第2章 赤い丸
翌朝、ブラインドの隙間から光が入った。ソファで眠ってしまった真帆が、黒崎の気配で飛び起きる。
「うわ、社長。……え、ずっといたの?」と真帆が言った。
黒崎は一睡もしていなかった。スマートフォンを真帆に差し出す。
「昨夜の着信だ。通話は自動で録音してある。解析してくれ」
「着信って、誰から」
「岡野由里子」と黒崎は言った。
真帆の手が止まる。
全員が出社している。モニターには音声の波形が並んでいた。
「流すよ」と真帆が言った。
「黒崎さん。次はあなたが誰かを殺す番です」
飯田は思わず十字を切る真似をする。
「やめろよ、朝から」
「……本物の、由里子さんの声です。私、受付で話しましたから」と琴美が言った。
「声は本物。でも、生じゃない」と真帆が言った。
「どういうこと」と遥が言った。
「録音を再生してる。それも、編集済みのやつ。ここ見て」と真帆が言った。
真帆は波形の一点を拡大する。
「『黒崎さん』と『次は』の間、部屋の残響が変わってる。別々の音をつないだ可能性がある。それから『番です』の直前、息継ぎが不自然に0.3秒だけ切れてる。そこで音を切った可能性がある」と真帆が言った。
「削られた言葉は戻せるか」と黒崎は言った。
「元の音源がないと無理。……でも、元の音源はどこかにある」と真帆が言った。
「発信元は」と飯田が言った。
「由里子さん本人の番号。で、問題は場所」と真帆が言った。
真帆は地図を表示する。自分たちの事務所の位置だけが印されている。
「通信会社の記録は私たちには見られない。番号の表示だけでは誰がどこから発信したかまではわからない」と真帆が言った。
全員が黙った。どこからかけられたのか、わからないことが不気味だった。
「……こちらの情報を知られている」と遥が言った。
真帆は録音を止めたあと、ヘッドホンを外さなかった。耳を覆ったままのほうが、部屋にいる人間の顔を見ずに済んだ。
音声の傷は映像の傷より見つけにくい。人は声を聞くと、意味へ先に行ってしまう。誰の声か、何を言ったか。真帆の仕事はそれをいったん脇へ置くことだった。どこで息を吸い、机が鳴り、空調が回ったか。話の内容に関係のない音が、話の来た場所を覚えている。
しかし、来た場所がわかることと、語った意味がわかることは違う。切れ目があっても、編集が悪意によるとは限らない。ニュースも結婚式の映像も、長い沈黙を削る。真帆は自分の説明が、仲間に都合のよい確信へ変わる前に、それを付け加えた。
「この人が脅した、という読み方しかできない音ではない。それだけ。今言えるのは」
飯田が不満そうに鼻を鳴らした。答えを知りたかったのだ。真帆も知りたかった。だが、答えのほしい顔に囲まれると、音の切れ目は実際よりはっきり見えてくる。テレビ局にいた頃、その現象を何度も経験した。
黒崎は黙ってノートを開き、仮説、と書いた。いつもなら丸をつけるところに、何もつけなかった。
琴美が冷めたお茶を下げようとすると、真帆はカップを握った。まだ飲む、と言ったが、口はつけなかった。中の液体がわずかに震えていた。
ホワイトボードには赤い丸をつけられた4人の名前が並んでいた。それぞれの下に、依頼内容が書かれていた。
「1人目。荒木敏夫さん、当時66歳。2年前の3月、依頼内容は『妻に内緒で府中の競馬場にいたことにしたい』。実際には新宿で人と会う予定だったと」と琴美が言った。
「で、その日の夜に西新宿駅の階段から転落死」
「2人目。沢井義明さん、当時70歳。弁護士です。昨年6月、『赤坂で人と会っていた時間を、自宅で仕事をしていたことにしてほしい』。その夜、自宅の浴室で溺死。事故として処理」
琴美の声が、わずかに震える。遥がそれに気づく。
「3人目。須貝達郎さん、当時57歳。今年4月。『夜釣りに行っていたことにしてほしい』。2日後、多摩川の下流で発見。当時は釣りの最中の転落事故と扱われた」と琴美が言った。
「全員、誰かと会う予定を隠したがっていた」
「で、うちはその通りにした。その人たちが実際に歩いたルートの防犯カメラは私が差し替えた」と真帆が言った。
真帆は自分で言って青ざめる。
「……あ」と真帆が言った。
「そうだ」と黒崎は言った。
黒崎はホワイトボードに線を引く。それは依頼人が実際に移動した道筋だった。その線上に、×印をいくつも書き込む。
「俺たちは依頼人の足跡の一部を消した。本当に向かった場所を調べる手掛かりを減らし、別の場所へ調べを向けた」と黒崎は言った。
「つまり……」と飯田が言った。
「依頼人と一緒に歩いていた人間も、映像から消えている」と黒崎は言った。
誰も口を開かなかった。
「犯人は依頼人を呼び出した。誰にも言えない形で。依頼人は自分の行動を隠すために、ここに来た。そして私たちが、犯人ごと、その夜を消した」と遥が言った。
「私の作った映像の中で、人が殺されてた……」と真帆が言った。
「待て待て。犯人はなんで、依頼人がうちに頼むってわかるんだよ。全員がうちを知ってたわけじゃないだろ」と飯田が言った。
「4人とも、紹介者の欄が空白でした」と琴美が言った。
「誰かが、うちを教えた」と黒崎は言った。
黒崎は古い段ボール箱から、色褪せたファイルを取り出す。表紙に「黒崎颯一 公判記録」。遥が戸口に立っている。
「それは」と遥が言った。
「兄の事件の記録だ。17年前の」
黒崎はページをめくる。ある名前で指が止まる。
「弁護人、沢井義明」
「……2人目の」と遥が言った。
「兄の国選弁護人だ。1回しか面会に来なかった」
さらにページをめくる。捜査報告書の署名欄で、指が止まった。
「捜査担当、清原誠二。須貝達郎」
「3人目……」と遥が言った。
「須貝は当時の清原の相棒だ。兄を取り調べた刑事だよ」
黒崎はファイルを閉じる。
「科捜研の荒木。弁護人の沢井。刑事の須貝。全員、兄の事件に関わった人間だ」
「じゃあ、岡野由里子さんは」と遥が言った。
「わからない。記録のどこにも、その名前はない」
「そして最後に、黒崎さんの名前」
黒崎は答えない。
「黒崎さん。これはお兄さんの事件の、復讐です」と遥が言った。
「……誰の」
遥は言葉に詰まる。黒崎はファイルの上に手を置く。
「兄のために復讐する人間がいるとしたら、それは俺だ。警察も、そう考える」
公判記録の箱は底が抜けないように荷造り紐で縛ってあった。黒崎は紐をほどかず、上の隙間から必要なものだけ抜き取っていた。箱をすっかり開けると、何かがまた始まってしまう気がした。
遥は判決文より先に、証拠の一覧を読んだ。そこには人の名前と物の名前が、同じ大きさの活字で並んでいた。衣類、血液型鑑定、携帯電話の履歴、証人の供述。人間が並ぶと、黒崎には兄を責める列に見えた。遥には互いの足りない部分を隠し合う列に見えた。
「単独で、何かを決められる証拠はあったんですか」
「決め手は由里子の目撃だった。兄の供述には矛盾があるとされた。コンビニの時刻も、その1つだ」
「凶器は」
「特定できていない。現場にあったものが使われた可能性もある、と」
遥は判決文をめくった。元交際相手であったことが、現場に兄の痕跡があっても不自然ではない理由になるはずだった。それは動機の説明へ組み込まれていた。訪ねたことを認めれば接近の証拠となり、帰ったと言えば不合理な弁解となる。
黒崎は兄が取り調べで語ったという文章を何度も読んでいた。口調は兄ではなかった。颯一は「交際関係の解消に納得していた」とは言わない。「もう別れてた」で済ませる。だが調書の最後には兄の署名があった。文字の輪郭だけは手紙に書かれたものと同じだった。
誰かの文章の下へ名前を書く。その簡単な動作を、弟もした。
判決のあと、黒崎は沢井に会いに行った。弁護士は鞄の中から、控訴についての説明を出した。隆史が尋ねたのはどうすれば兄の話を聞いてもらえるか、ということだった。答えは手続きの名前だった。沢井が冷たかったのか、疲れていたのか、今はもう決められない。決められないまま、その顔だけを憎んできた。
「これを見て、兄が犯人だと思うか」
黒崎が聞くと、遥はすぐには答えなかった。
「これだけで、そう決めたことは怖いと思います」
欲しかった答えとは違った。だからこそ、黒崎はその言葉を長く覚えていることになった。
琴美が慌てて入ってくる。
「黒崎さん。新しいご依頼の方が。……紹介者の欄が、空白です」と琴美が言った。
全員が顔を見合わせる。
応接の椅子に、老人が背筋を伸ばして座っていた。沼田重光と名乗った。仕立てのいいツイードのジャケットを着ていた。
「沼田と申します。元は裁判所におりました」と沼田が言った。
黒崎の顔がこわばる。沼田はその表情に気づかないふりをする。
「今週の金曜、午後10時から1時間ほど、ある人物と会います。その時間、私は自宅で書斎にこもっていた、ということにしていただきたい」
「会う相手は」
「申し上げられません」と沼田が言った。
「なぜ、うちに」
「人づてに。……手紙が届いたのです。ここなら、誰にも知られずに済むと」
「その手紙は」と黒崎は言った。
「処分しました。そうするよう、書いてありましたので」
黒崎は静かに息を吐く。
「沼田さん。17年前、東京地裁で、黒崎颯一という男の公判を担当されましたね」
沼田は初めて黒崎を正面から見る。長い沈黙が続いた。
「……あなたが、弟さんでしたか」と沼田が言った。
「無期懲役の判決を言い渡したのはあなただ」
「ええ」
「兄は2年後、獄中で死にました」と黒崎は言った。
「存じています」
遥が口を挟もうとするのを、黒崎が手で制する。
「お引き受けします」
「黒崎さん!」と遥が言った。
「ただし、条件があります。金曜の夜、あなたが会う場所を、教えてください」と黒崎は言った。
「それでは依頼の意味が」と沼田が言った。
「あなたが殺されないための条件です」と黒崎は言った。
沼田の目が、わずかに見開かれる。
沼田は出された湯飲みの蓋を置く場所に迷った。法律家を名乗っていた時間のほうが、名乗らなくなってからよりはるかに長い。それでもここでは正しい置き場所がわからなかった。
黒崎はその指先を見ていた。この指が判決文の紙をめくった。兄を無期懲役にした裁判長が、今、茶をこぼさないように気をつけている。
「覚えていらっしゃるんですね。兄のことを」
「記録を読み直しました」
「覚えていたのではなく」
沼田は蓋から手を離した。
「そうです」
黒崎は殴りたくなるほどの怒りを予想していた。実際に来たのは軽い吐き気だった。兄の事件は誰かの記憶から取り出されるものではなく、書庫から取り寄せるものだった。
「ただ、判決を言った時の、弟さんの顔は覚えていました。傍聴席の後ろにいましたね」
「それで何か変わりますか」
「変わりません」
沼田は言い訳をしなかった。それが黒崎にはかえって身勝手に感じられた。反論を用意して来たのなら、相手を倒すことができる。今の沼田は椅子に座って自分の無力を差し出しているだけだった。
琴美が入口で立ち止まっていた。父の名前を聞いていたのだが、そのことを誰も知らなかった。沼田は彼女へ小さく会釈した。琴美は会釈を返し、カウンターへ戻った。戻ってから、茶葉を入れる缶の蓋を3度閉め直した。
沼田を帰す時、黒崎は手紙を処分した理由をもう1度尋ねた。老人は恥ずかしかった、と答えた。
「誰にも知られずに謝れる方法が、残っていると思ったんです」
黒崎は会社の扉を見た。依頼人たちはいつも、誰にも知られない入口を望んだ。謝るためにも、隠れる場所が要るのか。それとも、知られずに済ませたいものは謝罪ではなく、自分が謝罪しなければならない人間だという事実なのか。
沼田は階段の手すりを両手でつかんで降りた。黒崎は助けなかった。
その夜、黒崎はホワイトボードの前に立った。全員が黒崎を見ている。
「で? 元裁判長様のために、いつもどおりカメラを差し替えるのか」と飯田が言った。
「逆をやる」
「逆?」
「今まで俺たちは依頼人の足跡を消してきた。今回は全部残す。沼田さんが歩くルートのカメラは一切いじらない。それどころか、俺たちのカメラも足す」と黒崎は言った。
「犯人にとっての逃げ道を、塞ぐってことね」と真帆が言った。
「犯人はうちが足跡を消すと思って沼田さんを呼び出している。消えていなかったら、どうする」と黒崎は言った。
「現場で慌てる。慌てた人間は顔を上げる」と飯田が言った。
「その顔を、撮る」と黒崎は言った。
「私も行きます」と遥が言った。
「高瀬は外れろ。元警察官が現場にいたら、言い訳がきかない」と黒崎は言った。
「元警察官だから行くんです。人が殺されるかもしれない場所に、カメラだけ置いて見てるなんてできません」と遥が言った。
黒崎と遥、しばらくにらみ合う。
「……飯田と組め。絶対に1人で動くな」と黒崎は言った。
作戦という言葉を使い始めると、人を危険な場所へ連れていくことが仕事に見えてくる。遥はホワイトボードの矢印を見ながら、そのことを考えた。沼田を示す丸だけ、本人の歩く速さを持っていない。
「現場へ出す前に、危険を説明します。嫌だと言えば中止です」
黒崎は頷いた。
「もう了承は取った」
「了承と覚悟は別です。元裁判官だからって、夜の倉庫に立つことに慣れてるわけじゃありません」
飯田が、まあそうだ、とつぶやいた。
遥は沼田へ電話した。遠くでテレビの音がした。待ち合わせ場所へ行く必要はない、警察に届ける方法もある、と説明した。沼田は警察へ行けば自分の過去の判断も調べられますね、と言った。
「その可能性はあります」
「私はまだそれを恐れている」
声は落ち着いていた。その落ち着きが、遥には哀れだった。自分の怯えを他人事のように説明できる人が、恐れの外へ出られるとは限らない。
結局、沼田は行くと言った。遥は暴行や危険があれば直ちに通報する、相手を捕まえるために待たせることはしない、と伝えた。電話を切ってから、黒崎にも同じことを言った。
黒崎はカメラの位置を1つ減らした。代わりに、飯田の退避経路を太く描いた。
撮れるものが少なくなる。遥はその線を見て、初めて今夜の計画を少し信用した。
晴海の倉庫街には海風が吹いていた。人の姿はなかった。オレンジ色の街灯がまばらに並ぶ。沼田はコートの襟を立てて歩いた。少し離れた物陰に飯田と遥が待機していた。イヤホンをつけている。
「沼田さん、第3倉庫前。街灯カメラ3台、うちの小型カメラ4台、全部生きてる。死角はないよ」という真帆の声が聞こえた。
「相手は必ず、カメラの死角を知っているつもりで来る。そこが穴だ」
会社では黒崎、真帆、琴美がモニターを見守っていた。画面の中の沼田が、腕時計を見る。
「9時58分」と琴美が言った。
沼田は第3倉庫の前で立ち止まる。午後10時。何も起きない。波の音だけが聞こえた。10時3分。10時5分。
「……来ねえな」と飯田が言った。
「気づかれた?」
その時、倉庫の裏手からエンジン音が近づいた。ヘッドライトを消した車が、ゆっくりと近づいてくる。
「車1台! ナンバー、見えない。ライト消してる」
車が沼田の数メートル手前で止まる。運転席のドアは開かない。沼田は一歩、車に近づく。
「止めろ」と黒崎は話した。
遥が物陰から飛び出す。
「沼田さん、下がって!」と遥が言った。
瞬間、車のヘッドライトが一斉に点灯する。強烈な光が向けられた。遥の視界が真っ白になる。車はタイヤを鳴らして急発進した。沼田の脇をかすめるようにして、闇へ消えていく。飯田が転んだ沼田を抱き起こす。
「大丈夫か、じいさん!」と飯田が言った。
「……ええ。ええ」と沼田が言った。
「だめ、逆光で運転席が飛んでる! ナンバーも……」と真帆が言った。
黒崎は画面をコマ送りにする。白い光の奥に、運転席の影が沈んでいた。ほとんど何も見えない。ただ、フロントガラスの内側、ルームミラーに何かがぶら下がっている。小さな四角い影だった。
「拡大」
「これ以上大きくしても、元にない細部は出ない」
「いい。保存しろ」と黒崎は言った。
沼田はベンチに座った。手が震えている。遥と飯田がその前へ立った。
「会う相手は誰だったんですか」と遥が言った。
「……わかりません。手紙には『17年前の公判について、あなたに伝えたいことがある』とだけ」
「それで、のこのこ」
「私はずっと待っていたのかもしれません。誰かが、そう言ってくるのを」と沼田が言った。
遥は沼田の顔を見る。
「黒崎さんに、伝えていただけますか」
「ご自分で」
「いいえ。合わせる顔がない」と沼田が言った。
沼田は海を見つめる。
「あの公判で、たった1つだけ、私の中で引っかかった証拠がありました。弁護側が最後まで争おうとして、結局、取り下げた証拠です」
「何ですか」
「12分です」と沼田が言った。
「……12分?」
「それ以上は私の口から言うべきことではない。言う資格もない」
沼田は立ち上がり、ふらつきながら歩いていく。
救急隊が去ったあとも、沼田の膝は震えていた。擦り傷に貼られた白いガーゼが、街灯の下でひどく大きく見えた。
遥は通報内容を確認しに来た警察官へ、自分の氏名と連絡先を告げた。飯田は少し離れて煙草をくわえたが、火はつけなかった。無断で置いたカメラについての説明は残った。助かったからといって、今夜のやり方が正しかったことにはならなかった。
「12分というのは時計の誤差ですか」
遥が尋ねると、沼田は海のほうを向いたまま頷いた。
「弁護人が、補充の調べをしたいと言っていました。次の期日には撤回した。私が聞き直すべきでした」
「なぜ、さっき全部話さなかったんですか」
沼田は膝の上で手を重ねた。
「当時の自分と、今の自分を、分けようとしたんでしょう」
風が強くなった。飯田が、もう帰ろう、と言った。
沼田は鞄から折った紙を出した。呼び出しの手紙を書き写したものだった。原本を処分しながら、文面だけは残していた。元裁判官の用心なのか、往生際の悪さなのか、本人にもわからなかった。
そこには颯一という名はなかった。「あなたが知っていて採らなかったことについて」とだけ書かれていた。脅しは相手の知らない秘密よりも、相手だけが知っている後悔を使ったほうがよく届く。
遥は紙を透明な袋へ入れた。沼田の写しでは筆跡の比較はできない。届いた封筒も残っていない。それでも、何もなかったことにしないために預かった。
帰りの車内で、飯田が言った。
「じいさんがああなるとは思わなかった」
「死にかけたからですか」
「違う。帰りたいって言ったことだよ」
遥は横顔を見た。
「そりゃ帰りたいでしょう」
「裁く側の人間はそういうことを言わねえ気がしてた」
飯田は窓を少し開けた。潮の匂いが入ってきた。
「家があるんだよな。あの人にも」
遥は返事をしなかった。父も、警察署から帰ってきた時、家の鍵をうまく差し込めずにいた。その場面を17年ぶりに思い出していた。
遥と飯田は会社へ戻った。黒崎に報告している。
「12分。そう言ってました」と遥が言った。
黒崎は無意識に左手首の止まった時計に触れる。遥はその仕草を見逃さない。
「心当たりがあるんですね」
「……ない」
「嘘です」と遥が言った。
黒崎は背を向ける。そのとき、鉄の扉が乱暴にノックされる。全員が凍りつく。琴美がモニターでドアカメラを確認し、息をのむ。
「……警察です」
12分という数を、黒崎は初めて聞いた人間の顔で聞こうとした。できなかったことは遥の目でわかった。
人は忘れるために、物を捨てる。黒崎は忘れないために持っているつもりだった。しかし、時計を見れば考えたことにできた。文字盤に目を落とすことで、誰にも説明せずに済んだ。持っていることが、思い出す代わりになっていた。
資料室へ入り、引き出しを開けた。兄から来た最後の面会案内があった。面会に必要なものを列挙した紙の裏に、黒崎は当時、仕事の予定を書いていた。兄を訪ねる日より、提出期限のほうを濃く丸で囲っていた。
その紙を裏返した。何度もしてきた動作だった。裏返すたびに、自分のしたことの半分だけが見えなくなる。
扉の外で、遥が誰かと電話をしていた。沼田の帰宅を確認しているらしかった。自宅に着きましたか、傷は痛みませんか。普通の質問だった。黒崎は由里子にそれを1度もしなかった。
清原はソファに腰を下ろした。中津が後ろに立った。黒崎は向かいに座った。
「企業向け防犯コンサルタントにしてはずいぶん夜型の会社だな」と清原が言った。
「忙しいもので」
「今夜、晴海の倉庫街で元裁判官が車に轢かれかけた。通報があってな。現場に、見たことのない小型カメラが4台。誰が仕掛けたんだろうな」
「さあ」と黒崎は言った。
清原は内ポケットから写真を1枚取り出し、テーブルに滑らせる。防犯映像を引き伸ばした、粗い写真だった。夜の住宅街が写っていた。門の前に立つ男の横顔が見えた。黒崎だ。画面の隅のタイムスタンプ。「10/20 21:00」
「世田谷の岡野邸の門柱カメラだ。岡野由里子が殺された夜。死亡推定時刻、午後9時」
黒崎は写真から目を離せない。
「説明してもらおうか。黒崎」
背後で、遥が息を止めている。黒崎はゆっくりと顔を上げる。
「お前はあの夜、なぜ、被害者の家の前にいた」と清原が言った。




