第13話:騒音の巣箱と、正しい顔の洗い方
腹の上の『湯たんぽ』がモゾモゾと動く感覚で、僕はゆっくりと目を覚ました。
見ると、獣人の子供が僕の腹から滑り降りて、横にちょこんと座っていた。
熱はすっかり下がったようだが、まだ少し怯えたような目で周囲を見回している。
そして、自分の顔や腕に付いたままの汚れが気になるのか
不器用に両手で顔を擦り始めた。
……だが、そのやり方はひどく雑だった。
ただ、乾いた手でゴシゴシと擦っているだけで
汚れが顔全体に広がってしまっているのだ。
「……下手くそだな」
僕が短く呟くと、子供はビクッと肩を揺らしてこちらを見た。
「いいか、よく見ておけ。身だしなみというのは、こうやって整えるんだ」
僕は起き上がり、自分の手の甲を少しだけ舌で湿らせると
それを耳の後ろから顔面にかけて、円を描くように滑らせた。
何度か同じ動作を繰り返し、最後に少しだけ顎を上げて見せる。
「……」
子供は目を丸くして僕の動きをじっと観察していたが
やがて見よう見まねで、自分の手の甲をペロッと舐めた。
そして、そのまま小さな手で、ピンと立った獣の耳の後ろから顔に向かって
クルクルと擦り始めた。
ペロッ。クルクル。ペロッ。クルクル。
「……悪くない」
僕が短く評価を下すと、子供はパァッと顔を輝かせ
さらに一生懸命に顔を洗い始めた。
同族の子猫が正しい毛繕いを覚えるのを見るのは
ボスとして非常に気分がいい。
「バースト様、お目覚めですか……って、ふふっ♪
お二人で何をなさっているんですか?」
不意に水車小屋の入り口からミアの声がした。
外の様子を探りに行っていた彼女が、少し焦ったような
それでいて僕たちの謎の動きを見て呆気にとられたような顔で立っている。
「ただの身だしなみだ。……それより、外はどうなっている」
僕が訊ねると
ミアはハッとして表情を引き締め、足早に近づいてきた。
「それが……状況は最悪です。
領主軍の本隊が動き出しました……街の門は完全に封鎖され
重装兵たちがこの区画を虱潰しに捜索し始めています。
……おそらく、今日の夕暮れにはこの水車小屋も完全に包囲されるかと」
ミアの言葉に合わせて、遠くから『ガシャ、ガシャ』という無数の金属音と
怒声のようなものが風に乗って聞こえてきた。
「……チッ」
僕は不快感に顔をしかめた。
どうして人間という生き物は、少し痛い目を見たくらいで
大人しく引き下ってくれないのだろうか。
わざわざ仲間を連れてきて、さらに大きな音を立てるなんて
羽虫以下の知能としか思えない。
「そ、その……バースト様、提案があります」
ミアが真剣な声で身を乗り出してきた。
「夕暮れ時、軍の捜索網が少し緩むタイミングを見計らって
この街の地下水路から脱出しましょう。
夜の暗闇に紛れれば、バースト様の身体能力なら
私とこの子を抱えて城壁を飛び越えることさえも可能なはずです……!」
……日の落ちかけた時間に
暗くて冷たい地下水路を這い回り、こそこそと逃げる。
その提案を聞いた瞬間、僕の気分は最悪のどん底まで落ち込んだ。
「断る」
「えっ……? で、ですが、このままでは多勢に無勢……!」
「夜は寒いし、日向もない。
そんな時間にわざわざ冷たい水路を歩くなど、正気の沙汰ではない」
僕が心底嫌そうに吐き捨てると、ミアはポカンと口を開けた。
そして数秒後、彼女の中でまたしても『何か』が都合よく変換されたらしい。
「そ、そうですよね……!
伝説の戦士であられるバースト様が
敵に背を向けて泥水の中を逃げ隠れするなど
戦士の誇りが許すはずもありません!
申し訳ありません、浅はかな提案でした……っ!」
勝手に納得しているが、僕はただ『寒くて冷たいのが嫌』なだけだ。
「ミア……その、一番やかましい音を出している連中の『巣箱』はどこにある?」
「す、巣箱、ですか? ……領主の館のことでしたら
この街の中央にある一番高い丘の上に……って。まさか」
ミアの顔から、再びスッと血の気が引いた。
「バースト様、まさか……逃げるのではなく
ご自身から領主の館へ攻め込むおつもりですか!?
あそこには、数百の精鋭と、強力な魔術師が待ち構えています!
いくらバースト様でも、たった一人で正面から……!」
「ミア……一つ、勘違いをしていないか?」
立ち上がり、服の埃を払いながら
僕はミアを冷たい目で見下ろした。
「……僕は、戦いに行くわけではない。
ただ、安眠を妨げる不快な騒音の元凶を『黙らせにいく』だけだ」
「それは……っ!」
羽虫が飛んできたら、払う。
それでも次から次へと湧いてきて安眠を邪魔するなら、その原因ごと叩き壊す。
それは、気高い猫として、自分の平穏な縄張りを守るための
ごく当たり前で、最も合理的な行動だ。
「お前とこいつは、ここで待っていろ……すぐに静かにしてくる」
僕が踵を返し、水車小屋の入り口に向かって歩き出したその時だった。
背後で、小さな足音がトテトテと付いてくる気配がした。
振り返ると、顔を洗い終えて少しだけ小綺麗になった獣人の子供が
僕の服の裾を小さな手で確りと握りしめていた。
その目は「置いていかないで」と訴えかけているように見える。
「離せ……邪魔だ」
「うっ! ……」
僕が低く唸っても、子供は首を横に振り、さらにギュッと裾を握りしめてきた。
前世で見かけた『イケメンボス猫』の様子が蘇る。
一度懐いた子猫というのは、親やボスと認識した相手の背中を
どこまでも追いかけてくるものなのだ。
「……チッ。勝手にしろ」
僕は溜息をつき、子供を片手で抱え上げた。
「バ、バースト様! 私も……私もお供いたします!
側付きとして、伝説の戦士の背中を最後まで見届けさせてください!」
背後から、覚悟を決めたようなミアの声が響く。
「分かった……だが、やかましくするなよ」
僕は短く、そう言いつけ
太陽が一番高く昇り始めた昼下がりの街へ、堂々と足を踏み出した――




