第18話:無遠慮な視線と、縄張りの放棄
太陽の熱が少しずつ弱まり
代わりに肌を撫でる風が涼しさを帯びてきた頃……僕は
腹の上の『湯たんぽ』がモゾモゾと動く感覚で目を覚ました。
「ふぁ……」
僕はゆっくりと立ち上がり、両手を前方に思い切り伸ばして
背中を大きく反らせた……前世から変わらない
目覚めの後の念入りなストレッチだ。
……足元では、僕の真似をするように
子供も小さな両手を前に出して「んーっ」と背中を伸ばしていた。
「嗚呼……よく寝た」
不快な悪臭も騒音もない、素晴らしい昼寝だった。
だが、目が覚めると同時に僕の鋭い聴覚がある異変を捉えた。
ざわ、ざわ、ざわ……館の下の方から
無数の羽虫が這い回るような、低くくぐもった音が聞こえてくるのだ。
僕は不審に思い、見張り塔の石造りの手すりから眼下の広場を見下ろした。
「……なッ!? 」
思わず、眉間に深いシワが寄る……広場から館へと続く大通りを
人間、人間、人間……おびただしい数の人間たちが埋め尽くしていたのだ。
しかも、その全員が一言も発さず
ただジッと、見張り塔の上にいる僕を見上げている。
数百、いや数千の『視線』が、一直線に僕へと突き刺さっていた。
「ミア……なんだ、あれは」
「街の民たちです、バースト様」
いつの間にか階段を登ってきていたミアが
なんとも誇らしげな顔で僕の隣に近付いて来た。
「領主軍が降伏し、あの悪逆非道な男爵が打ち倒された。
という噂は、すでに街中に広まっています……彼らは皆
自分たちを救ってくださった新たなる王
バースト様のお姿を一目見ようと……そして
王から新たなる『勅命』を賜ろうと
あのように静かに平伏して待っているのです!」
……新たなる王? 勅命?
相変わらず何を言っているのか全くわからない。
僕たち猫の世界において、見知らぬ相手からジッと『目を合わせられる』
というのは、明確な『敵意』か『挑戦 』の合図だ。
……これだけの数の人間が、一斉に僕の目を見て威嚇してきている。
つまり、彼らはこの新しい縄張りを奪い取るために
僕に集団で喧嘩を売りに来ている……ということになる。
「……鬱陶しいな」
僕は極めて不機嫌に低く唸り、眼下の群衆を鋭く睨み返した。
『イケメンボス猫』の名を借りた者としての『矜持』だ。
……売られた喧嘩から目を逸らすわけにはいかない。
「ひぃっ……!」
「王が、我々を見下ろしておられる……っ」
僕が睨み返した瞬間、群衆の中から悲鳴のようなざわめきが起こり
彼らは一斉にバタバタと地面に額を擦り付け始めた。
「おお……なんと威厳に満ちた眼差し……!
バースト様はただ一瞥しただけで、数千の民の心は完全に掌握され
絶対の忠誠を誓わせてしまわれました! 流石です……っ!」
隣でミアがまた勝手に感動して震えている。
だが、僕の心の中は、苛立ちと同時に
『ひどい落胆』で満たされていた……ダメだ、この縄張りは。
日当たりは最高だったが、こんなに大量の人間が湧いてくるのでは
全く以て落ち着けない……それに
彼らが放つ興奮した汗の匂いと泥の匂いが混ざり合い
風に乗ってここまで昇ってくるのもひどく不快だった。
それに何より、ぐぅぅ……と腹の虫が鳴った。
「嗚呼……腹が減った」
昼寝の間に体力を回復したせいか、猛烈な空腹感が襲ってきた。
人間の食べ物は味が濃すぎて好きではないし
どこか静かな川で、新鮮な魚でも捕まえて食べたい気分だ。
「ミア。行くぞ」
「はいっ! いよいよ民たちの前へ降り立ち
王としての初めの御言葉を……!」
「いや、この街から出る」
「……へ?」
ミアが間抜けな声を出し、ポカンと口を開けた。
「で、出る? ……こ、この街をですか?
バースト様、何を仰っているのですか!?
これだけの民があなたを王と崇め、この館も、街の財産も
すべてバースト様の意のままに……」
「人が多すぎて、頭が痛くなるし……臭い」
僕はそれだけを言い捨て、足元にいた『湯たんぽ』の
衣服の首根っこを掴んで持ち上げた。
「……それに、腹が減った。静かな川を探す」
「か、川ぁ!? さ……魚ですか!? ……って! 待ってくださいっ!
王になれば最高級の肉も魚も毎日食べ放題で! ……って、あああっ!」
僕が見張り塔の手すりの上に足をかけたのを見て、ミアが悲鳴を上げた。
だが、僕は彼女の制止など聞く気は無い……直後『湯たんぽ』を抱え
数十メートルの高さがある塔の頂上から
眼下の広場へ向かってためらいなく飛び降りた。
……風を切る音、群衆の頭上が
みるみるうちに近づいてくる。
僕は空中でくるりと身を翻し、膝のクッションを柔らかく使って
石畳の広場の中央に『トンッ』と音もなく着地した。
「「「…………っ!!」」」
空から突然降ってきた僕を見て
地面に平伏していた人間たちが息を呑み、まるで
『大きな足音に怯えたネズミの群れ』のように
一斉にバタバタと左右へと道を開けた。
……全ての人間が硬直している中、僕は無言のまま
ただまっすぐに、街の出口である城門へと向かって歩き始めた。
右手に『湯たんぽ』を抱えたまま
周囲の人間には一切の目もくれず、悠然とした足取りで。
「バ、バースト様ぁぁーっ! お待ちをぉぉぉーっ!!」
背後の見張り塔の上から、ミアの情けない叫び声が響くのが聞こえた。
どうせすぐに、必死の形相で階段を駆け下りて追いかけてくるだろう。
あのポンコツは、放っておいても勝手についてくる『謎の習性』があるから
きっと、気にしなくていい。
……こうして僕は、わずか数時間だけ滞在した
『一番高い屋根の縄張り』をあっさりと捨て
まだ見ぬ静かな『日向』と新鮮な魚を求めて
再び、旅の空の下へと歩き出したのだった――




