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第3話 聖女の微笑みの下で

「――どうする、セシリア」


「あなたを殺したかもしれない相手が、今、扉の向こうにいるわ」


オリヴィアの声は、驚くほど、静かだった。


まるで、雨の匂いを確かめるような、そんな平坦さ。


けれど、私には、わかった。


彼女の指先が、ほんの少しだけ、震えていることを。


(――怖い、の?)


私は、心の中で問いかけた。


「怖いに決まってるでしょう」


オリヴィアは、即答した。


「私は検屍官よ。生きた人間の相手は、専門外なの」


――その一言で、私は、覚悟を決めた。


(オリヴィア、聞いて)


私は、彼女の意識の内側で、囁いた。


(あなたは、今から、世界一下手な女優を演じるの)


「……はい?」


(大丈夫。台詞は全部、私が指示するわ)


(あなたはただ、私の言う通りに動いて、私の言う通りに喋って)


オリヴィアは、少しだけ、目を細めた。


「セシリア」


「ええ」


「あなた、生前は、さぞ面倒な女だったでしょうね」


(――失礼な。社交界の華だったわ)


「知ってる。氷の令嬢って呼ばれてたんでしょう?」


とん、とん。


再び、扉が叩かれる。


「――オリヴィア様? ご不在でしょうか?」


鈴の音のような声。


甘く、澄んで、そして、わずかに、焦りを含んだ声。


私は、その焦りを、聞き逃さなかった。


(オリヴィア。まず、茶葉の缶を隠して)


(解剖台の下、白布の下でいい。でも、蓋は開けたまま)


「……蓋、開けたまま?」


(そう。あなたが何気なく検分していたという体で。わざとらしく隠すと、逆に怪しまれるわ)


オリヴィアは、無言で頷いた。


彼女は、素早く、しかし雑にならないよう慎重に、茶葉の缶を解剖台の下、白布の陰へと滑り込ませた。


蓋は開いたまま。まるで、検分の途中で、他の作業に移ったかのように。


(それから、私の遺体の顔に、布を、もう一枚)


(顔を、隠して)


「なぜ?」


(エルミラに、私の表情を、見せないため)


――私は、知っていた。


エルミラは、私の顔を、見に来た。


「最後のお別れ」なんて、嘘。


彼女は、確認しに来たのだ。


私が、本当に、死んだのか。


そして、自分が仕込んだ毒の痕跡が、私の顔に、残っていないか。


アコニチン中毒の末期症状には、特徴的な兆候がある。


顔面のチアノーゼ。唇の紫斑。


もしそれが、私の顔に残っていたら――


優秀な検屍官なら、必ず、気づく。


エルミラは、それを、確認しに来た。


そして、必要とあらば、証拠隠滅も辞さない覚悟で。


「……なるほどね」


オリヴィアは、静かに、私の遺体の顔に、白布をかけた。


そして、深く、深く、息を吐いた。


「セシリア」


「なあに」


「あなた、絶対に、私より先に生き返らないでね」


(……どういう意味?)


「あなたを敵に回すの、絶対に嫌だから」


オリヴィアは、扉に歩み寄り、静かに、鍵を開けた。


扉の向こうに立っていたのは――


淡い薔薇色のドレスに、白いレースのショール。


栗色の巻き毛。潤んだ、大きな翠玉の瞳。


そして、その手には、白百合の花束。


エルミラ・ドゥ・ラフォン。


私を殺した女。


いいえ。


私を殺そうとして、失敗しかけて、それでも私を殺した女。


「――ご対応、感謝いたします、オリヴィア様」


エルミラは、深く、優雅に、腰を折った。


「突然の訪問、大変ご無礼だと存じております。ですが、どうしても、セシリア様にお別れを申し上げたく……」


彼女の目に、涙が滲んだ。


美しい、真珠のような涙。


(――上手いわね)


私は、心の中で、拍手した。


(本当に、女優にでもなればいいのに)


オリヴィアは、無表情のまま、彼女を見つめている。


「……ラフォン嬢」


「はい」


「セシリア様は、あなたを毒殺しようとした、と告発された方です」


「……ええ」


「その加害者とされる方に、被害者とされたあなたが、お別れを言いに来る。……これは、通常の慣習ですか?」


――ぐ、と、私は、息を呑んだ。


(オリヴィア! いきなり切り込みすぎ!)


(もっと、こう、社交辞令から入って!)


「あら」


オリヴィアは、平然と、答えた。


「私、検屍官なので。遠回しな会話が、苦手なんです」


エルミラは、一瞬、ほんの一瞬だけ、目を見開いた。


そして、次の瞬間には、また、あの、清らかな微笑みを浮かべた。


「……ええ、確かに、奇妙に見えるかもしれません」


彼女は、白百合の花束を、そっと、胸に抱いた。


「でも、オリヴィア様。わたくし、信じているのです」


「セシリア様は、本当は、優しい方だった、と」


「何かの間違いだった、と」


「だから、最後に、わたくしは恨んでおりませんと、お伝えしたくて……」


――ああ。


なんて、美しい嘘。


なんて、上等な、演技。


もし、私が、憑依していなかったら。


もし、オリヴィアが、検屍官でなかったら。


きっと、この場にいた誰もが、彼女の言葉を、信じただろう。


でも。


私たちは、既に、知っているのだ。


あなたの贈った茶葉の中に、何が入っているのかを。


(オリヴィア。次の指示)


私は、静かに、囁いた。


(彼女に、私の遺体を、見せて)


「……本気?」


(本気よ。ただし、顔は見せない)


(首から下の、身体だけ。それが、罠になるわ)


オリヴィアは、深く、頷いた。


そして、彼女は、エルミラに向かって、初めて、微笑んだ。


不器用な、けれど、優しい微笑み。


「……ラフォン嬢のお気持ち、確かに、受け取りました」


「どうぞ、こちらへ。セシリア様は、今、こちらに」


エルミラは、目を潤ませ、頷いた。


「ありがとうございます……」


彼女は、静かに、解剖台に近づいた。


私の遺体の、顔にかかった白布を見つめ、彼女は、そっと、白百合を、遺体の胸元に、置いた。


「……セシリア様」


「安らかに、お眠りください」


――その瞬間だった。


「あ」


オリヴィアが、小さく、呟いた。


「ラフォン嬢。申し訳ありません、少し、そちらを、動かして頂けますか」


「……え?」


「あなたの、その、白百合を。少し、右に」


エルミラは、戸惑ったように、花束の位置をずらした。


「……こちら、で、よろしいでしょうか?」


「ええ」


オリヴィアは、頷いた。


そして、無表情のまま、こう続けた。


「――ラフォン嬢」


「あなた、セシリア様の胸元に、花束を置くとき、少しだけ、身を屈めましたね」


「その時、あなたの視線は、セシリア様の顔ではなく、"首元"に向いていた」


――しん、と、部屋が、静まり返った。


エルミラの、微笑みが、初めて、ほんの、少しだけ、固まった。


「……オリヴィア、様?」


「不思議に思ったのです」


オリヴィアは、淡々と、続けた。


「亡くなった友人にお別れを言いに来た方は、普通、遺体の顔を、見ようとするものです」


「でも、あなたは、顔にかかった白布を、めくろうとはしなかった」


「その代わり、首元――正確には、鎖骨の少し上あたりを、じっと見ていた」


「あそこには、アコニチン中毒の、特徴的な発疹が、稀に、残るのですよ」


エルミラは、笑った。


けれど、その笑みは、もう、鈴の音のような、澄んだものではなかった。


「……あら、オリヴィア様、変わったことを、仰いますのね」


「わたくし、単に、故人の首の、あの、傷ましいお姿を、見るのが、辛くて……」


「目を、そらしていただけですわ」


(――上手い言い訳ね)


私は、内心、舌を巻いた。


(オリヴィア、深追いは駄目よ。ここで彼女を追い詰めても、証拠が足りない)


(一旦、退いて)


「……そうですか」


オリヴィアは、素直に、頷いた。


「私の、勘違いでしたか。失礼いたしました、ラフォン嬢」


エルミラは、ほう、と、小さく、息を吐いた。


安堵。


明らかな、安堵。


そして、彼女は、笑みを、取り戻した。


「いいえ。オリヴィア様は、お仕事熱心なのですね」


「セシリア様も、きっと、お喜びでしょう」


彼女は、深く、腰を折った。


「では、わたくしは、これで――」


――その、瞬間だった。


「あ、ラフォン嬢」


オリヴィアが、彼女を、呼び止めた。


「一つ、伺っても、よろしいですか」


「……はい?」


オリヴィアは、白衣の胸元から、小さな、硝子の小瓶を取り出した。


その中で、透明な液体が、揺れる。


「これ、なんの香りだと思いますか?」


彼女は、小瓶の蓋を開けて、エルミラの、顔の前に、差し出した。


――苦扁桃の香り。


私の遺体から抽出された、アコニチン混じりの、液体。


エルミラは、反射的に、その香りを、嗅いだ。


そして、ほんの一瞬――


彼女の、翠玉の瞳が、すう、と、細まった。


(――見た)


私は、確信した。


エルミラは、この香りを、知っていた。


貴族令嬢が、通常、知るはずのない、毒物の香りを。


彼女の瞳孔の、その、微細な収縮は。


"警戒"の、色だった。


「……さあ?」


エルミラは、微笑んだ。


「わたくし、香水には疎いもので……」


「そうですか」


オリヴィアは、小瓶の蓋を、静かに、閉じた。


そして、彼女は、初めて、にっこりと、笑った。


「これ、香水じゃ、ないんです」


「――毒物、ですよ」


エルミラの、顔から、表情が、消えた。


ほんの、一瞬。


けれど、確かに、消えた。


そして、次の瞬間には、彼女は、また、あの、清らかな微笑みを、取り戻していた。


「……まあ、恐ろしい」


「オリヴィア様は、そんなものを、いつも持ち歩いていらっしゃるのですね」


「ええ。仕事道具ですから」


――二人の令嬢は、微笑み合った。


けれど、その微笑みの下で。


双方が、既に、確信していた。


「相手は、敵だ」と。


エルミラが、退出した後。


オリヴィアは、扉に、鍵をかけ、その場に、崩れ落ちるように、座り込んだ。


「……し、死ぬかと、思った……!」


(あなた、名演技だったわよ、オリヴィア)


「二度と、やらないから……!」


(次は、もっと上手くやれるわ)


「次は、ない……!」


私は、彼女の意識の内側で、静かに、微笑んだ。


そして、告げた。


(オリヴィア。茶葉の缶を、分析しましょう)


(そして、その結果が出たら――次は、こちらから、攻めるわ)


「……こちらから?」


(ええ)


私は、笑った。


処刑された、はずの、悪役令嬢の、笑み。


(私の葬儀は、まだ、終わっていないの)


(参列客は、これから、集めるのよ)


――そして、その日の、夕刻。


オリヴィアの元に、王家の紋章が押された、一通の召喚状が、届いた。


差出人は、王太子殿下。


内容は、こうだった。


『――ネイ伯爵令嬢オリヴィアに命ずる』


『男爵令嬢エルミラ・ドゥ・ラフォンが、本日、原因不明の体調不良を訴えた』


『至急、王城に参内し、彼女を検診せよ』


オリヴィアの手が、召喚状の上で、震えた。


「……セシリア」


「なあに」


「私、たぶん、罠に、はめられてる」


(――ええ、そうね)


私は、心の中で、頷いた。


(でも、オリヴィア)


(その罠に、二人で、飛び込みましょう)


(敵の懐こそ、真実に、一番、近い場所よ)


――召喚状の、封蝋の紋。


そこには、王家の紋章の隣に、もう一つ、小さな紋が、押されていた。


ラフォン男爵家の、白百合の紋。

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