第26話:突発的な全力疾走と、見えない縄張りの壁
朝の『羽虫(幻影蠅)』の一件からしばらく。
僕は、里で一番日当たりの良い岩の上で穏やかな二度寝を堪能していた。
……だが、昼下がり。
太陽の熱をたっぷりと吸い込んだせいか
僕の身体の中に、説明のつかない『過剰なエネルギー』が満ちていくのを感じた。
「なんか……ムズムズする」
僕たち猫という生き物は、時として理由もなく全身の血が沸き立ち
走り出したくて堪らなくなる瞬間がある。
……前世でも、夜中に突然として部屋中を駆け回り
壁を蹴り、高い場所を飛び越えてはあの忌々しい飼い主を怯えさせたものだ。
なぜ、そんな話をしているのかと言うと……今、まさにその『衝動』が来たのだ。
「……ッ!」
僕は岩の上から音もなく飛び降りた。
瞳孔が限界まで開き、周囲のあらゆる音が鮮明に耳に飛び込んでくる。
風に揺れる葉の音さえもが、僕を急かす獲物の羽音のように感じられた。
「バースト様? いかがなさいました、そのような低い姿勢で――」
近くにいたミアが間の抜けた声をかけてきたが、知ったことか。
僕は次の瞬間、爆発的な脚力で地面を蹴った――
ドォォォォォォンッ!!
――瞬間
岩の横の地面がすり鉢状に陥没し、凄まじい土埃が舞い上がった。
僕はそのまま、里を囲む巨大な丸太の柵に向かい一直線に駆け出した……速い。
この『器』で全力を出すと、周囲の景色がただの流れる線になる。
僕は柵の垂直な壁にそのまま足をかけ
重力などないかのように駆け上がった――
「ケケケッ……!」
――風を切る感覚。止まらない衝動。
僕は柵の天辺を蹴り、さらに巨大な大樹の枝へと跳び移る。
そこから隣の屋根へ……さらに石壁へと
目にも留まらぬ速さで里の空域を跳ね回った。
右へ、左へ。急停止したかと思えば
意味もなく真後ろへ飛び退ける……目的などない。
唯、この皮膚の下で暴れ回る『力』を外に放出したいだけだ。
「な、なんだ!? 何が起きている!?」
「何かが……青白い光が、里を囲むように走っているぞ!」
……獣人たちがパニックに陥り、広場に集まってくる。
彼らの目には、僕の姿など捉えられていないだろう……ともあれ。
直後、僕は……里の最外周の四隅に建つ監視塔の太い柱を
それぞれ一度ずつ、強めに蹴り飛ばし方向転換しながら一周し
最後に広場の中央にある岩の上へと、何事もなかったかのように着地した。
「ふぅ……」
身体からうっすらと白い蒸気の様な物が立ち上がる。
と、同時に漸く足のムズムズが収まった。
溜まっていたエネルギーを使い切り、僕は深い満足感と共に
乱れた服をパンパンと払った。
「バ、バースト様……今のは一体……」
ミアが髪を振り乱しながら、僅かに怯えたように震える足で僕に歩み寄って来た。
里の獣人たちも、武器を構えたまま呆然と僕を見上げていた。
「ただの運動だ……少し体が鈍っていたのでな」
僕が素っ気なく答えると
里の族長である『灰色のボス』が、突然ガタガタと震え出し僕の前に平伏した。
「王よ……! あなたは、どこまで我らをお守りくださるというのですか……っ!」
「……は?」
「わかっております! 先ほどの神速の歩法……!
あなたは里の四隅にある監視塔と、外周の防壁すべてを一瞬で巡り
ご自身の強大な魔力を叩き込むことで
目に見えない『結界』を張り巡らされたのでしょう……っ!」
そう言うと『灰色のボス』は、僕が蹴り飛ばした監視塔の柱を指差した。
そこには――僕の足跡の形に深く刻まれた亀裂から
なぜか『青白い放電』がバチバチと漏れ出し
里全体を包み込むような微かな光の膜を作り出していた。
……どうやら、ただ走っただけなのに
この『器』から魔力が漏れ出し、壁のようになってしまったらしい。
「見てください、この圧倒的な防衛陣を!
これで森の魔獣はおろか、王国の軍勢ですら
この里に指一本触れることは叶わぬでしょう!
……皆の者よ!
王が自ら里の境界を駆け、不可侵の聖域を完成させてくださったのだ!」
「なんという慈悲……っ! 昼寝の合間すら惜しんで我々の安全を……!」
獣人たちが次々と地面に伏し、祈るように僕を崇め始めた。
……まただ。
ただの『突発的な全力疾走』のつもりがまたしても大層な儀式に変換されている。
監視塔を蹴ったのだって、ただ方向転換の足場にしただけだ。
「はぁ~ッ……ミア、腹が減った。何か持ってこい」
僕は面倒になり、岩の上にゴロンと寝転がった。
全力で走り回ったせいか、すっかりエネルギーが空っぽだ。
「は、はいっ! 王の絶対防壁に対するせめてもの返礼として
最高級の干し肉と木の実をすぐにお持ちいたします!」
ミアが嬉々として走り去っていく。
僕は、そんな彼女の背中を見送りながら
『次はあそこの大きな木で爪を研ごうか』と、静かに次の暇つぶしを考えていた。
……だが、この時の僕はまだ知らなかった。
僕が気まぐれに走り回って残した、この『漏れ出た魔力』が
本当に、王国軍の先遣隊を絶望させることになるとは――




