第6話 毒杯、微笑みて廻る
王妃陛下の、私室。
薔薇園に、面した、白亜の、サロン。
そこは、この王国で、最も美しく、最も残酷な場所、だった。
「――ようこそ、ネイ伯爵令嬢」
窓辺の、椅子に、腰掛けた、その、女性は、微笑んでいた。
金色の、緩やかな巻き毛。
薄水色の、瞳。
四十代半ばとは思えぬ、若々しく、透き通るような、白い肌。
アルヴェリア王妃、ローゼマリー・レナ・アルヴェリア。
「――王妃陛下におかれましては、ご機嫌麗しく」
オリヴィアは、深く、深く、腰を折った。
その、指先が、ほんの、微かに、震えていた。
(オリヴィア)
私は、彼女の内側で、静かに、囁いた。
(目を、合わせないで)
(この人は、目を、読む、女よ)
――王妃陛下は、幼少の私を、抱き上げて、こう囁いた。
「セシリア、あなたは、賢いね。でも、賢すぎる娘は、長生きしないのよ」
当時、私は、それを、愛情の、忠告だと、思っていた。
今なら、わかる。
あれは、警告、だったのだ。
「――さあ、どうぞ、こちらへ」
王妃陛下は、微笑んだまま、向かいの、椅子を、示した。
「あなたのお仕事、伺っておりますよ。女性検屍官として、日夜、王国のために、尽くしてくださっていること」
「本日は、そのご労苦を、ねぎらいたく、お呼びしたのです」
オリヴィアは、静かに、椅子に、腰掛けた。
――卓の上には、既に、二人分の、ティーセット。
繊細な、白磁の、カップ。
金の、縁取り。
そして――磁器の、ティーポットから、立ち上る、湯気。
(――オリヴィア)
私は、鋭く、囁いた。
(このお茶、匂いを、記憶して)
(一口も、飲まないで。でも、匂いだけは、真剣に、嗅ぐの)
「うん」
「――今日は、東方の、珍しい茶葉を、取り寄せましたの」
王妃陛下は、微笑みながら、自ら、ポットを、傾けた。
自ら。
私の意識が、警戒した。
(――注意して、オリヴィア)
(王妃が、女官を通さず、自ら注ぐお茶は、特別な意味を持つの)
琥珀色の、液体が、二つの、カップに、注がれた。
甘い、花のような、香り。
その奥に――微かに、苦い、金属質の、匂い。
(――アコニチンじゃない)
私は、瞬時に、判断した。
(もっと、別の、何か)
(ヒ素でも、ない。青酸でも、ない)
(遅効性の、植物毒。……それも、極めて、稀少な、種類)
「――さあ、召し上がれ」
王妃陛下は、微笑みながら、自らの、カップに、口をつけた。
そして、優雅に、一口、飲んだ。
――……。
オリヴィアの、内側で、私は、息を、呑んだ。
(王妃陛下は、飲んだ)
(同じ、ポットから、注がれた、お茶を)
――ここに、この、"お茶会"の、真の、恐ろしさが、あった。
毒は、入っている。
けれど、王妃自身も、それを、飲んでいる。
つまり――
王妃陛下は、既に、耐性を、持っている、ということ。
長期間、微量ずつ、同じ毒を、摂取し続けることで、身体が、その毒に、慣れる。
ミトリダテス法、と呼ばれる、古代の、王族の、暗殺回避術。
この人は、それを、実践している。
(オリヴィア)
私は、囁いた。
(カップを、持ち上げて。でも、飲まないで)
(唇に、当てる、寸前で、止めるの)
「……なぜ?」
(この毒は、飲まなくても、"香りで、微量、体内に入る")
(極めて、揮発性の、高い、毒物なのよ)
(だから、私たちが、するべきことは、飲まずに、時間を、稼ぐこと)
――オリヴィアは、白磁のカップを、静かに、持ち上げた。
そして、優雅な仕草で、それを、唇の、直前まで、運び――
「――王妃陛下」
彼女は、静かに、微笑んだ。
「一つ、伺っても、よろしいでしょうか」
王妃陛下は、微笑んだまま、頷いた。
「もちろん、なんなりと」
「――この、茶葉」
オリヴィアは、カップの、湯気を、静かに、嗅いだ。
「東方の、〈九蓮〉、で、ございましょうか」
――しん、と、サロンが、静まり返った。
薔薇園の、風の音だけが、聞こえていた。
王妃陛下の、微笑みは、変わらなかった。
けれど、その、薄水色の、瞳の、奥で。
ほんの、一瞬。
驚愕の、色が、走った。
(――オリヴィア、天才)
私は、内心で、震えた。
〈九蓮〉。
それは、東方の、極めて、限られた、地域でしか、栽培されない、幻の茶葉。
その、独特の、甘い花の香りの、奥に潜む、微かな金属質の匂いは――
茶葉、そのものの、香り、ではない。
〈九蓮〉と、共に、しばしば、混合される、遅効性、植物毒――〈月の露〉の、香り、なのだ。
そして、〈月の露〉、こそが。
私の、母を、殺した、薬――〈月光の雫〉と、同じ、原料。
「――まあ」
王妃陛下は、少しだけ、目を細めた。
「よく、ご存知ですね、オリヴィア嬢」
「東方の、茶葉に、お詳しいの?」
(オリヴィア。半分だけ、真実を渡して)
(全部、明かせば、この場で、殺されるわ)
オリヴィアは、静かに、頷いた。
「――検屍官として、毒物の、勉強は、欠かせませんので」
「〈九蓮〉は、その独特の香りから、毒との、混合に、用いられやすい、茶葉、と、学んでおります」
「――ですから」
彼女は、静かに、カップを、卓に、戻した。
「この、香りだけでも、大変、勉強に、なりました」
――カップは、卓に、置かれた。
中の茶は、一滴も、飲まれていない。
けれど、それは、拒絶では、なかった。
礼儀正しい、辞退、だった。
王妃陛下は、しばらく、無言だった。
そして――くすり、と、笑った。
「――面白い、令嬢ね、あなた」
「変わり者、と、聞いていましたが」
「賢すぎる、変わり者、だったのね」
――私の、意識が、凍りついた。
賢すぎる。
その言葉は、幼い私に、王妃が、囁いた、あの言葉と、同じ。
賢すぎる娘は、長生きしないのよ。
「――王妃陛下」
オリヴィアが、静かに、口を、開いた。
「私、実は、姉を、亡くしております」
私の意識が、驚愕した。
(オリヴィア! なぜ、その話を、今――)
「セシリア」
(え)
「賭けよ」
王妃陛下の、微笑みが、初めて、探る色を、帯びた。
「――お姉様、を?」
「はい」
オリヴィアは、静かに、続けた。
「三年前、婚約直前に、自死、として、処理されました」
「――私は、それを、信じておりません」
「ですから、私は、検屍官に、なりました」
「姉と、同じ死に方をした者を、二度と、見逃さない、ために」
――しん、と、サロンが、静まり返った。
そして、王妃陛下は。
静かに、自らの、カップを、卓に、戻した。
「――なるほど」
彼女は、微笑みながら、頷いた。
「あなた、セシリア嬢の、遺体を、検分した際に、何かを、見つけたのですね?」
――来た。
私の意識が、鋭く、身構えた。
(オリヴィア。ここで、真実を、明かしたら、私たちは、この、サロンから、生きて、出られない)
(けれど、完全な、否定も、信じてもらえない)
(半分の真実を、渡すのよ)
オリヴィアは、深く、頷いた。
「――畏まって、申し上げます」
「セシリア様の遺体からは、微量の、アコニチンが、検出されました」
――王妃陛下の、瞳が、ほんの、微かに、細まった。
「……アコニチン、を?」
「はい」
「……それを、既に、王太子殿下に、ご報告した、と?」
「はい」
(――そう来たか)
私は、震える意識で、頷いた。
王妃陛下は、既に、殿下との、面会の、事実を、把握している。
つまり、王城の、離宮での、密談は、全て、彼女に、筒抜けだった。
「――それは、それは」
王妃陛下は、静かに、頷いた。
「大変な、ご発見ね」
「息子は、さぞ、驚いたことでしょう」
そして、彼女は、微笑んだまま、こう、続けた。
「――で、オリヴィア嬢」
「その、アコニチンを、盛った犯人は、どなただと、お考えですの?」
――……。
これが、この、お茶会の、本題、だった。
王妃陛下は、私たちが、どこまで、真実に、辿り着いているかを、確かめに、来たのだ。
(オリヴィア)
私は、静かに、囁いた。
(エルミラ、と、答えて)
「……本当に、いいの?」
(ええ)
(王妃は、エルミラを、駒として、切り捨てる、覚悟が、既に、できている)
(駒を差し出すことで、"本丸"は、守られる、と、考えるはずよ)
オリヴィアは、深く、頷いた。
「――王妃陛下」
「畏まりながら、申し上げます」
「男爵令嬢、エルミラ・ドゥ・ラフォン様、と、推察しております」
――王妃陛下は、微笑んだ。
心の底から、満足そうに、微笑んだ。
「――まあ」
「あの、男爵令嬢が」
「なんと、恐ろしいこと」
「よく、教えて下さいましたね、オリヴィア嬢」
「このこと、私から、王太子殿下に、改めて、お伝えいたしましょう」
――しん。
改めて、お伝えする。
その言葉の意味を、私は、瞬時に、理解した。
王妃陛下は、これから、殿下に、別の、解釈を、吹き込む、つもりなのだ。
「エルミラが、単独犯である」
「これは、恋敵を排除しようとした、末端の、悲劇である」
「王家の、中枢には、何の、問題も、ない」――と。
そして、エルミラは、遠からず、事故、あるいは、病で、口を封じられる。
駒を切り、本丸を守る。
私が予測した通りの、動き。
「――ありがとうございます、王妃陛下」
オリヴィアは、深く、頭を、垂れた。
「私も、これで、肩の荷が、下りた思いです」
――そして、退出しようと、オリヴィアが、腰を、上げかけた、その、瞬間。
「――あ、そうそう」
王妃陛下が、思い出したように、微笑んだ。
「一つだけ、伺っても、いいかしら」
「オリヴィア嬢」
「――あなた、月光の雫、という、薬の名前を、ご存知?」
――私の、意識が、凍りついた。
知っている。
知っているに、決まっている。
だって、それは、私の、母を、殺した、毒の、名前。
そして、父から、託された、私自身の、遺書に、書かれていた、薬の名。
けれど――
オリヴィアが、それを、知っているはずが、ない。
いいえ、知っていては、いけない。
知っている、と、答えた瞬間、共犯者の、身元が、割れる。
オリヴィアは、しばらく、無言だった。
そして、彼女は、静かに、首を、傾げた。
「――申し訳ございません」
「存じ上げません」
(――上手い、オリヴィア)
私は、震える意識で、頷いた。
王妃陛下は、微笑んだ。
「――そう」
「知らないなら、それで、いいのよ」
「――知らない、ままで、いなさい」
その、瞬間。
私は、完全に、理解した。
王妃陛下は、既に、疑って、いる。
オリヴィア・ネイの、中に、何かが、いる、ということを。
そして、彼女は、それを、泳がせる、ことを、選んだ。
生かしておいた方が、情報が、多く、取れる、と、判断したのだ。
――王妃陛下の、サロンを、辞去し。
薔薇園の、回廊を、歩く、オリヴィアの、足は、震えていた。
「……セシリア」
(うん)
「あの人、化け物よ」
(ええ)
「私たち、生きて、出られたの……?」
(――まだ、わからない)
私は、静かに、答えた。
(あの人は、私たちを、泳がせる、ことにしたんだわ)
(でも、泳がせると見逃すは、違う)
(この後、必ず、次の一手が、来る)
――そして、その、次の一手は。
驚くほど、早く、来た。
薔薇園の、回廊の、曲がり角。
そこに、立っていたのは、一人の、令嬢。
栗色の、巻き毛。
翠玉の、瞳。
――エルミラ・ドゥ・ラフォン。
三日間の、絶対安静、を、命じられていたはずの、彼女が。
なぜか、王妃の、サロンの、隣に、いた。
「――ごきげんよう、オリヴィア様」
エルミラは、微笑んだ。
けれど、その微笑みは、もう、清楚な聖女の、それでは、なかった。
冷たく、静かで、そして――心底、愉しそうな、微笑み。
「――王妃陛下との、お茶会、いかがでした?」
(――オリヴィア、下がって)
私は、鋭く、囁いた。
(この人、殺しに来た)
エルミラは、静かに、オリヴィアに、歩み寄った。
そして、彼女の、耳元に、口を、寄せた。
「――ねえ、セシリア様」
私の、名を、呼んだ。
「――そこに、いらっしゃるの、でしょう?」
「――わかっているの」
「あなたが、あの、香りに、反応した、瞬間から」
――エルミラの、細い、指が。
オリヴィアの、手首を、そっと、掴んだ。
そして、彼女は、微笑んだ。
「――ねえ、お姉様」
――えっ。
私の、意識が、凍った。
お姉様。
エルミラは、静かに、続けた。
「――わたくし、ずっと、お姉様に、本当の名前を、呼んでいただきたかったの」
「――エルミラなんて、偽名では、なくて」
「――ソフィア、と」
――その、名前。
私の、意識が、崩れそうに、なった。
ソフィア。
私の、母の、名前。
(――な)
(何、を、言っているの、あなた)
エルミラ――否、彼女は、微笑んだ。
「――気づかなかった、お姉様?」
「――わたくし、あなたの、妹、なのよ」
「――あなたの、母様が、産んで、そして、捨てた庶子、なの」




