第1章 午後9時の死者
2009年10月。雨は規制線の黄色い帯をくぼませ、結び目から滴っていた。赤色灯が濡れたアスファルトを染めている。アパートの外階段を、黒崎颯一が刑事たちに挟まれて降りてきた。手首には手錠がかかっていた。弟の隆史は、傘も差さずに人垣をかき分けた。職場から着てきた上着は肩まで濡れていた。
「兄貴!」と隆史が言った。
颯一は振り返る。雨に濡れた顔で、弟を見つけ、かすかに笑う。
「隆史。俺じゃない」
「わかってる。わかってるから」
「時計を見てくれ。あの店の時計を」颯一は濡れた前髪を払おうとして、手錠に阻まれた。「お前なら、わかるだろ」
若い刑事・清原誠二が颯一の頭を押さえ、パトカーに押し込む。
「乗れ」
ドアが閉まる。テールランプが雨の向こうに滲んだ。隆史はその場から動けなかった。
部屋の明かりは落とされていた。モニターにはコンビニ店内の粗い防犯映像が映っていた。画面の隅には「21:02」と時刻が表示されていた。颯一がレジの前に背を向けて立っていた。背後から主任の荒木敏夫が書類を投げるように置く。
「明日の朝までに確認メモを出せ。タイムスタンプの正確性。それだけでいい」荒木は提出期限の欄を指でたたいた。
「主任、これは僕の兄です。僕が担当するのは」
「だからお前にやらせるんだ。身内が正確だと言えば、誰も文句は言わん」荒木は冗談のように言い、隆史が笑わないのを見ても言い直さなかった。
荒木は出ていく。隆史は震える手でマウスを握る。モニターの「21:02」が、瞬きもせずに彼を見返している。
書類の右上には受付番号を押すための四角い空欄があった。隆史はそこに兄の顔を見た。顔を番号の下へ押し込めば、自分もほかの職員と同じように、この夜を終えて帰れるのだった。
鑑定担当から外してほしいという申し出は口頭で2度した。荒木はそのたびに、これは正式鑑定の前の内部確認だ、と答えた。内部確認ならば、なぜ署名が必要なのか。隆史は尋ねなかった。尋ねてしまえば、答えを知った自分が残る。
隆史が書いたのは「映像の時刻表示と店内の壁時計の表示は一致している」という1文だった。その下の結論欄には荒木が鉛筆で「時刻の信頼性に問題なし」と記していた。そこだけ字体が違った。鉛筆の線をなぞって打ち込むと、誰が何を確認したのか、その境目まで消えた。
前提欄には「基準時刻との照合」の文字があった。隆史はその欄へ斜線を引きかけ、ペンを持ち直した。時計が2つあることと、基準が2つあることは違う。同じ人間が合わせた時計なら、同じだけ間違える。教科書に載るような単純な話だった。
その時、隣の机の電話が鳴った。誰かが「明日まででいいんですね」と応えた。隆史は、はい、と返す荒木の声を待ったが、聞こえなかった。自分の提出期限だけは今日だった。
兄の顔を思い出そうとした。顔より先に、台所で使っていたスポンジが浮かんだ。颯一は食器を洗うと必ず、スポンジを蛇口の上へ載せた。水切りのためだという。隆史は邪魔だと何度も言った。それでも、兄が泊まりに来た翌朝には黄色いスポンジが蛇口をまたいでいた。
人を殺した手でも、同じことをするのだろうか。
そんな問いが浮かんだことを、隆史は恥じた。恥じたまま画面を見ていた。レジの前で兄が財布を開く。財布の留め具がうまく外れず、爪で押す。知っている動きだった。画面の兄はまだ自分が記録されていることを気にしていなかった。
プリンターが紙を吐き出した。本文より余白の広い書類だった。隆史は手のひらを置いて紙が反らないようにした。こんな薄い紙で人を刑務所まで運べるとは、その時は考えなかった。
訂正する機会は明日もある。隆史はそれを事実のように考え、署名した。明日という日付には、まだ誰の印も押されていなかった。
神田の裏通りに、その築50年のビルはあった。5階建ての1階には閉店した喫茶店の看板が残っていた。郵便受けは5階の欄だけが空白だった。
17年後の神田で、黒崎は湯沸かし器の沸騰を待っていた。安い機械は沸き切る直前になると、誰かが階段を駆け上がってくるような音を立てる。毎朝、扉のほうを見てしまう。今日はまだ誰も来ていなかった。
この部屋を借りた時、仲介業者は階段だけなのが難点です、と言った。黒崎には長所だった。5階に着くまでに、依頼人は少なくとも4度、帰ることを考えられる。帰らなかった人にだけ、彼は椅子を勧めた。
登記上の会社名は黒崎映像技術。企業の記録映像の整理を請け負い、帳簿を作り、税金を払っていた。アリバイ株式会社という名は最初の依頼人が笑って口にしたものだ。笑い話のつもりでつけられた名前が、5年のあいだに仕事の実体となった。琴美が電話を取る時だけは黒崎映像技術です、と言う。その声を聞くと、まだ引き返せる場所にいるような気がした。
窓枠に新聞紙の切れ端が挟まっていた。すきま風を止めようと飯田が押し込んだものだった。日付は去年の冬。黒崎はそれを抜こうとして、やめた。抜いたところを埋めるものを用意していない。
高瀬遥を採用した時も、何かを埋めるつもりだったのかもしれない。面接で遥は違法な仕事には協力しません、と言った。何をする会社か、紹介者から聞いていた。それでも席に着いたのはなぜかと尋ねると、逃げた場所からでも見えるものがあると思ったからです、と答えた。
黒崎は逃げた、という過去形が気に入った。逃げる者は他人を走らせるが、逃げたことを覚えている者はときに足を止めさせる。
採用から3か月たっても、遥は会社の合鍵をつけた輪に、警察官時代から持っている小さな笛を残していた。黒崎が理由を尋ねたことはない。遥も、彼の時計が止まっている理由を尋ねなかった。互いに触れないものを持つ人間は仕事の話だけなら驚くほど円滑にできた。
5階の鉄の扉には看板がなかった。内側の仕事場は外から想像するよりも整っていた。壁にモニターが並び、その脇のホワイトボードを分刻みの時刻表が埋めていた。黒崎隆史は中央の机に座っていた。左手首には針の止まった古い腕時計をつけていた。片岡真帆はモニターの前で椅子を回した。
「はい、浜田さん案件、最終納品でーす。10月3日18時40分、浜田さんは中野駅の改札を出て、駅前の書店で文庫本を2冊購入。レシート、店内映像、交通系の記録、全部そろってまーす」と真帆が言った。
「書店員の証言は」
「取れてるよ」
飯田弘明はソファで缶コーヒーを飲んでいた。
「レジのバイトの子、浜田さんの顔をちゃんと覚えてた。……まあ、覚えるように、俺が3回通わせたんだけどな」と飯田が言った。
受付デスクの伊東琴美がファイルを閉じる。
「浜田さん、さっき電話で泣いてらっしゃいました。電車で痴漢と間違われて、会社にも家族にも信じてもらえなくて。これで示談の脅しには応じなくて済むって」琴美は報告用紙を閉じた。受話器を置いた手の震えは、まだ収まっていなかった。
「本当にやっていない人間にはアリバイが1番効く」黒崎は、浜田から届いた礼のメールを読み返した。
窓際で腕を組んでいた高瀬遥が振り返った。褒められた社員の顔はしていない。
「本当にやっていないなら、作る必要はないはずです」
「やっていないことを証明する方法が、この国にはほとんどない。だから作る」黒崎はカップを持ち上げた。
「それは偽造です。犯罪です」遥はカップの向こうの顔を見ていた。
「知ってる」
黒崎は平然とコーヒーを口に運ぶ。
「入社して3か月になりますけど、まだ慣れません」
「慣れなくていい。慣れた人間から、手が雑になる」
「出た、社長の名言シリーズ。ノートにつけとこ」と真帆が言った。
浜田の案件で、黒崎たちが改変できたのは自分たちと関係のある書店の映像と、その店が出した記録だけだった。交通事業者の内部記録を自由に書き換えられるわけではない。どれほど会社を大きく見せようと、実際の道具は協力者と口裏と、よくできたコピーだった。
その違いを依頼人は知らない。知らないほうがよく眠れる。
浜田は最初の相談で、つり革を持っていました、と7回言った。右手ですか左手ですか、と琴美が尋ねると、8回目には答えられなくなった。両方だった気もする、とつぶやいた。黒崎にはその曖昧さが無実の人間の戸惑いに思えた。遥には、ただ確認を要する曖昧さに見えた。同じ沈黙を、2人は別の意味で受け取っていた。
黒崎はその時、浜田の震える手を見て、引き受けると決めた。手を見ただけで無実を決めたのなら、それもまた、嫌っていた捜査と似ている。遥はそのことを、書類の余白に書いた。
依頼人の説明、裏づけ未確認。
黒崎は消せと言わなかった。ただ、その余白をコピーから外した。
昼前、浜田から礼の電話があった。妻が初めて食卓についたと、何度も言った。会社へ復帰できるかどうかはまだわからない。息子が顔を見て話してくれるかどうかもわからない。それでも朝食が2人分並んだ、その話を聞きながら、琴美は受話器を強く耳に押しつけていた。
電話を切ってから、遥が尋ねた。
「ご本人は書店にいたことに、なっていくんでしょうか」
「どういう意味だ」黒崎は答えを知っているつもりで聞き返した。
「自分の記憶より、私たちが渡した映像を信じるようになるんでしょうか」
黒崎は空になったカップを置いた。浜田が実際に立っていた場所について、自分たちは何も増やしていない。増やしたのは、浜田が人前で話せる筋書きだけだった。
応接用のソファは肘掛けの部分が擦り切れていた。琴美がお茶を出しながら、扉の外を気にする。
「黒崎さん。予約のない方がいらしてます。……ご紹介者の欄が、空白です」と琴美が言った。
「帰ってもらえ。紹介のない客は受けない」
「それが……『黒崎隆史さんに、どうしても』と」
黒崎はわずかに目を上げる。
岡野由里子はソファに浅く腰かけた。仕立てのいいスーツを着ていた。膝の上には色褪せた紙袋を置いていた。かすれたロゴに、「サンエイマート」の文字が読めた。黒崎は向かいに座った。遥と琴美はその横に席を取った。
「この会社のことはある方から伺いました。お名前は申し上げられません」と由里子が言った。
「ご依頼は」
「アリバイを作っていただきたいんです。夫の、岡野大輔の」
「日時は」と黒崎は言った。
「明日。10月20日の、午後9時です」
「その時刻に、何が起きるんですか」
由里子はまっすぐに黒崎を見る。
「私が、殺されます」と由里子が言った。
誰も口を開かなかった。琴美の手が、ペンの上で止まる。
「……殺される、というのは」
「言葉どおりの意味です。明日の午後9時、私は殺されます。そうなれば、真っ先に疑われるのは夫です。私には生命保険がかかっていますから」由里子はそこで息を吸った。「夫が犯人にならないように、その時刻、夫が別の場所にいたという証拠を作ってください」
「待ってください。殺されるとわかっているなら、警察に行くべきです。今すぐ」と遥が言った。
「警察には行けません」と由里子が言った。
「どうして」
「行けないからです」と由里子が言った。
由里子は紙袋から厚い封筒を取り出し、テーブルに置く。
「3000万円あります。足りなければ、おっしゃってください」
「誰に殺されるんですか」
「申し上げられません」と由里子が言った。
「旦那さんではない、と」と黒崎は言った。
「夫ではありません。夫はそんなことができる人じゃない」
「ではなぜ殺されるとわかるんですか」と黒崎は言った。
由里子はふと黒崎の左手首に目を留める。
「その時計、止まっていますね」
「……ええ」
「直さないんですか」と由里子が言った。
「直す理由がないので」
「時計は嘘をつきません。嘘をつくのは時計を読む人です」
黒崎の表情が、ほんのわずかに揺らぐ。
「明日の夜、夫は1人で車を走らせます。火曜の夜はいつもそうなんです。行き先も決めずに、何時間も。だから夫にはアリバイがありません」と由里子が言った。
「……検討します。今日の夕方までにご連絡を」
「いいえ。今、決めてください」
由里子は立ち上がり、深く頭を下げる。
「お願いします。黒崎さん。あなたにしか、頼めないんです」と由里子が言った。
由里子が立ち上がった時、紙袋の持ち手が片方だけ手に残った。切れたわけではなく、留め具から抜けたのだった。琴美が手を差し出すより早く、由里子は袋の底を抱いた。
「古いので」
照れたように言ってから、袋を琴美へ渡した。
「お金を出したら、これは捨てないでいただけますか。持ち手を直して、取りに来ますから」
取りに来る。遥はその言葉を聞き逃さなかった。
「でしたら、明日はここにいてください。ご主人にも来てもらって。お金のお話より先に、安全な場所へ移ることを考えましょう」
由里子はソファの背を指で押さえた。張り地が薄くへこんだ。
「主人を連れてくることはできません」
「お1人でも」
「連れてこられない人を、置いてくることもできないんです」
黒崎はその答えを、夫を愛しているという意味に取った。そう取れば話は簡単になった。夫を守りたい妻が、自分たちの力を借りようとしている。それ以上を尋ねる必要がなくなる。
遥は名刺の裏へ携帯番号を書いた。由里子が受け取ると、その手にはまだ体温があった。
「今夜でも、明日の直前でも、変えていいんです」
由里子は名刺を見つめた。唇が動いたが、声は出なかった。やがてバッグの内側へ差し入れた。その丁寧な動作だけが、遥の申し出への返事だった。
階段を降りる靴音は途中で1度止まった。遥は扉を開けかけた。けれど、靴音はまた続いた。止まった時に開ければよかったと、その後何度も思うことになる。
由里子が帰った後だった。全員がホワイトボードの前に集まる。
「3000万。現金。いい匂いだ」と飯田が言った。
「正気ですか。自分が殺されるって言ってる人の夫に、アリバイを作るんですよ。保険金殺人の片棒を担ぐのと同じじゃないですか」
「でも、本人が夫は犯人じゃないって」
「脅されて言わされてる可能性だってある」と遥が言った。
「……あの方、嘘をついている感じはしませんでした。怖がってもいなかった。むしろ、何かを決めた人の顔でした」と琴美が言った。
「決めたって、何を」と飯田が言った。
「わかりません」と琴美が言った。
黒崎は腕時計を見つめている。
「受ける」と黒崎は言った。
「黒崎さん!」と遥が言った。
「断れば、彼女は別の誰かに頼む。もっと雑な誰かに。俺たちが作れば、少なくとも記録は残る」黒崎は全員を見渡したが、誰からも同意を求めなかった。
扉が開く。仕立てのいいコートの宮坂亮平が入ってくる。
「物騒な相談をしているようだね」と宮坂が言った。
「宮坂先生! いいタイミング」と真帆が言った。
「顧問弁護士はいつもいいタイミングで来るものだよ」と宮坂が言った。
宮坂は契約書に目を通し、胸ポケットから万年筆を取り出す。緑色のインクで、さらさらと署名欄に確認印代わりのサインを入れる。
「前払いという条件は確認した。ただし契約書があるから違法性が消えるわけではない。危険は承知しているはずだ」宮坂は万年筆のキャップを閉じた。
「先生まで」と遥が言った。
「高瀬君。私は元検事だ。この会社が何をしているか、誰よりもわかっている。わかったうえで、ここにいる」宮坂は遥の視線を避けなかった。
宮坂は黒崎の肩に手を置く。
「1つだけ忠告しておく。記録は全部残しておけ。依頼人とのやりとり、作った証拠、関わった人間。いざという時、君たちを守るのは記録だ」宮坂は、守るという言葉をとても穏やかに発音した。
遥は記録という言葉に反応した。黒崎たちが守ろうとするのは依頼人で、宮坂が守ろうとするのは記録なのか。両方だという答えは、何も答えていない気がした。
宮坂は契約書の角を机の辺に合わせて揃えた。正しい位置に紙が収まると、少し安心した顔になった。その仕草を黒崎は頼もしいと思っていた。
「先生のクラウドに、毎晩送ってます」
「よろしい」宮坂はほほ笑み、受領先に自分の名が記されていることを、念のためもう1度確かめた。
岡野邸は静かな住宅街の中にあった。岡野大輔が玄関を出て、車に乗り込んだ。高価なスーツに似合わない、疲れた目をしていた。少し離れた路上の車内で、飯田が双眼鏡を下ろす。
「岡野大輔。IT系物流会社の社長。会社は去年から赤字続き。奥さんにかかってる保険は合計2億」と飯田が言った。
「2億!」
「動機は満点だな。普通に考えりゃ」
飯田からの報告を聞き終えて、黒崎は古い契約書を開いた。最初に偽の記録を渡した相手は運送会社の男だった。配送先で破損した荷物について責任を問われていた。乱暴に積み下ろしたと言われ、賠償を求められ、退職も迫られていた。
男はそんな扱いはしていない、と言った。黒崎が映像を確認すると、荷物が最初から破損していた可能性はあった。しかし、肝心の箇所は台車の陰に隠れていた。黒崎は映像からは断定できない、と答えた。
男は帰らなかった。黙って椅子に座っていた。怒鳴りもしなければ泣きもしない。足元に置いた帽子を、何度も拾っては膝へ載せた。
「断定できないってことを、相手が断定しちゃいけない理由にはできないんですか」
その問いは正しかった。黒崎は相談できる窓口を紹介した。男は頷き、帰った。
数日後、男の妻から電話があった。夫が仕事へ行かなくなった。相談先では資料を揃えるよう言われたが、会社から何を取り寄せてよいかわからない。黒崎は話を聞いた。話を聞くだけでは何も起きないと感じた。
その時、自分の中で何かが切れた、と後に説明したことがある。実際には切れなかった。少し考え、映像を開き、どこを変えればよいかを調べた。冷静だった。時間もあった。
黒崎は台車の陰を、別の時刻に撮られた荷物の像で補った。補正という言葉を使った。何が見えなかったかを明らかにするのではなく、見たかったものを見えるようにした。
男はその映像を会社へ持っていった。話し合いがまとまり、金銭の請求は撤回された。退職はしたが、別の会社へ移れた。後日、菓子折りを持って来た。
「これで飯が食えます」
男はそう言った。黒崎はその言葉を、何度も思い出した。兄が獄中で食べていた食事まで、その言葉で少し償えた気がした。
1年後、黒崎はその男から別の依頼を受けた。今度は倉庫で物をなくした件だった。男は事情を詳しく説明しなかった。前と同じように、うまくしてもらえれば、と言った。
黒崎は断った。男は怒った。前はしてくれたのに、という言葉に、黒崎は自分だけが例外を決められると思っていたことを知らされた。
その後、男がどうなったかは調べなかった。最初の依頼だけを、自分の仕事の始まりとして記憶した。2度目の依頼まで含めると、救った話として使いにくくなるからだった。
契約書を閉じると、飯田から大輔の写真が届いていた。車の窓に映った顔は疲れた経営者にしか見えなかった。疲れている人は嘘をつかない、などと黒崎は思っていない。それでも疲れを見つけると、依頼を受ける理由にできた。
真帆がキーボードを叩いている。モニターには赤坂のホテルのラウンジの見取り図が開かれていた。
「赤坂の『ホテル・ノクターン』最上階のバー。ここのバーテンダーの松井さんはうちの古い協力者。明日の21時前後、岡野大輔さんはカウンターの端の席でウイスキーを2杯。会計は21時18分」と真帆が言った。
「映像は」
「去年の岡野さんの講演会の映像から、横顔と歩き方を抽出済み。カウンターの照明、暗めで助かる」
「本人には」と黒崎は言った。
「明日の昼に接触する。奥さんからの伝言だって言えば、たぶん乗ってくる。……乗ってこなかったら?」
「乗る。人は自分を守る話には必ず乗る」と黒崎は言った。
遥は資料を見つめたまま、声を落とした。
「黒崎さん。もし明日、本当にあの人が殺されたら。私たちは何をしたことになるんですか」と遥が言った。
黒崎は答えない。止まった腕時計に親指を当てる。
遥はその夜、相談の経緯を書面にして、黒崎の机に置いた。本人が危害を予告していること、具体的な日時が示されていること、保護を断っていること。感想は書かなかった。
「明日、私から警察に情報を入れます」
黒崎は書類を読んだ。自分の名前が3か所にあった。
「本人が否定したら、どうする」
「否定されたことも残します」
黒崎は宮坂へ電話した。宮坂は妻からの心配を夫にも確認させる、緊急時には自分が警察へ連絡する、と言った。穏やかで、業務の順番を決めるような声だった。
電話を切ったあと、黒崎はその説明を遥へ伝えた。弁護士が間に立つと言えば、責任の所在が確かになる気がした。
遥は納得しなかった。翌朝、以前の同僚に、被害予告の相談先を確認した。由里子本人と電話を代わるところまでは進んだ。だが由里子は夫婦間の行き違いです、と答えた。今から訪ねてよいかという申し出も、拒んだ。
昼過ぎ、遥の携帯に短い文章が届いた。
ご迷惑をかけてすみません。今夜は知人が来ます。1人ではありません。
誰が来るのですか、と返信した。返事はなかった。
黒崎は画面を見て、1人ではないなら、と言いかけた。遥が顔を上げるより早く、口をつぐんだ。訪問者がいることは安全の証明ではない。それをこの仕事で、誰より知っていた。
午後7時、黒崎は事務所を出た。会社へ頼まれたことをするためではなかった。しかし、会社へ自分がどこへ行くかを告げることもできなかった。正しいことをする時まで隠れなければならない商売に、自分は5年いた。
岡野邸のリビングは広かった。由里子は照明を半分だけつけていた。由里子が1人、テーブルで便箋に何かを書いている。書き終え、封筒に入れ、切手を貼る。宛名は見えない。壁の時計を見る。8時32分だった。由里子はスマートフォンを手に取り、録音アプリを起動する。
「……黒崎さん。もしこれを聞いているなら」と由里子が言った。
由里子は1度、言葉を切った。
大輔は首都高速を走る車のハンドルを握っていた。前方の闇を見つめている。カーナビは8時47分を示していた。
ホテルのバーではカウンターの端の席が空いていた。誰も座っていない席に、グラスが2つ置かれている。バーテンダーの松井が、時計を確認して1杯目のグラスを下げる。
真帆は飯田、琴美、遥がモニターを囲む。
「8時55分。バー側、すべて予定どおり」と真帆が言った。
「……黒崎さんは?」
「さっき出てったぞ。コンビニ行くって」
遥は黒崎のデスクを見る。車のキーがない。
黒崎の車が、岡野邸から50メートルほど離れた路肩に停まる。黒崎は運転席で息を整えた。止まった腕時計ではなく、スマートフォンの時刻を見る。岡野邸のリビングには明かりがついていた。カーテンの向こうに、人影が見えた。
行ってどうする。止めれば、依頼は壊れる。会社も、俺たちのやってきたことも全部……。
8時59分になった。黒崎は車を降りる。夜気が肌に触れた。遠くで犬が吠える。門の前まで歩く。インターホンに指を伸ばす。午後9時。リビングの明かりが、ふっと消える。黒崎の指が、止まる。家の中からは何の音もしない。黒崎のスマートフォンが震える。画面に「伊東琴美」。
「黒崎さん、どこにいるんですか。真帆さんが、バーの映像の最終確認をって」という琴美の声が届いた。
「……すぐ戻る」
黒崎は暗い家を1度だけ振り返り、去っていく。門柱の上、防犯カメラの赤いランプが、小さく点滅している。
門柱の脇に、宅配便を入れる金属の箱があった。角の塗装がはがれ、雨でできた細い筋が下まで続いていた。黒崎はその筋を見ていた。後になって思い出すのは家の形でも窓の明かりでもなく、その茶色い筋だった。
インターホンを押せば、由里子の返事があるかもしれない。なければ警察を呼べばいい。何も難しい手順ではなかった。
けれど黒崎は自分が到着したことで何かを防げたと、もう半ば考えていた。窓に人影がある。明かりがついている。ここへ来た自分がいる。3つを並べれば、人が生きて帰れると思った。
明かりが消えると、その考えを訂正する必要が生じた。黒崎は訂正しなかった。席を立ったのだろう、別の部屋へ行ったのだろう。考えは幾つでも作れた。作ることには慣れていた。
琴美からの電話は帰る理由を与えた。帰ってからも、何かあればまた来られる。自分の車はすぐ近くにある。明日の朝には電話をかければいい。
17年前、訂正は明日もできると思った。今回も、明日を持っているつもりだった。
車のドアを閉めると、外の空気が急に遠ざかった。黒崎はハンドルに両手を置き、エンジンをかける前にもう1度、家を見た。窓は暗かった。家全体が目を閉じているようだった。
彼が動かしたのは車だけだった。
翌朝、岡野邸の前には規制線が張られていた。警察車両が通りを狭めていた。その周りに報道陣が集まっていた。清原誠二は黒い車から降りた。今は捜査1課の管理官を務めていた。部下の中津が後を追う。
「被害者は岡野由里子、44歳。リビングで絞殺。死亡推定時刻は昨夜の午後9時前後。第一発見者は夫の大輔、深夜0時過ぎに帰宅して発見」と中津が言った。
「夫のアリバイは」
「赤坂のホテルのバーで飲んでいたと。今、確認を取ってます」
「保険は」と清原が言った。
「2億です」
「……ずいぶん出来すぎた夫だな」
大輔は憔悴した顔を上げた。向かいには清原が座っていた。
「9時前後、どちらに」と清原が言った。
「赤坂の……ホテル・ノクターンのバーに。1人で」
「よく行く店ですか」
「……いえ。初めてです」と大輔が言った。
「初めての店に、1人で。奥さんが殺された時刻に、ちょうど」
「偶然です」
中津が入ってきて、清原に耳打ちする。
「バーの映像、確認取れました。9時前後、カウンターに岡野大輔。バーテンダーの証言もあります。会計レシートは21時18分。駐車場の入出庫記録も一致」と中津が言った。
清原はしばらく黙る。
「完璧だ」と清原が言った。
「はい。ただ、会場側の説明だけでなく、原記録も確認します」と中津が言った。
「完璧すぎる」と清原が言った。
会社の入るビルから2本裏の路地に、営業を続けている喫茶店があった。店のカウンターには長年使われた艶があった。黒崎はカウンターで新聞を読んでいた。隣の席に、断りもなく清原が座る。
「久しぶりだな。黒崎」と清原が言った。
黒崎は新聞から目を上げない。
「……清原さん。管理官になったそうで」
「科捜研を辞めて、何をしてる」
「コンサルタントです。企業の防犯カメラの」と黒崎は言った。
「防犯カメラ、ね」
清原はコーヒーを頼み、ゆっくりと砂糖を入れる。
「昨夜、世田谷で女が殺された。旦那には完璧なアリバイがある。完璧なアリバイってのはな、黒崎。作ろうと思わなきゃ、なかなか手に入らないもんだ」
「何のお話か、わかりません」と黒崎は言った。
「お前の兄貴の事件。あれも、目撃者がいたな」
黒崎の手が、新聞を握りしめる。
「俺はあの事件を1度も忘れたことはない」
「俺もです」と黒崎は言った。
清原はコーヒーに口をつけず、代金を置いて出ていく。
事件から4日が過ぎても、会社の空気は重かった。テレビでは由里子の事件を報じていた。画面には「夫のアリバイ成立、捜査は難航」と表示されていた。
「……私たち、勝っちゃったんですね」と真帆が言った。
「仕事は成功だ。報酬ももらってる」
「人が死んだんですよ」
「俺たちが殺したんじゃない」と飯田が言った。
「殺されるとわかってて、止めなかった」と遥が言った。
琴美が、郵便物の束を持って入ってくる。
「黒崎さん。宛名だけで、差出人のない封筒が」と琴美が言った。
届いたのはどこにでもある茶封筒だった。宛名には手書きで「黒崎隆史様」とあった。消印は都内のものだった。黒崎は手袋もせずに封を切る。中にはA4の紙が1枚入っていた。黒崎の顔色が変わる。
「何それ」と真帆が言った。
「……うちの、依頼人名簿だ」と黒崎は言った。
全員が紙を覗き込む。一覧表は社内で使っている書式のままだった。依頼日、氏名、対象の日時が並んでいた。そのうち4つの名前に、赤いペンで丸がつけられている。「荒木敏夫」「沢井義明」「須貝達郎」「岡野由里子」
「なんで、うちの名簿が外に……」と真帆が言った。
「待ってください。この方たち」と琴美が言った。
琴美は端末を叩く。顔が青ざめていく。
「荒木敏夫さん、2年前に駅の階段から転落して死亡。沢井義明さん、昨年、自宅の浴室で溺死。須貝達郎さん、今年の春、多摩川で水死体で発見。全員……」と琴美が言った。
「全員、死んでる」と飯田が言った。
「全員、亡くなる直前に、うちでアリバイを依頼しています」と琴美が言った。
誰も口を開かなかった。
「……どういうことですか」と遥が言った。
「俺たちが作ったアリバイの日に、依頼人が死んでいる」と黒崎は言った。
「偶然でしょ。4人なんて」と真帆が言った。
「荒木敏夫は科捜研時代の俺の上司だ」と黒崎は言った。
全員が黒崎を見る。黒崎は紙の1番下に目を落とす。最後の行にだけ、赤い丸がなかった。そこには手書きの名前が加えられていた。「黒崎隆史」
「俺たちは無実の人間を救っていたんじゃない」と黒崎は言った。
黒崎の声が、かすれる。
「誰かに、完璧な逃げ道を作ってやっていたんだ」と黒崎は言った。
名簿の端には琴美の作った小さな注意書きがあった。確認済みの事項と本人申告を混同しないこと。受付書式を改めた時に加えた1行で、誰も守ってはいなかった。黒崎はそこを爪でなぞった。
4人の死を並べて初めて見えることがあった。個々の依頼の中では自分たちはいつも成功していた。映像を渡し、謝礼を受け取り、その後の連絡がなくなる。それは依頼人が平穏を取り戻した印だと考えていた。
連絡できなくなった人間も、同じように沈黙する。
琴美は荒木のファイルを開いて、連絡済みの欄の丸を見つけた。亡くなった翌週、入金確認のメールを送っていた。本文にはまたお困りの際はご相談ください、とある。定型文だった。琴美が来る前に作られた文章で、琴美が責められるものではなかった。それでも彼女はその画面から目を離せなくなった。
黒崎は印刷された名簿を持ち上げた。自分の名前が加えられた最後の行だけ、字の大きさが少し違った。依頼人でも、協力者でもない。何の役を与えられているのか、まだわからなかった。
ただ、自分が欄の外へ出たことだけはわかった。これまでは人の名前を書く側にいた。
やがて社員たちは帰った。黒崎の机だけに明かりが残る。名簿を前に座ったまま、左手首の止まった時計を指でなぞっていた。スマートフォンが震え、発信者名が表示された。「岡野由里子」。受話ボタンへ伸ばした指は、いったん画面の上で止まった。
「……もしもし」と黒崎は言った。
ノイズが聞こえた。その向こうから、あの穏やかな声が届いた。
「黒崎さん」
黒崎の背筋が凍る。
「次はあなたが誰かを殺す番です」
通話が切れる。ツー、ツー、という音だけが、暗いオフィスに響く。黒崎の手から、スマートフォンが滑り落ちる。




