第38話:雨の日の記憶と、神様からの問いかけ
水面を覗き込んでいた僕の背後から声をかけたのは
前世の記憶に焼き付いている、あの『老婆』だった。
「なんで……あんたが、こんなところにいるんだ」
僕は無意識のうちに姿勢を低くし
今は殆ど無い体毛を逆立てて老婆をジッと睨みつけた。
……ここは僕が生きていたあの街ではない。
見たこともない獣人や魔獣がいる、遠く離れた別の『縄張り』のはずだ。
「あんた……引っ越したのか?
それとも、あんたもあの飼い主に……」
「ふふっ……違うよ。
ここはね、あんたが生きていた世界とは『別の世界』なんだ」
……老婆は穏やかに微笑みながら、ゆっくりと首を横に振った。
「私はね、こっちの世界では『神様』なんて呼ばれているんだよ?」
「か……神様?」
信じられない言葉だったが、僕は妙にすんなりと納得していた。
死んだはずの僕がこうして無敵の『器』を与えられて生きているのだ。
この老婆が『神様』だと言われれば、すべての辻褄が合う。
……老婆の姿を見て、そして
風に乗ってふわりと漂ってくる
『懐かしい日向の匂い』を嗅いでいるうち
僕の胸の奥底にずっと沈殿していた
分厚くて冷たい泥のような感情が、止めどなく溢れ出してきた。
「……なぁ」
僕は視線を逸らし『作務衣』の裾をギュッと握り締めながら
ポツリと口を開いた。
「あんた……昔、塀の上を歩いてた『イケメンボスネコ』に
よく干した魚をやってたよな?
僕はずっと……薄暗い部屋の、殆ど開かれない窓から
それを……見てた」
……声が、自分でも驚くほど震えていた。
無敵の肉体を持っているのに
心だけがあの時の、怯えた子猫に戻っていく。
「僕は……あのボスネコが羨ましかった。
毛並みが良くて、堂々としていて……あんたに撫でられて。
僕も、あんたに近づいて、その『干した魚』を貰いたかった……
……撫でて、ほしかった」
僕は地面の土を、足が沈み込むほど強く踏みしめた。
「だけど……人間を信じるのが怖かったんだ。
温もりを感じたいのに、近づけばまた殴られて
殺されるかも知れないって……恐怖だった。
あの冷たい窓の向こう側に行きたくても、どうしても。
……どうしても、足が動かなかった」
「ああ……すべて、知っていたんだよ」
僕の震える言葉を優しく包み込むように、老婆が静かに囁いた。
「え……?」
「……私が、あのボスネコに『煮干し』をあげていた時
あんたがいつも、薄暗い部屋の窓から
羨ましそうにじっとこっちを見ていたこと。
……怖くて鳴き声も出せないのに、必死に目で私を追って
窓ガラスに小さな肉球を押し付けていたこと……全部、知っていたのさ」
この瞬間、老婆の瞳からポロリと涙がこぼれ落ちた。
「だから私は、毎日あそこに通ったんだ。
いつかあんたが、その窓から出てきてくれることを祈って。
そして、あの雨が降る日……あんたはついに勇気を出し
その日たまたま鍵の空いていた窓を押し開き
私のところへ来ようと『脱走』してくれたんだ……」
……そう。
僕はあの日……雨の中、初めて外の世界へと飛び出した。
黒い道の匂い……冷たい雨粒。
全てが恐ろしく、全てが嫌だった……でも。
この、聳え立つ塀の向こうには……きっと
あの、温かい匂いのする老婆が手を広げて待ってくれている。
やっと……やっと地獄から抜け出せる。
あの胸の中に飛び込める……だが、希望に胸踊らせた直後。
僕の体は塀に届く寸前で宙に浮き
それ以上、前に進めなくなった。
……背後から追い掛けて来た『虐待飼い主』に
首根っこを力任せに掴み上げられたからだ。
窓が乱暴に閉められる音……鈍く強い舌打ちの音
そして……首を踏まれる苦しみ。
それが、僕の最期だった――
「あの時……やっと、やっと
私のところへ来てくれると思っていたのに……っ」
老婆はその場に崩れ落ち
両手で顔を覆ってしゃくり上げるように泣き始めた。
「ごめんねぇ……っ。
ずっと、気づいてあげられなくて。
神様なんて呼ばれていながらも……たった一匹の小さなあんたを
あの地獄から助け出してあげられなくて……本当に
本当に済まなかったねぇ……っ」
「な……っ……」
そんな老婆の姿を見ていたら
僕の目からもボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
……視界が歪む。
感情が、ぐちゃぐちゃだ。
『なんで助けてくれなかったんだ』と
怒って引っ掻いてやりたいような……でも
今すぐその泣いている小さな背中にすり寄り
思い切り甘えて喉を鳴らしたいような。
……そんな、どこに落とせばいいのかわからない感情が渦巻き
僕は唯、その場に立ち尽くし子供のように泣くことしか出来なかった。
「僕は……っ……僕はっ……!」
何れ程、泣いた後だろうか? ……老婆はゆっくりと立ち上がり
僕の目の前まで歩み寄って来た。そして、そっと手を伸ばし
僕の頭に、そのシワだらけの温かい手を乗せた。
瞬間。思わず、ビクッ……と、人間の手が近づいてきた恐怖で
僕の体は一瞬硬直した。だが、その手から伝わってくるのは
痛みでも暴力でもなかった。
唯、ひたすらに優しく……慈しむような『温もり』だった。
「よく、頑張ったね……一人で、ずっと寂しかったね……」
……老婆が、僕の頭をゆっくりと撫でる。
前世からずっと……ずっと欲しくてたまらなかった、優しい撫で方だ。
僕の喉の奥から、無意識のうちに『ゴロゴロッゴロゴロッ……』と
泣き声の混じった深い振動が漏れ出していた。
凍りついたような僕の魂が、本当の意味で溶けていくのを感じた。
「何の説明もせず、転生させて悪かったね……あんたには
前世で何もしてあげられなかったから……せめて、この世界では
最強の力と、どんな怪我も治る無敵の体を与えたんだよ。
分かるかい? ……『バースト』や」
……老婆は涙を拭い
僕の目を真っ直ぐに見つめ、更に続けた。
「あんたは今、自由だ……この先の人生はどうしたい?
一人で気ままな『人間』として生きるかい? それとも――」
老婆の視線が、僕の背後――あの騒がしい獣人たちの里や
僕を庇って倒れた『ポンコツ』がいる森の方角を向いた。
「――獣人たちの……あんたが
『護りたい』と心に感じた者たちと共に、過ごすために使うのかい?」




