める声ではなかった。それがかえって痛かった。


 黒崎と遥だけが残っていた。

「あの夜、なぜ岡野さんの家に行ったんですか。本当のことを」と遥が言った。

「止めたかった。依頼を受けた時から、ずっと」

「なら、なぜ受けたんですか」

「あの人が、俺の名前を呼んだからだ。『あなたにしか頼めない』と」と黒崎は言った。

「……」

「兄が逮捕された夜も、俺は門の前で立ち尽くしてた。何もできずに。17年たっても、同じだ」

 遥は何か言いかける。琴美が、郵便物を持って入ってくる。顔色が悪い。

「黒崎さん。……配達日指定の郵便です。差出人は」と琴美が言った。

 封筒の裏に差出人が記されていた。丁寧な文字だった。「岡野由里子」消印は10月20日。由里子が殺された日だった。


 全員が集まる。黒崎が封を切る。便箋が1枚と、小さな鍵が1つ。黒崎が読み上げる。

「『黒崎隆史様。この手紙があなたに届く頃、私はもうこの世にいないと思います。あなたに直接お話しする勇気が、最後まで持てませんでした。どうか、東京駅八重洲口のコインロッカーに預けた荷物を受け取ってください。番号は2050です』」と黒崎は言った。

「2050……」

「『あなたには知る権利があります。そして私には償う義務がありました。岡野由里子』」

 黒崎は鍵を握りしめる。


 東京駅八重洲口の通路には夜の人波がまだ残っていた。黒崎と遥は鍵に記された管理会社へ連絡し、保管期限を過ぎて移された荷物を、確認の手続きを経て受け取った。受付で渡された古い茶封筒には2050というロッカー番号が控えられていた。黒崎は封筒を両手で受け取った。


 封筒から黄ばんだ紙の束が出てきた。証人尋問調書の写しだった。表紙に「黒崎颯一被告人 第4回公判 証人尋問調書」。

「これ……お兄さんの裁判の」と遥が言った。

 黒崎はページをめくる。黒崎は証人の名前の欄を見た。「証人 戸川由里子」

「戸川……」

 さらにページをめくる。証言の一節に、赤いペンで線が引かれている。「雨の中、アパートの階段を降りてくる男を見ました。顔ははっきり見ました。被告人に間違いありません」その余白に、赤い文字でひと言だけ。「嘘」遥が息をのむ。

「戸川由里子……旧姓、ですか」

 黒崎は答えられない。調書の最後のページに、古い写真が1枚、クリップで留めてある。17年前の由里子だった。その隣には若い男が笑って立っていた。岡野大輔だ。

「岡野由里子は……」と黒崎は言った。

 黒崎の声が、通路に低く響く。

「兄を見たと証言した、あの目撃者だった」

 構内アナウンスが、終電の発車を告げている。黒崎は写真の中で笑う由里子を見つめている。その頃だった。


 戸川由里子という名は黒崎の記憶に最初からあった。婚姻後の姓で現れた44歳の女を、その名へ結びつけられなかった。17年は人の顔を変える。黒崎は自分だけが変わっていないつもりだった。

 写真の由里子は笑っていた。目撃者の顔に笑顔があることを、初めて知った。裁判で会った時は顔を伏せていた。証人の恐怖に配慮する措置があり、黒崎が正面から見た時間は短かった。彼女の声を、台詞としては覚えていた。人の声としては覚えていなかった。

 遥は証言の余白の赤い字を見た。嘘、と書くだけなら短い。だがこの人はその2文字を書けるまでに17年かかった。

「なぜ、その時に言ってくれなかった」

 黒崎は写真へ向かって言った。

 遥は黒崎のほうを見なかった。同じ問いを、彼へ向ける日は近づいていた。

 駅の掃除の人が、ベンチの前へ来た。2人は足を上げた。モップが床を滑り、足跡を薄くしていった。黒崎は証言の紙を畳んだ。自分たちも帰らなければならない。由里子が死んだことを知ってから、街のほとんどの人が、この事件の続きとは別の時間を生きていることに驚かされていた。

 帰るために改札へ向かう途中で、遥が立ち止まった。

「ロッカーの保管期間を過ぎて、管理窓口へ移されていたら、受け取れなかったかもしれませんね」

 実際、彼らが荷物を受け取ったのは鍵を示して利用日の確認を受けた後だった。死者の仕掛けはいつでも予定どおりに動くわけではない。その不確かさを越えて手元へ来た紙を、黒崎は鞄の奥へ入れ直した。


 記録の保管場所は棚の奥にあった。清原が1人、鍵のかかった古い段ボール箱の前に立っている。箱には事件名のラベルが貼られていた。「平成21年 世田谷区アパート女性殺害事件」。清原は箱に手をかけ、しばらく動かない。やがて、箱から手を離し、明かりを消して出ていく。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。