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第33話:猛毒の匂いと、隠されていた耳

最高の毛布『神聖羊ホーリーシープ』に包まれ

僕は、母猫の温もりを思い出すような深い安らぎの中にいた。


だが……その幸せな夢は

鼻腔を突き刺す『死の予感』によって無残に引き裂かれた。


「ッ!? ……ガハッ!! 」


……心臓が口から飛び出しそうなほど激しく脈打つ。

不自然なほど鋭く、鼻の奥を焼くような酸い匂い。

嗚呼あぁこれは……この香りには憶えがある。


前世で……あの、忌々しい飼い主が

好んで身に纏っていた『柑橘』の香りだ。


だが、猫である僕にとって……それは神経を狂わせ

内臓を腐らせる致命的な『猛毒』に他ならない。


……僕は顔をしかめ、薄く目を開けた。


里の外周、先ほど『白銀男』を吹き飛ばした柵の向こう側

なんだか……新たな人間の気配がする。


僕はガタガタと震える手で、せっかく整えた箱の縁を掴んだ。


その瞬間……柵の向こう

黄金の馬車から降り立ってきたのは

キラキラ輝く石をジャラジャラとぶら下げた肥満体の男だった。


此奴だ……此奴が扇で自らの顔を仰ぐたびに

猛毒の粒子が風に乗って僕の縄張りを侵食しているのだ。


「おや……?

白銀の騎士団を退けたという『化け物』は

まさか、その箱の中に引きこもっている君なのかねぇ?」


……男の、粘りつくような甘い声。

瞬間、僕の視界はぐにゃりと歪み……周囲の景色からは色が消え――


――呼び覚まされた『にゃん太郎』の記憶。


嗚呼あぁ、知っている……この匂い、この声。

そして……この『目』だ)


……脳裏に、前世の最悪の記憶がフラッシュバックする。

逃げ場のない冷たいケージ……近付いてくる『柑橘』の匂い。


『忌々しい飼い主』……あの男は

いつも最初は優しげな声で僕を呼んだ――


『ほーら、おいで……いい子だねぇ?』


――だが、僕が怯えて隅にうずくまると

その顔は一瞬にして『怪物』へと変貌した――


『来いと言ったんだ! このクソ猫がぁぁぁっ!!!』


――振り下ろされる硬い拳、理不尽な怒鳴り声。


僕は……逃げられない恐怖と悍ましいまでの痛みに

唯、耐える事しか出来なかった。


……無論、今の『僕』には

どんな剣も通さない最強の肉体がある。

三千の軍勢を一人で追い払う力だってある。


なのに……魂に刻まれた『本能』が

僕を完全に麻痺させてしまっていた。


「ぁ……あ、ぁ……っ……」


……呼吸が浅くなる。

耳は頭に張り付き、尻尾が股の間に巻き込まれる様な感覚


『最強の戦士バースト』は消え……今、此処にいるのは

冷たい雨の中で震える一匹の『にゃん太郎』だけだ。


「だれか……助け……て……」

「バースト様……?」


……すぐ側で、ミアの困惑した声が聞こえた。


彼女の目に写っているのは『威厳に満ちた王』などではない。

箱の中で膝を抱え、脂汗を流しながら

『助けて、怖い』と震え続ける事しか出来ない

『にゃん太郎』だ――


「ふふっ……ただの腰抜けか。

殺せ……一匹残らず、毛皮を剥いで肉の塊に変えろッ!」


――領主のヒステリックな号令と共に、魔術師たちが一斉に杖を掲げた。

降り注ぐのは、空を埋め尽くすほどの炎と氷のつぶて


それなのに……僕は、目を瞑り

頭を抱えることしか出来なかった――


『誰が逃げていいと言ったっ!? ……このクソ猫がぁぁぁっ!!! 』


――何度も何度もフラッシュバックする記憶。


忌々しい飼い主の顔……理不尽な暴力

鼓膜を劈くような怒鳴り声……夢か現実か

僕へと迫りくる『猛毒』の匂いは、僕の中の『恐怖』を


限界突破させた――


「あ゛か゛……ッ!!」


……怖い。


逃げなきゃ……殴られる。


蹴られる……僕は呼吸を忘れ

ガタガタと震えながら、箱の隅で体を限界まで小さく丸めた。

『戦う』なんて考えられない。


ただ、この恐怖が過ぎ去るのを待つしかない……あの時のように。


雨の中のあの日のように……首を踏まれ意識が遠のき

全てが終わった『あの日』のように――


「ミア……助け……て……怖い……んだ……っ……」

「バースト様っ!? お気を確かにっ!! ……くっ!!!」


――動けない。


僕は唯、目を強く閉じることしか出来ない

この『恐怖』には、抗えな――


「とっ……通しませんっ!!!

バースト様には、指一本触れさせませんッ!! ――」


僕の目の前に、ミアの小柄な背中が立ち塞がった。


……彼女は絶叫しながら両手を広げ

自身の魔力を限界まで消費した……まるで自らの命を削るかのように

ありったけの魔力を振り絞り、巨大な光の盾を展開し続けたのだ――


ズドドドドドォォォォォンッ!!


――魔法の豪雨が光の盾に激突し

凄まじい爆炎と衝撃波が周囲に響き渡った……だが、防ぎきれない。

敵があまりに強すぎる……あまりに、恐ろしすぎる。


「くぅぅぅぅぅっ……!!」


それでもミアは、決して膝をつかず盾を維持し続けた。


「バースト様、お逃げ……ください……っ! 私が、ここで……っ!」

「ミア……ダメだ、もう持たない……君も……逃げ……」


「いいえ……それは、出来ない相談ですっ……! 」


……その声は震えていた。

僕を護るために広げた彼女の小さな両手は

魔法の衝撃で指先が裂け、真っ赤な血が流れている。

なのに、僕は動けない……『猛毒』の匂いと過去の影が

僕の喉を締め上げている。


ミアの限界を超えた魔力の放出……


……その代償はあまりに大きすぎて。

血反吐を吐きながら、僕に強がりを言った彼女は

精一杯の笑みを浮かべていた。


だが、この直後――


パリィィンッ!!!


――立ち上る爆煙の中、彼女から発せられたその音と

それに依って齎された彼女の『変化』に、僕は目を見開いた。

彼女が必死に維持していた『嘘の殻』が

限界を超えた魔力の流出に耐えきれず、砕け散ったのだ――


「へっ? ……ミ、ミア? ……」


――この瞬間

彼女の頭頂部からピンと突き出した『三角形の耳』

恐怖に逆毛立ちながらも、必死にバランスを取ろうと動く

『しなやかな尻尾』…黄金色の毛並みを持つその姿は

彼女が『人間では無い』事をこれでもかと知らしめた。


これまでずっと、魔法でその姿を隠していた

僕と同じ『猫』だった――


「き、君は……ね、猫な……のか? 」


――僕の震える口から漏れた問いに対し

ミアは、息を乱しながらも必死に応えてくれた。


「はぁ……はぁ……バースト様……」


ミアが、猫耳をペタンと寝かせ

痛みに耐えながら振り返って微笑んだ――


「えへへ……バレ……ちゃいましたね……ごめんなさい。

でも……もう私、逃げません。


バースト様……あなたが……私を救ってくれたから……今度は

私が貴方を救う番……なんで……すっ……」


――血を流しながら泣き笑いのような顔を見せたミア。

僕を護るため敵へと牙を剥いた彼女の『覚悟』


なぜ彼女の歩く音は、こんなにも静かなのか。

なぜ彼女から、温かな『陽だまり』を感じるのか。

理由なんて……最初から目の前にあったんだ。


――直後

今の今まで僕を縛っていた『呪縛』は激しく乱れ

そして、急激に力を失った――


(僕は。何を……怯えていたんだ?)


――僕がかつて、冷たい雨の中で叫び続け

今も口にした『助けて』という声に、彼女は精一杯で応えてくれた。


なら……僕は、誰を恐れる必要がある?

何に怯える暇が在る? ――


男の漂わせる『柑橘の匂い』は……ただの『香水』だ。


男の怒鳴り声は……ただの『空威張り』だ。


『逃げる』『 怖い』『殴られる』……だと?


……そんな最低の思考に支配される暇は無い。


僕はもう……あの薄暗い部屋に閉じ込められた

『非力な子猫』じゃない……僕は『にゃん太郎』じゃ無い。


もう、逃げない……もう二度と、誰にも僕を殴らせない。

もう二度と……僕の縄張りを荒らさせない。


静かな寝床を脅かし、あろうことか

僕が心を許した『同族ひだまりたち』を傷つけた奴らを

僕の尊厳を、絶対に誰にも奪わせはしない。



「ミア……もう、良い。

ありがとう……済まなかった」


――あ視界から色が戻る。

『黄金の馬車』……『派手な服』『悪趣味な扇』

それら全てが、唯の『掃除すべきゴミ』に見え始めた。


過去の『呪縛』が、魂の底で焼け落ちた……僕は、もう逃げない。

もう、殴られない……誰にも奪わせない。


……僕は。

この『縄張り』を統べる最強の戦士――『バースト』なのだから。

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