第2話:ただの威嚇が伝説の始まり。
地面を蹴るたびに、恐ろしいほどの速度で景色が後ろへと流れていく。
人間の足というのは、本来こんなに速く動くものだっただろうか?
……いや、違う。
この異常な脚力は、どうやら僕の魂が入ったこの器
『ユウシャ』とやらの身体能力のせいらしい。
……だが、今はそんなことよりあの忌々しい『唸り声』だ。
直後……木々を抜け、開けた場所に出た僕の目に飛び込んできたのは
三メートルはあろうかという巨大な獣の姿だった。
灰色の剛毛に、涎を垂らした巨大な顎。
……紛れもなく犬系の種族だ。
そいつが今まさに、地面にへたり込んでいる
人間の少女に飛びかかろうとしているところだった。
(良く考えろ……助ける義理はない)
僕の足はピタリと止まった。
人間がどうなろうと知ったことではない。
むしろ、あの薄汚い手で僕たちをいじめる連中が減るのなら
そのまま見捨てて踵を返すのが正解だ。
そう思い、視線を少女へと向けた時
僕は奇妙なことに気付いた……何故か、彼女からは
あの、人間特有の嫌な臭いがしないのだ。
今、恐怖で縮こまっている彼女から漂ってくるのは
どこかの『陽だまり』を思わせるような
鼻先を近づけたくなる不思議な匂いだった。
『ガァルルルルッ!!』
……そんな考えを遮るように眼前の『デカい犬』が鼓膜を劈くような咆哮を上げた。
その瞬間、僕の中の何かがプツンと弾けた。
「嗚呼……やっぱりだ」
……声の大きさこそ違えど、その耳障りな周波数は
生前、僕が塀の上を歩くたびに下からギャンギャンと吠え立ててきた
あの忌々しい犬と完全に一致している。
あの頃は高所から見下ろしてやり過ごすしかなかったが……今は違う。
「五月蝿い……黙れ」
低く唸るような言葉が口から漏れた
直後、呼応するようにこちらに目を向けた『でかい犬』は
標的を僕に変え、血走った目のまま地面を抉り
その、圧倒的な質量で突進して来た。
だが……不思議と『怖い』とは思わなかった。
ただ、猛烈に腹が立ったのだ――
「僕の平穏を邪魔するな……その、汚い声で吠えるな」
腰に提げた『鉄の棒』を使おうと言う発想すらなかった。
そもそも人間の道具の使い方は良く分からない。
僕はただ、迫り来る巨大な犬の顔を真正面から睨みつけ
肺の底から息を吸い込み、前世から染み付いた最大の防衛本能を
声帯に乗せて叩きつけた。
「――シャーッ!!」
それは、純粋な威嚇だった……だが。
この異常な器を通し放たれた僕の怒りは
直後、目に見える物理的な衝撃波となって空間を爆発させた。
ドゴォォォォンッ!!
「きゃあッ!?」
凄まじい暴風が吹き荒れ、少女が短い悲鳴を上げる。
僕の口から放たれた衝撃波は『でかい犬』の顔面に直撃し
その巨体を、まるで木の葉のように軽々と吹き飛ばしてしまったのだ。
……『でかい犬』は数十メートル後方の太い幹に激突し
ピクピクと痙攣したのち、完全に沈黙した。
「何だろう今の……まぁ、良いや……ふぅ」
風が収まり、静寂が戻る。
僕は、自分の手を見た……どうやら、この体は
僕が思っている以上にデタラメな構造をしているらしい。
ただ『威嚇』しただけであんな風になるなら
今後、迂闊に伸びも出来ないじゃないか。
まぁ、良い……あの不快な犬の声が消えたのだから、今はそれで充分だ。
……踵を返し、今度こそ静かな日向を探しに行こうとした瞬間
背中に、震える声が投げ掛けられた――
「あ、あの……っ!」
――振り返ると
少女がふらつく足で立ち上がり、こちらを見つめていた。
恐怖……いや、それ以上の畏敬が混じったような目をしている。
「助けていただいて、ありがとうございます……!
あの、もしよろしければ、お名前を……っ」
『名前』……その言葉を聞いた瞬間、僕の脳裏に過った
『にゃん太郎』という間抜けな響きと、あの冷酷な『飼い主』の顔。
胸の奥がギリギリと痛む……あんな名前、もう二度と名乗るものか。
「面倒だな、僕の名前は……」
僕は、咄嗟に別の名前を考える事と成った……嗚呼、そうだ。
近所を取り仕切っていた、あの堂々としたイケメンボス猫。
彼なら、こんな犬ころ一匹など視線だけで追い払っていただろう。
確か、近所の変わり者の老婆が彼をこう呼んでいたはずだ――
「……『バースト』だ」
「バ、バースト様……?」
少女の目が、限界まで見開かれた。
そして、直後……弾かれたようにその場に両膝をつき
深く深く頭を下げると……
「や、やはり……!
いかなる武器も用いらず、ただの一喝で凶悪な魔物を粉砕するそのお姿。
あなたが、あのおとぎ話に聞く伝説の戦士『バースト様』なのですねっ!?」
「……は?」
「命を救っていただいたこの御恩、一生忘れません!
ですので、どうか! この私をバースト様の側付きとしてお供させてください!」
……地面に額を擦り付ける勢いの少女を見下ろしながら
僕は理解が出来ずに居た。
伝説の戦士に……側付き?
何を言っているのか全くわからないが
どうやらこの人間の世界は、僕が思っていたよりも
遥かに面倒なことになっているらしい。
尻尾があれば、間違いなく苛立ちで地面をバンバンと叩きつけていただろう。
僕の平穏な『日向ぼっこ計画』は、どうやら開始早々
暗礁に乗り上げてしまったようだ――




