第20話:邪魔な毛玉と、同族の隠れ家
森の奥へ進むにつれて
木々は太陽の光を遮るほどに鬱蒼と生い茂り
足元は湿った腐葉土と太い木の根に覆われていった。
「チッ……本当に、歩きにくい」
当然と言うべきか、僕は不機嫌に舌打ちをした。
……四つ足であれば、木の根など軽快に飛び越え
或いは木に登って、枝伝いに進むことだって出来る。
だが、この人間の二本足では
いちいち足元を確認して跨がなければならず、ひどく効率が悪い。
それに比べて、僕の腕の中で丸まっている獣人の子供は
僕の匂いと温もりにすっかり安心しきっているようで
時折鼻をヒクヒクとさせて進むべき方向を指差す以外は
基本的に大人しく目を閉じている。
子猫の特権だが、自分で歩かずに運んでもらえるのだから
本人は気楽なものだ。
「ゼェ、ゼェ……バースト様、少し、少しだけ休憩を……っ」
背後から、ひどく耳障りな足音と
空気が漏れるような呼吸音が聞こえてきた。
振り返ると、ミアが木の幹に寄りかかり
肩で息をしながら今にも倒れそうな顔をしていた。
「……遅い。人間の体力はどうなっているのだ」
「も、申し訳ありません……ですが、ここはすでに
『深緑の魔境』と呼ばれる未開の森……
……いつ、恐ろしい魔獣が飛び出してきてもおかしくない危険地帯です。
どうか、周囲の警戒を……っ」
ミアが必死に警告した、その直後だった。
『グルルルル……』
茂みの奥から、地の底から響くような低い唸り声が聞こえた。
『ガサリ』……と巨大なシダの葉が揺れ
僕たちの前に姿を現したのは、見上げるほど巨大な
黒い毛むくじゃらの獣だった。
……どことなく熊に似ているが
その体躯は人間の数倍はあり、口からはみ出した鋭い牙からは
タラタラと粘ついた唾液が垂れている。
「ひぃぃぃっ!? 『暴虐之森熊』!?
なぜこんな森の浅い場所に……っ!」
ミアは腰を抜かし、ワナワナと地面にへたり込んだ。
『ガアァァァァァァッ!!』
その瞬間、巨大な毛玉は空気を震わせるほどの大きな咆哮を上げた。
強烈な獣臭さと、口から撒き散らされる生温かい唾液の飛沫
僕は……思わず顔をしかめた。
「うるさい……それに、ひどく臭い」
僕の腕の中で、獣人の子供がビクッと体を震わせ
僕の服を強く握りしめた。
『子猫を怯えさせるとは、どこまでも不愉快な毛玉だ』
などと思っていたら……巨大な毛玉は前足を高く振り上げ
そのまま僕たちを押し潰そうと体重を乗せて覆いかぶさってきた。
「バースト様、危ないっ!!」……ミアの悲鳴が森に響く。
だが、僕の目から見れば、その動きはただ図体がでかく
重いだけで、ひどく単調だった……前世で
散歩中の大きな犬が吠えかかってきた時と何も変わらない。
直後、僕は避けることもせず
のしかかって来ようとする毛玉の顔面
その、黒くて湿った大きな鼻先を真っ直ぐに見据えた。
動物にとって、鼻先は最も神経が集中している急所だ。
毛玉の巨大な腕が振り下ろされる直前。
僕は空いている方の手を下から上へ、弾くように素早く振り抜いた。
『パァンッ!!』
乾いた破裂音が響き、僕の手の甲が
巨大な毛玉の湿った鼻先を的確に、かつ強烈に打ち据えた。
「ギャンッ!?」
先ほどまで地響きのような咆哮を上げていた巨大な獣が
まるで尻尾を踏まれた犬のような情けない悲鳴を上げ
顔を抑えるようにして後ろへ大きくのけぞった。
鼻先を強く打たれた衝撃で目から涙を流し
パニックを起こしたようにその場でジタバタと暴れ回る。
「シッシッ……邪魔だ、あっちへ行け」
僕が鬱陶しそうに手を払うと
巨大な毛玉は僕を恐ろしい捕食者だと認識したのか
脱兎のごとく背を向け、木々をなぎ倒しながら森の奥へと逃げ去っていった。
「あー……手が濡れた。
なんかわからんが臭い……不快だ」
僕は自分の手の甲についた獣の唾液と鼻水を
近くの木の葉でゴシゴシと擦り落とした。
一方、僕の背後では
ミアがまたしても彫像のように固まっていた。
「あ……あの、分厚い筋肉と毛皮の鎧を持つCランク魔獣を
武器も使わず、魔法も使わず……ただの
『デコピン』のような一撃で退散させた……?
し、しかも、あれは魔獣の脳を直接揺らす
伝説の暗殺術『脳天砕き』の応用……っ!?」
嗚呼……また適当な名前をつけている。
ただ鼻先をパチンと弾いただけだ、だが。
……もう訂正する気力すらない。
「ミア、立て。先を急ぐぞ」
「は、はいっ! どこまでも、この命ある限りお供いたします!」
ミアが慌てて立ち上がり、服の汚れを払う。
僕は再び子供を抱え直し、森のさらに奥へと歩みを進めた。
――それから数十分後。
「まだ着かな……ん?」
不意に、風の匂いが変わった。
先ほどまでの土と草の匂いに混じって、獣の匂い……いや。
僕の腕の中にいる子供と同じ『同族に近い匂い』が
僅かに、だが確実に漂ってきたのだ。
……子供もそれに気づいたのか、パチリと目を開け
僕の腕の中から身を乗り出すようにして前方を見つめた。
「お……おうちっ! 」
子供が指差した先……鬱蒼とした木々の隙間に
巨大な岩壁と同化したような
粗末だが頑丈そうな木造の柵が見えてきた。
どうやら、ここが彼らの『縄張り』らしい。
……だが、この直後
安堵する間もなく、その柵の周囲の茂みから
ガサリ、ガサリと複数の気配が立ち現れた。
「そこまでだ、人間」
……低く、警戒心に満ちた声。
木々の陰から姿を見せたのは、腕の中の子供と同じように
獣の耳と尻尾を持った、大人の獣人たちだった。
彼らの手には、鋭く削られた木槍や石の斧が握られ
その切先はすべて、僕とミアに向けられていた。
「我らの聖域に、何用か……それ以上近づくなら、容赦はしない」
鋭い敵意と、張り詰めた緊張感。
どうやら、新しい『日向』でゆっくりと昼寝をするためには
もう少しだけ面倒な『手順』が必要らしい。
僕は溜息をつき、彼らに向けてゆっくりと歩みを出した――




