第4話 王城の毒、令嬢の刃
王城への馬車の中で、オリヴィアは、三度、吐きそうになった。
「無理よ、セシリア」
「無理。絶対に、無理」
「私、王城なんて、生まれてから二回しか行ったことがないの」
(落ち着いて、オリヴィア)
「落ち着いてるわよ! 顔面蒼白なだけで!」
私は――セシリア・ヴァン・アルディスは、彼女の内側で、静かに笑った。
生前は、王城など、私の庭のようなものだった。
回廊の一本一本、庭園の花の一輪一輪、そして――貴族たちの、笑顔の裏に隠された表情の一つ一つまで、私は知り尽くしていた。
(大丈夫。あなたは、検屍官として呼ばれたの)
(社交辞令はいらない。無表情で通しなさい。それが、あなたの武器よ)
「……武器」
(そう。あなたの、その、感情を読ませない顔は、社交界では致命的な欠点。でも、今日は、最強の盾になるわ)
オリヴィアは、しばらく、沈黙した。
そして、ぽつりと、呟いた。
「……セシリア」
「なあに」
「あなた、生きていたら、絶対に王妃になっていた人ね」
(――失礼な。実際、婚約者だったわよ)
「知ってる。だから、余計に、恐ろしいの」
――王城、第三離宮。
エルミラ・ドゥ・ラフォンが、体調不良を理由に、静養しているという建物。
案内された部屋は、白を基調とした、清潔な、けれど、どこか冷たい空間だった。
窓辺のソファに、彼女は、横たわっていた。
「――オリヴィア様。ご足労、ありがとうございます」
エルミラの声は、掠れていた。
顔は青白く、額にはうっすらと、汗が滲んでいる。
そして、その傍らには、もう一人の人物が、立っていた。
(――殿下)
私の意識が、一瞬、凍った。
王太子――アルベール・レナ・アルヴェリア。
私の、元婚約者。
私を、断頭台に送った男。
そして、涙を流しながら、私の処刑書類に、署名した男。
「オリヴィア嬢」
彼の、低く、疲れた声が、部屋に響いた。
「呼び立てて、すまない。エルミラの症状を、診てほしい」
オリヴィアは、深く、腰を折った。
「畏まりました、殿下」
――そして、彼女は、私に、内心で、囁いた。
「……セシリア、この人が、あなたの元婚約者?」
(ええ)
「……綺麗な顔立ちの人ね」
(そうね)
「でも、目の下、真っ黒よ。一週間、まともに眠っていないわ」
――オリヴィアの、その一言で、私の中の、何かが、揺れた。
眠れないの、殿下?
私を、殺したのに?
(……オリヴィア。仕事に集中して)
「はい」
オリヴィアは、エルミラに近づき、丁寧に、しかし事務的に、診察を始めた。
脈拍。呼吸。瞳孔の反応。舌の色。皮膚の温度。
彼女の指が、エルミラの手首に触れた、その瞬間。
(――オリヴィア。皮膚の、温度)
「……ええ」
(微熱程度。でも、発汗量に対して、明らかに不釣り合い)
(それに、脈拍の乱れ方。規則的すぎる)
オリヴィアは、無表情のまま、頷いた。
「……殿下」
彼女は、静かに、王太子に向き直った。
「ラフォン嬢の症状ですが」
――さあ、始まる。
私は、彼女の意識の内側で、身構えた。
「――軽度の脱水症状と、過度の緊張による、自律神経の一時的な失調、と診断いたします」
(――え?)
私は、思わず、声を上げた。
(オリヴィア、待って。今のは、詐病の証拠を、指摘するところ――)
「セシリア」
オリヴィアは、静かに、私の意識を制した。
「今、ここで、それを言ってはいけないの」
エルミラの表情に、ほんの、微かな、安堵が、走った。
「――ですので」
オリヴィアは、続けた。
「大事を取って、三日間の、絶対安静を、お勧めいたします」
「その間、外部からの、いかなる訪問も、いかなる贈り物も、お控えいただくよう」
――……ああ。
私は、その瞬間、彼女の意図を、理解した。
(オリヴィア……あなた、天才ね)
「知ってる」
外部からの訪問と贈り物の禁止。
これは、医学的な処方ではない。
これは――エルミラを、孤立させる、宣告だった。
エルミラが今後、誰かと連絡を取ろうとしても、贈り物を出そうとしても、それは全て「医師の指示に反する行為」となる。
彼女が、闇組織の上と連絡を取り、次の策を練ることを、表向きの善意で、完全に封じたのだ。
「――畏まった、オリヴィア嬢」
王太子は、深く、頷いた。
「エルミラ、聞いたな。三日間、大人しくしていろ」
「……はい、殿下」
エルミラの、微笑み。
けれど、その微笑みの奥で、彼女の、翠玉の瞳が、初めて、はっきりと、オリヴィアを睨んだ。
殺意に、近い、色。
(――一勝、ね)
私は、心の中で、囁いた。
(でも、油断は禁物よ)
診察を終え、退室しようとした、その時。
「――オリヴィア嬢」
王太子が、彼女を、呼び止めた。
「少し、話せるか」
オリヴィアの、身体が、こわばった。
私の意識も、瞬間的に、凍った。
「――畏まりました、殿下」
オリヴィアは、王太子に導かれ、隣室の、小さな応接室に、通された。
部屋には、二人きり。
暖炉の火が、静かに、爆ぜている。
「――君に、聞きたいことがある」
王太子は、椅子に、深く、腰を下ろした。
「セシリアの、遺体を、検分したのだろう」
――どくん、と、オリヴィアの心臓が、鳴った。
私も、息を、呑んだ。
「……はい」
「所見を、聞かせてくれ」
「……殿下。所見は、既に、書面にて、王家検屍局に――」
「書面ではない」
王太子の声が、初めて、鋭く、なった。
「君の、口から、聞きたい」
(――オリヴィア)
私は、囁いた。
(この人は、疑っている)
(自分が、彼女を、正しく処刑したのかどうかを)
「……セシリア」
(迷わないで)
(真実の、欠片だけ、渡してあげて)
(全部は、まだ、駄目。でも、何かは、渡すの)
(そうすれば、殿下は、必ず、動く)
オリヴィアは、深く、息を吸った。
そして、王太子の目を、まっすぐに、見つめた。
「……殿下。所見を、率直に、申し上げます」
「セシリア様の遺体には、斬首以外の、致死に至らない量の、毒物の残留が、確認されました」
王太子の、蒼白な顔から、さらに、血の気が、引いた。
「……なに、を」
「毒物、です」
オリヴィアは、淡々と、続けた。
「トリカブト由来の、アコニチン」
「摂取量は、致死量に達していません。殺すためではなく、衰弱させるために、盛られたものと推測されます」
――暖炉の火が、爆ぜた。
王太子は、しばらく、無言だった。
彼の指が、椅子の肘掛けを、強く、握りしめた。
「……つまり」
彼の声が、震えた。
「セシリアは、処刑の前に、既に、誰かに、狙われていた、と」
「はい」
「彼女は、法廷で、自分の無実を、まともに、主張できない状態だった、と」
「――はい」
沈黙。
長い、長い、沈黙。
そして、王太子は、両手で、自分の顔を、覆った。
「……ああ」
「……ああ、そうか」
彼の、指の隙間から、聞こえてきたのは。
小さな、けれど、確かな、嗚咽だった。
(――殿下)
私の意識が、揺れた。
彼が、涙を流している。
私のために。
私を、疑い、私を、殺し、そして今、それが間違いだったと知って、涙を流している。
(……オリヴィア)
「うん」
(私、……この人を、まだ、憎めばいいの?)
オリヴィアは、答えなかった。
代わりに、彼女は、静かに、王太子の前に、跪いた。
「――殿下」
彼女の声は、驚くほど、優しかった。
「私は、検屍官です」
「死者の、声を、聴くのが、仕事です」
「セシリア様の遺体は、まだ、叫んでいます」
「私は、その声を、聴き届けたい」
「――殿下、私に、時間を、いただけませんか」
王太子は、顔を、上げた。
赤く、腫れた目。
けれど、その瞳の奥には、燃えるような、光が、宿っていた。
「――何を、望む」
オリヴィアは、迷わなかった。
「セシリア様の、遺留品の、再調査権を」
「そして、セシリア様に、見舞いの品を贈った、全ての人物の、リストを」
王太子は、深く、深く、頷いた。
「――許可する」
「王家の、名において、君に、全ての権限を、与える」
そして、彼は、震える声で、こう、付け加えた。
「――セシリアを、殺した者を、暴いてくれ」
「私は、彼女を、断頭台に、送った。その罪は、消えない」
「だが、せめて、真実だけは、明らかにしたい」
「頼む、オリヴィア嬢」
――オリヴィアは、深く、頭を、垂れた。
そして、彼女の意識の内側で、私は、そっと、囁いた。
(――オリヴィア)
「うん」
(ありがとう)
「セシリア」
「なあに」
「まだ、始まったばかりよ」
――離宮を、出た、その、直後。
馬車に乗り込み、王城の門を、抜けた、その、瞬間。
「――オリヴィア様」
馬車の窓の外から、声を、かけられた。
見覚えのある、老紳士。
白髪。品の良い、燕尾服。
(――ヴァルター)
私の意識が、震えた。
ヴァルター・アルディス。
私の、父。
アルディス公爵、その人だった。
「――アルディス公爵、閣下」
オリヴィアは、慌てて、馬車を、止めた。
父は、老いていた。
私が最後に見た時よりも、ずっと。
わずか数週間で、十歳は、老けたように、見えた。
「……ネイ伯爵令嬢」
彼の声は、震えていた。
「不躾を、承知で、お願い、申し上げます」
そして、彼は、深く、深く、腰を折った。
公爵が、伯爵令嬢に。
あり得ない光景。
「――娘の、名誉を、返してください」
「セシリアは、そんな娘では、ありませんでした」
「あの子は……あの子は、母を、亡くしてから、たった一人で、毒物学を学び、自分と、私を、守ろうと、していた」
――父様。
私の意識の中で、何かが、堰を切ったように、崩れた。
(父様……)
(父様、私、生きているの)
(ここに、いるの、父様!)
けれど、その声は、届かない。
私は、ただ、オリヴィアの内側で、震えることしか、できない。
オリヴィアは、馬車から、降りた。
そして、公爵の前に、真っ直ぐに、立った。
「……アルディス公爵閣下」
彼女の声は、静かで、けれど、揺るぎなかった。
「ご息女、セシリア様の、名誉」
「私が、必ず、取り戻します」
「この、命に代えても」
――公爵の目から、静かに、涙が、こぼれた。
そして、彼は、震える手で、自分の懐から、一通の、古い、封書を、取り出した。
「――これを」
「セシリアが、処刑の、前夜、私に、託したものです」
「父様、私が処刑された後、これを、真実を暴く者にだけ、渡してください、と」
(――私が、託した?)
私の意識が、混乱した。
(そんな、覚え、ない……いいえ、待って)
(処刑、前夜……私、あの日、意識が、朦朧としていた……)
(毒に、やられて……)
オリヴィアの手が、震えながら、その封書を、受け取った。
封蝋には、アルディス公爵家の紋章。
そして、その紋章の上に、小さく、セシリア自身の血で押された、指紋。
「――閣下」
オリヴィアは、深く、頭を、垂れた。
「必ず、拝読いたします」
――そして、馬車の中で。
震える指で、オリヴィアは、その封書の、封蝋を、割った。
中から、出てきたのは、一枚の、小さな紙片。
そこには、セシリア自身の筆跡で、たった、一行だけ。
こう、書かれていた。
『――母を殺した薬の名前は、〈月光の雫〉。作った者の名は、王妃陛下』
オリヴィアの、指が、止まった。
私の意識が、凍った。
(――王妃、陛下)
王太子の、実母。
この、国の、頂点に、立つ、女性。
そして、私が、生前、最も信頼していた、義母のような、存在。
「……セシリア」
オリヴィアの声が、震えた。
「これは、男爵令嬢、程度の、話じゃ、ないわ」
(……ええ)
私は、答えた。
(この国、そのものが、腐っている)
――馬車の外。
夕暮れの、王都の空を、一羽の、黒い鴉が、横切った。
その、鴉の、脚には、小さな、封書が、結ばれていた。
そして、その封書には、白百合の紋が、押されていた。




