第2話 死体は嘘をつかない
「――さあ、教えて、セシリア。あなたを殺したのは、誰?」
その問いかけは、祈りに似ていた。
死者への、静かな、けれど揺るぎない祈り。
私は――セシリア・ヴァン・アルディスは、生まれて初めて、自分の"死"が誰かに悼まれていることを知った。
(……あなた、名前は?)
私は、心の中で問いかけた。
彼女の唇が、動く。
私の意思ではない。彼女自身の意思で。
「オリヴィア・ネイ。ネイ伯爵家次女。王国医療院所属、検屍官」
淡々とした自己紹介。
まるで、患者に病名を告げるような口調。
「一応言っておくと、私はあなたの"魂"とやらを信じたわけじゃないの」
彼女は――オリヴィアは、メスを一度、置いた。
「幻覚かもしれない。過労かもしれない。あるいは、私の頭がとうとうおかしくなったのかもしれない」
「でもね、セシリア」
彼女の指が、解剖台の上の私の遺体の、その唇を、そっと閉じた。
「あなたの身体に残された証拠は、幻覚じゃない」
「だから、私は仕事をするだけ」
――ああ、と、私は思った。
この人は。
この、変わり者と呼ばれているらしい令嬢は。
死者と生者を、対等に扱っている。
「まず、状況を整理させて」
オリヴィアは、傍らの帳面を開いた。
流麗な文字。びっしりと書き込まれた、解剖所見。
「あなたの遺体が、王家の検屍局から私のところに回されたのが、処刑の一時間後。理由は――」
彼女は少しだけ、眉をひそめた。
「『念のため、女性検屍官による最終確認を』。そう指示したのは、王太子殿下ご本人」
(――殿下、が?)
私の中で、何かが、ざわりと揺れた。
私を断頭台に送ったのは、他ならぬ彼だった。
涙を流していたけれど。
苦しそうな顔をしていたけれど。
それでも彼は、私を処刑する書類に、署名した。
その彼が、なぜ、最終確認を?
「そう。それが第一の違和感」
オリヴィアは、私の思考を読み取ったように頷いた。
「斬首された遺体を、わざわざ女性検屍官に回す慣例はないの。それも、処刑からわずか一時間後に。まるで、何かを確認したかったみたいにね」
彼女は、話しながら、私の遺体の口腔内を、細い金属の器具で丁寧に検分していく。
「舌の斑点。これは、アルカロイド系毒物の摂取から六時間以内に現れる特徴的な所見」
「胃の内容物は、まだ確認していないけれど――香りだけで、当たりはついているわ」
彼女は、遺体の口元に、そっと鼻を近づけた。
そして、呟く。
「苦扁桃の香り。……いいえ、微かに、それに"混ざる"何か」
「トリカブト。……少なくとも、アコニチンが混入していたのは、間違いない」
(――トリカブト)
私の記憶が、火花のように弾けた。
母が亡くなった時の、あの香り。
原因不明の病、と診断された、あの日の、寝室の空気。
そして――私自身が、独学で毒物学を学ぶきっかけとなった、あの毒。
「反応が早いわね、セシリア」
オリヴィアは、私を――正確には、自分の内側にいる私を――静かに見透かした。
「あなた、心当たりがあるのね?」
(……ええ)
私は、答えた。
心の中で、しかし、はっきりと。
(私の母は、七年前に亡くなったの。原因不明の心不全、と診断されたわ)
(でも、私は、当時から疑っていた。母の亡くなる直前、彼女の唇に、微かな痺れの痕跡があった。それは、アコニチン中毒の初期症状よ)
「……なるほどね」
オリヴィアは、初めて、少しだけ、感情の混じった声を出した。
「あなた、貴族令嬢のくせに、随分と物騒な知識を持っているのね」
(生きるためよ。真実を知らなければ、母の次は、私の番だと思ったから)
「――そう」
オリヴィアは、しばらく黙って、私の遺体を見つめていた。
そして、ぽつりと、言った。
「それなのに、あなた、殺されてしまったのね」
私は、返す言葉を、失った。
同情ではない。憐憫でもない。
ただ、事実として。
「真実を知ろうとしていた者が、真実によって殺された」という、その皮肉を、彼女は静かに悼んでくれていた。
「……あなた、変な人ね」
私は、思わず、呟いていた。
「幽霊の話を信じて、死んだ人間を、生きているみたいに扱う」
オリヴィアは、初めて、はっきりと笑った。
不器用で、少しだけ寂しげな、けれど、確かに温かい笑みだった。
「変わり者、って、よく言われるわ」
「でもね、セシリア」
彼女は、メスを再び手に取り、私の遺体の胸元に、そっと当てた。
「死体の声を聴くのが、私の仕事なの」
「あなたが幽霊だろうが、幻覚だろうが、そんなことは、私には関係ない」
「大事なのは、あなたの身体が、まだ何かを叫んでいる、ということ」
――そこから、二時間。
オリヴィアの解剖は、静謐で、正確で、そして、優しかった。
彼女は、私の遺体を、一つの"証言者"として扱った。
胃の内容物からは、処刑前日の"最後の晩餐"の痕跡が見つかった。
高級な白身魚のムニエル。バターソース。焼き立てのパン。
そして――ハーブティーの残滓。
「胃液のpH、内容物の消化度合いから逆算すると、この食事は、処刑の八時間前に摂取されている」
オリヴィアは、内容物の一部を小さな硝子瓶に移した。
「そして、ここから検出されたアコニチンの濃度は――」
彼女は、少しだけ、息を呑んだ。
「致死量には、届いていない」
(――届いて、いない?)
「ええ。……セシリア、これは、殺すためじゃないわ」
オリヴィアの瞳が、鋭く光った。
「これは、あなたを衰弱させるためよ」
「断頭台に上る、その時に。あなたが反論できない状態にするために」
「――誰かが、あなたの処刑を、確実にするために、毒を盛った」
私の意識が、ぐらりと、揺れた。
反論できない状態。
……確かに、そうだった。
処刑の日、私は異常に身体がだるかった。
法廷で自分の無実を訴えようとしても、舌が回らなかった。
思考が霞んで、王太子の顔さえ、まともに見られなかった。
私は、あれを――恐怖のせいだと、思っていた。
違った。
私は、喋れないように、事前に処理されていたのだ。
「……許さない」
私の意識から、震えるような、声が漏れた。
「許さない。誰。誰が。誰が、私に、これを盛ったの」
オリヴィアは、答えなかった。
代わりに、静かに、私の遺体を清め、白い布をかけた。
そして、彼女は、ゆっくりと立ち上がり、部屋の隅に置かれた、小さな包みに歩み寄った。
「これは、あなたが牢に入っていた時に、お見舞いとして贈られた品々。処刑後、家族への返却を待って、私の元に保管されていたの」
包みを、ほどく。
中から出てきたのは、いくつかの品。
小さな聖書。ハンカチ。押し花。
そして――
未開封の、小さな茶葉の缶。
「――これ、見覚えは?」
オリヴィアは、缶を私に見せた。
繊細な花模様。金の縁取り。上等な品。
そして、缶の底に、小さな、贈り主の紋章。
(――ラフォン、男爵家の紋)
私の意識が、凍りついた。
「エルミラ・ドゥ・ラフォン嬢。あなたが、"毒殺しようとした"と告発された相手。その本人が、あなたに贈った、見舞いの茶葉」
オリヴィアは、缶を、そっと解剖台の隣に置いた。
「……検分してもいい?」
(お願い)
私は、震える意識で、答えた。
(お願い、オリヴィア。……その茶葉を、暴いて)
オリヴィアは、頷いた。
彼女の指先が、缶の蓋に、そっと触れる。
かちり、と、小さな音を立てて、蓋が開いた。
――その、瞬間。
とんとん、と、部屋の扉が、叩かれた。
オリヴィアの手が、止まる。
私の意識が、凍る。
扉の向こうから、聞こえてきたのは、澄んだ、鈴の音のような、女性の声。
「――失礼いたします。検屍官オリヴィア・ネイ様は、こちらでよろしいでしょうか?」
「わたくし、男爵家のエルミラ・ドゥ・ラフォンと申します」
「亡くなられたセシリア様に、最後のお別れをさせていただきたく、参りました」
オリヴィアの指が、茶葉の缶の上で、静かに、止まった。
私の意識は、燃えるような憎悪と、氷のような冷静さの間で、揺れた。
――来た。
証拠を、消しに、来たのだ。
オリヴィアは、私を見た。
いや、自分自身の中の、私を、見た。
そして、ゆっくりと、口の端を上げた。
不敵な、笑み。
「――どうする、セシリア」
「あなたを殺したかもしれない相手が、今、扉の向こうにいるわ」




