第25話:宙を舞う虫と『古代の呪文』
……硬い木の板が、背骨と頭のカーブにピタリと密着している。
この四方からの適度な圧迫感。やはり、箱の寝心地は最高だった。
「……ふぁ~っ」
僕は大きくあくびをして、木の箱の縁に両手をかけ
ググッと背中を反らせて伸びをした。
そのまま箱からピョンと飛び降りると
広場にはすでに朝の冷たい空気が満ちていた。
……周囲を見回すと、獣人たちが広場を囲むようにして正座で並び
僕が箱から出てくるのを無言で見守っていた。
彼らは僕と目が合うと、一斉に深く頭を下げ――
「おはようございますっ! バースト様っ!
ですが……そのような質素な箱で、お疲れは取れましたでしょうか? 」
――そんな中、ミアが小走りで駆け寄ってきた。
「ああ、悪くない……天幕よりずっといい筈だ」
僕が答えると、獣人たちの中から
「おお……やはり」
「王の精神力は底知れぬ」……という感嘆のひそひそ声が漏れた。
僕は彼らを無視して、まずは朝の毛繕いをしようと
近くにあった水桶の方へ向かって歩き出した。
その時だった……僕の視界の端を、小さな『黒い点』が横切った。
「……ん?」
僕はピタリと足を止め、視線をその方向へと向けた。
……其処は、何もない空中
僕の頭より少し高い位置……だが、そこに羽の生えた小さな虫が
不規則な軌道を描きながらチラチラと飛んでいた。
恐らくはハエかなにかだろうが……黒く、小さな羽虫だ。
人間の目にはほとんど見えないのかも知れないが
動体視力に優れた僕の目には、その羽の羽ばたきまではっきりと見える。
チラチラ……ジグザグ……
右へ、左へ……予測不能なその動き。
僕の中の抑えきれない『狩猟本能』が急激に目を覚ました。
「……っ」
僕は姿勢を極端に低く落とし、視線を空中の『一点』に完全に固定した。
瞳孔がギュッと狭くなり、全身の筋肉がギリギリと引き絞られる――
「バ、バースト様? いかがなさいましたか……?」
――ミアが不思議そうに僕の顔を覗き込む。
彼女の間の抜けた声は耳に届いていたが、返事をする気にはなれなかった。
そんなことよりも、目の前の獲物の方がずっと重要だ。
獲物との距離を測る……まだ少し高い。今飛びかかっても届かない。
もどかしさが募り、僕は無意識のうちに
口を半開きにして歯を小刻みに震わせて居た。
……前世で、窓の向こうにいる鳥や虫を見た時によくやっていた
獲物に対する興奮と苛立ちの表現。
「ケケケケケケケケッ……!」
喉の奥と歯を打ち鳴らす、微かで異質な連続音。
「ひっ!?」
僕の口から漏れたその奇妙な音を聞いて
ミアが顔を引き攣らせて後ずさり
『灰色のボス』は血相を変えて立ち上がった。
「皆……王の視線の先を見よ!
恐ろしいほどの殺気が一点に集中している。
……我々の目には見えないが、あそこには確実に『何か』がいるのだ!」
「見えない刺客? ……まさか、王国軍の放った暗殺者か!?」
騒がしくなった獣人たちは一斉に武器を構え、周囲を警戒し始めた。
「ケケケケケッ……」
そんな中、獲物はわずかに高度を下げた。
今だ――僕は大地を蹴り、爆発的な脚力で宙へと跳び上がった。
そして、空中で身を捻りながら
飛んでいる小さな虫を両手で挟み込むようにして――
パンッ!!!
――甲高い破裂音と共に、僕は両手の手のひらを勢いよく打ち合わせた。
「よし……捕まえた」
着地と同時に、僕はゆっくりと両手を開いた。
僕の手のひらの中央には、見事に潰れた小さな虫の残骸がへばりついていた。
「チッ……」
……僕は、不快感に顔をしかめた。
捕まえるところまでは最高に楽しいのだが
いざ素手で潰してしまうと、虫の体液が手につきひどく不快な気分になるのだ。
「クソ……気持ち悪い汁がついた」
僕は顔をしかめながら、手についていた虫の残骸を
その辺の地面に向かって無造作に指で弾き飛ばした。
ピーン、と弾き飛ばされた黒い小さな塊は
獣人たちの目の前の地面に転がる。
「こ、これは……!!」
『灰色のボス』は、地面に転がった
その小さな残骸を見て息を呑み、目をひん剥いた。
「ま、間違いない……これは王国の暗殺部隊『鴉』が使う
偵察用の使役魔『幻影蠅』だ!
姿を消し、音もなく我らの情報を探り
場合に依っては毒の鱗粉をも撒き散らす最悪の使い魔……!」
「な、なんだって!?」
獣人たちが青ざめ、どよめきが広がる。
「バースト様は……我々が誰一人として気付けなかった
完全に姿を消している極小の魔虫を直ぐに見抜き
そしてあの恐ろしい『古代の呪文』で相手の魔力を封じ込め
一撃で叩き潰してくださったのだ……!」
『灰色のボス』はそう言ってワナワナと震えながら
僕に向かって再び深く平伏した。
「王よ! あなたがいなければ
我ら一族の機密は王国に筒抜けになり
夜の間に毒を撒かれて全滅していたかも知れません!
寝起きでありながら、一瞬の隙も見せないその圧倒的な武威
まさに神の如き御業……っ!」
……また適当なことを言って騒いでいる。
幻影蠅? 古代の呪文? ……僕は唯、鬱陶しい羽虫を
ハエ叩きの要領で潰しただけだ。
『ケケケケケッ』という音にしても、ただ口が勝手に動いただけである。
「あ~……ミア」
「は、はいっ! ここにおります、我らが救世主様!」
また肩書きが増えているポンコツに向かって
僕は不機嫌に両手を突き出した。
「手が汚れた……早く洗いたい」
「ああっ……! 毒を持つ魔虫を素手で潰されたのですから
邪気が手についておられるのですね!
すぐに清めの湧き水をお持ちいたします!」
……ミアが慌てて水桶を持って走っていく。
どうせこれも『邪悪な魔力を洗い流している』とでも勘違いされるのだろうが
手が綺麗になるならどうでもいい。
直後、もたらされた冷たい水で念入りに両手を洗いながら
『日向の温かい岩の上でゆっくり二度寝をしよう』
と、今日の予定を立てていた――




