第17話:一番高い屋根と、新たなる縄張り
悪臭の充満する部屋に長居する理由は欠片もなかった。
僕は踵を返し、扉の枠だけが残った入り口を通り抜けて廊下に出た。
直後、ミアの手から再び僕の服の裾へと乗り換えてきた獣人の子供が
ホッとしたように僕の足にすり寄ってくる。
「うぅぅ! ……」
「ああ、待たせたな……行くぞ、ミア」
「は、はいっ!」
僕たちが廊下を歩き出すと
遠巻きにこちらの様子を窺っていた残存の兵士たちが
ビクッ! ……と肩を跳ねさせた。
彼らは、僕の背後にある部屋
巨大な壺が粉砕され『最高級の悪臭』にまみれ
白目を剥いている彼らの親玉の姿を見て、一斉に武器を床に放り出した。
ガシャン、カラカラン……そして、まるで示し合わせたかのように
両手をついて床に平伏し、ガタガタと震え始めたのだ。
一体……何をしているのだろうか?
戦意がないのはわかるが、ただうずくまって震えている姿は
天敵を前にした小動物のようでひどく滑稽だ。
だが、あの不快な金属音を立てなくなったことと
大声で喚かなくなったことだけは評価できる。
「まぁ……静かでいいか」
僕が短く呟くと、平伏していた兵士たちは「ひぃっ」と息を呑み
さらに深く頭を床に擦り付けた。
「命だけは……っ! どうかお助けを……!」
「我々はただ、命令に従っていただけで……っ」
「……やかましい。喋るな」
せっかく静かになったと思ったのに
またブツブツと耳障りな音を立て始めたので、僕は低く唸った。
途端に兵士たちは口を噤み、石像のように固まる。
これでいい。静かなのが一番だ。
「バースト様……」
背後を歩くミアが、またしても感極まったような声を出した。
「ただ一睨みで、領主軍の残党を完全に降伏させるとは……しかも
無駄な血を流すことなく、彼らに『沈黙』という最も重い服従を誓わせる。
その圧倒的な覇王の器、ただただ感服いたしました……っ!」
……服従も何も、ただうるさいから黙らせただけだ。
いちいち僕の行動を大層な言葉に変換するこのポンコツ娘の思考回路は
恐らく一生理解出来そうにない。
「それよりも……『日向』だ」
僕は苛立ち混じりに周囲を見回した。
この館の中はどこもかしこも薄暗く
妙な匂いが染み付いていて不快だ。
一刻も早く、太陽の光を浴び服についた嫌な匂いを飛ばしたい。
「ミア。この巣箱で一番高くて風通しのいい場所はどこだ? 」
「えっ? 一番高い場所、ですか?
それでしたら……この上の、見張り塔の屋上かと」
ミアが指差した先にある階段を、僕は迷わず登り始めた
扉を蹴り開けて外に出ると、そこは
視界を遮るものが何一つない館の最上部だった。
……吹き抜ける風が、体に染み付いた埃と悪臭をさっと撫でていく。
そして何より、頭上からは遮るもののない太陽の光が惜しみなく降り注いでいた。
「嗚呼……完璧だ」
僕は満足げに息を吐き、見張り塔の縁。街全体を見下ろせる
一番日当たりの良い石造りの手すりの上に飛び乗った。
「ひゃあっ!? バ、バースト様、そこは落ちたら……!」
ミアが慌てて手を伸ばすが
僕にとってこの程度の細さの足場など、平らな地面と何も変わらない。
僕は手すりの上でゆっくりと体を丸め
太陽の熱を背中全体で受け止める体勢に入った。
そして、足元までトテトテと付いてきていた獣人の子供を
片手でヒョイッと持ち上げ、自分の腹の上にポンと置いた。
子供は一瞬驚いたように目を瞬かせたが
すぐに僕の腹の温かさに気付き、ふにゃりと顔を綻ばせて丸くなった。
ゴロゴロゴロ……喉の奥を細かく震わせる心地よい音が
再び僕の体に伝わってくる。
「ふぅ……」
ようやく訪れた、完璧な平穏……心地よい風。極上の『日向』
そして、安心しきった子猫の温もり。
これ以上の幸せが、この世界にあるだろうか?
僕はゆっくりと目を閉じ、意識を微睡みの底へと沈めていった――だが。
僕がそんな至福の時間を過ごしている間
眼下に広がる街の人間たちがどのような騒ぎになっていたか
僕は知る由もなかった。
「お、おい! 見ろ、領主の館のてっぺん……!」
「嘘だろ……一人で館を落としちまったっていうのか!?」
「あ、あのお方は……伝説の英雄だ……っ」
「我々を、あの暴君から解放してくださったんだ……!」
……だが、誰かが跪き、祈りを捧げ始めたのを皮切りに。
街中の人間たちが次々と膝をつき、見張り塔の上の僕に向かって
深い感謝と畏敬の念を込めて頭を下げ始めてしまった。
そして――
「バ、バースト様……」
――見張り塔の内側で
その光景を呆然と見下ろしていたミアが、震える声で呟いた。
「あなたは……この街の『王』になられたのですね……っ」
当の僕は、そんな大げさな事態になっていることなど露知らず。
ただ『新しくて快適な縄張りを手に入れた』という満足感と共に
深い昼寝を満喫していた。
こうして、理不尽に殺された一匹の猫は
異世界で最強の肉体を手に入れ、ただ己の安眠と『日向』を求めた結果
なぜか一つの街を救った『伝説の英雄』として
その第一歩を踏み出すことになってしまったのである。
「……そんなつもりは無い、僕はもう少し寝る」




