第5話 白百合は、夜に香る
黒鴉の翼が、夕暮れの雲を、切り裂いていく。
その、脚に、結ばれた、小さな封書。
白百合の紋。
――私たちは、それを、知らなかった。
その頃、オリヴィア・ネイの馬車は、王都の下町、検屍局へと、静かに、戻ろうとしていた。
車内には、二つの、意識。
一つは、震える手で、亡き娘の遺書を握りしめる、伯爵令嬢オリヴィア。
もう一つは、彼女の内側で、燃えるような、静かな、怒りに、身を焦がす、私――セシリア・ヴァン・アルディス。
「……セシリア」
「なあに」
「王妃陛下、って」
「ええ」
「あなたの、義理の、母親に、なる予定だった人、よね」
(――そうよ)
私は、答えた。
(それどころか)
(私の、母の、親友、だった人)
オリヴィアの、指が、震えた。
「……なんてこと」
「あなた、幼少期から、その人に、可愛がられていたのね?」
(ええ)
(十歳の頃、母が亡くなってからは、私が、あなたの母代わりになるわと、抱きしめてくださった方)
(その手で、私の、母を、殺した、女)
――静かに。
私の意識は、ある種の、諦観に、包まれていた。
もう、驚きは、なかった。
母が亡くなった時、私は、既に、疑っていたのだ。
その死が、自然ではないことを。
私が、独学で毒物学を学び始めたのは、母の死の真相を、独りで暴くためだった。
そして、私が、その真相に、近づきすぎたから――
私は、口を、封じられた。
婚約者の隣に立ちながら。
義母のような人に、抱きしめられながら。
私は、静かに、檻の中で、飼われていたのだ。
(オリヴィア)
「うん」
(一つ、確認させて)
「なあに」
(あなた、まだ、降りられるわよ)
――オリヴィアの、指が、止まった。
私は、静かに、続けた。
(相手は、王妃陛下。国家権力の、頂点)
(私は、既に、死んでいる。失うものは、何もない)
(でも、あなたは、違うわ、オリヴィア)
(あなたには、家族が、地位が、未来が、ある)
(降りるなら、今よ)
(王家の召喚状は、既に受けた。だから、離宮への訪問と、公爵からの遺書のことは、隠しなさい)
(アルディス公爵には、私から、憑依の事実を伝えさせて。彼なら、信じてくれるわ)
(あなたは、変わり者の検屍官のままで、いていいの)
長い、沈黙。
馬車の、車輪の音だけが、規則的に、響いていた。
そして、オリヴィアは、ゆっくりと、口を、開いた。
「――セシリア」
「なあに」
「私、あなたに、一つ、話していないことがあるの」
(……なあに?)
オリヴィアは、静かに、窓の外を、見つめた。
夕暮れの光が、彼女の、地味な眼鏡の縁を、金色に、染めた。
「私が、女性検屍官に、なった、理由」
「三年前、私の、姉が、自死した、ということに、なっているの」
――私の意識が、凍った。
「姉は、あなたと、同じ、王家関係者と、婚約していた。……ある、若い、公爵子息と」
「でも、婚約発表の、三日前」
「姉は、自室で、遺体で、発見された。手首を切って、死んでいた、と」
「でも、私は、知っていたの」
「姉が、その日の朝、私に、こう言ったことを」
「――オリヴィア。私、この婚約、断ろうと、思うの」
「あの、家には、秘密がある。私、それに、気づいてしまったの」
「――それだけ、言い残して」
「姉は、その日の、夜に、自死、したことに、なっていた」
――……ああ。
私の意識は、ようやく、理解した。
なぜ、オリヴィアが、変わり者と呼ばれても、女性検屍官という、社会的地位を捨てるような道を、選んだのか。
なぜ、彼女が、憑依という、あり得ない現象を、あれほど、あっさりと、受け入れたのか。
なぜ、彼女が、私という、死者の言葉を、生きた証言として、聴いてくれたのか。
彼女は、ずっと。
姉の"死体"に、話しかけ続けて、いたのだ。
「――だから、セシリア」
オリヴィアの声は、震えていた。
けれど、その瞳は、揺るぎなかった。
「私は、降りないわ」
「あなたを、二人目の姉には、しない」
――馬車の中で、私は、しばらく、何も、言えなかった。
そして、ようやく、絞り出した声は、震えていた。
(……オリヴィア)
「なあに」
(あなたのお姉様、私の、母と、同じ組織に、殺されたのかもしれないわ)
オリヴィアは、静かに、頷いた。
「――ええ」
「だから、私は、あなたと、一緒に、いる」
――検屍局に、戻った、その日の、夜。
オリヴィアの職場は、王都の中心から、少し外れた場所にある、古い石造りの建物だった。
日中は、複数の検屍官が働いているが、夜間は、当直の一人を除いて、無人になる。
その、無人の、地下解剖室に、二人は、降りていった。
目的は、二つ。
一つ。エルミラが贈った茶葉の、正式な、成分分析。
もう一つ。父から受け取った、セシリアの遺書の、更なる、精査。
「――ふう」
オリヴィアは、白衣に着替え、髪を、無造作に、束ね直した。
日中の、王城での、緊張が、嘘のように。
この、地下解剖室でだけ、彼女は、水を得た魚のように、動く。
「セシリア。まずは、茶葉から」
(ええ)
彼女は、慎重に、茶葉の缶を、開けた。
微量を、乳鉢で、丁寧に、すり潰す。
そこに、いくつかの、透明な液体を、滴下していく。
「――変色、確認」
液体が、うっすらと、青紫色に、染まった。
「アコニチンの、呈色反応。間違いない」
(濃度は?)
「致死量の、約三倍」
――私の意識が、震えた。
(三倍……三倍?)
「ええ。これは、衰弱させる量じゃない」
「これは――完全に、殺す、量よ」
(……つまり)
私は、震える意識で、呟いた。
(エルミラは、私が、断頭台に上がる前に、私を、殺すつもりだった)
(斬首は――保険、だった)
(けれど、私は、なぜか、その茶葉を、飲まなかった……)
――そう。
私は、あの茶葉を、開封すら、しなかった。
なぜ?
私は、なぜ、見舞いの品の茶葉に、手を、つけなかったのだろう?
(オリヴィア。私、思い出したいの)
(あの、牢の、日々を)
(私が、何を、感じていたのかを)
「……セシリア」
「なあに」
「憑依状態で、宿主の身体を通して、死者の記憶を追体験することは、魂還の三例の記録には、あるわ」
(本当?)
「ええ。ただし、代償として、宿主の身体に、強い負荷がかかる」
オリヴィアは、静かに、頷いた。
「――やってみましょう」
「あなたの、記憶を、辿るわ」
彼女は、解剖台の隣の、椅子に、深く、座った。
目を、閉じた。
そして、深く、息を吸って、意識を、私に、明け渡した。
――牢の、匂い。
湿った、石の匂い。
古い、藁の匂い。
そして、鉄格子の、錆びた、匂い。
私は、そこに、いた。
処刑の、前夜。
薄暗い、独房。
意識は、朦朧としていた。
身体は、鉛のように、重かった。
そこへ――女官が、一人。
「――セシリア様。ラフォン男爵令嬢より、お見舞いの、お品でございます」
彼女は、小さな、茶葉の缶を、私の傍らに、置いた。
私は、朦朧とした意識の中で、その、缶を、見つめた。
繊細な、花模様。金の縁取り。
そして――私の、指先が、微かに、震えた。
――違和感。
その、缶を、開ける前に、私は、何かに、気づいた。
なんだったか。
なんだったか。
朦朧とする、意識の、隅で。
私は、その、違和感の、正体を、必死に、探して――
(――あ)
私は、思い出した。
その、缶の、蓋の、封蝋。
一度、開けられた、痕跡が、あったのだ。
微かに、封蝋が、歪んでいた。
一度、剥がされて、もう一度、押し直された、跡。
普通の令嬢なら、絶対に、気づかない、微細な、差異。
けれど、私は――セシリア・ヴァン・アルディスは。
毒物学を、独学で修めた、氷の令嬢だった。
(――戻ったわ)
私の意識が、現在に、戻った。
オリヴィアが、ゆっくりと、目を、開けた。
彼女の、額に、汗が、滲んでいた。
「……セシリア。何を、思い出したの?」
(オリヴィア)
(あの茶葉の缶、一度、開けられていたの)
「――え」
(つまり、エルミラが、単独で、盛った毒じゃない)
(誰かが、途中で、確認、あるいは、追加、していたのよ)
(王家の、内部の、人間が)
オリヴィアの、顔から、血の気が、引いた。
「……つまり」
(ええ)
(あの茶葉は、王家の、検閲を、通過している)
(貴族令嬢からの見舞いの品は、必ず、王家の女官が、検分するの)
(その女官が、見逃した、あるいは、共犯だった)
――しん、と、地下解剖室が、静まり返った。
そして、その、静寂を、破るように。
こんこん。
地上階の、扉が、叩かれた。
オリヴィアの、身体が、こわばった。
「……こんな時間に、誰?」
(――オリヴィア)
(扉を、開けないで)
こんこん。
こんこん。
そして、地上階から、微かに、声が、聞こえた。
「――オリヴィア・ネイ嬢」
「王妃陛下より、貴女に、直々の、お茶会の、招待状を、届けに、参りました」
――私の意識が、凍りついた。
(――オリヴィア)
「うん」
(敵は、既に、動いた)
――同じ、頃。
王都の、闇の、深い場所。
薄暗い、地下の、一室で、一人の、女性が、微笑んでいた。
栗色の、巻き毛。
翠玉の、瞳。
エルミラ・ドゥ・ラフォン。
彼女の、傍らには、黒鴉が、静かに、止まっていた。
そして、その、目の前には、一人の、老女官。
「――エルミラ様」
老女官は、深く、腰を、折った。
「王妃陛下より、あの、変わり者の検屍官を、始末せよ、との、ご下命が」
エルミラは、静かに、笑った。
「――わたくしが、直接、参ります」
「あの、令嬢の中に――何かが、いる」
「わたくしの、香水の匂いを、あれほど、正確に、嗅ぎ取れる者は、この王国で、ただ、一人しか、いなかった」
エルミラの、翠玉の瞳が、ゆっくりと、細まった。
そして、彼女は、囁いた。
「――まさか、ね」
「まさか、あなた、まだ、生きて、いるの、セシリア様?」




