第10話:首根っこと、安全な寝床
忌々しい甘い臭いの跡を追って
路地の奥へ飛び込もうとした僕の足は
不意に掛けられた声によって止められた。
「バースト様、お待ちください……っ!」
振り返ると、ミアが泥だらけの子供を抱き抱え
必死の形相で僕を見上げていた。
「この子、ひどく熱があります。それに呼吸も浅くて……
このままでは、夜を越せません! だから……っ!」
「……チッ」
僕は短く舌打ちをした。
風に乗って漂う不快な甘い臭いは
まだ確実に僕の鼻を刺激している。
今ならすぐに追いついて
あの黒服共の親玉の息の根を止めることだって出来るだろう。
だが……視線を落とし、ミアの腕の中で
力なく垂れ下がっている小さな獣の耳を見た瞬間
僕の中の『怒り』が、別の強烈な『本能』によって上書きされた……そうだ。
前世で僕が密かに尊敬していたあの『イケメンボス猫』は
決して自分の怒りを優先させなかった。
縄張りに外敵が現れても
まずは自分の後ろにいる子猫たちを安全な場所へ避難させ
それから悠然と敵に立ち向かっていた。
弱りきった『子猫』を放り出して喧嘩に向かうなど
気高い猫のすることではない。
「分かった……追うのは後だ。まずは安全な寝床を探す」
「はいっ!」
僕の決断に、ミアがパァッと顔を輝かせる
直後、僕は彼女に近づき、その腕の中にいる子供の
『首の後ろの衣服』を無造作に片手で掴み、ヒョイッと持ち上げた。
「あぁっ!? バ、バースト様! そのような乱暴な……っ! 」
「ん? ……なんだ?」
「子供の首根っこを掴んでぶら下げるなんて……あっ!」
抗議しようとしたミアが、突然ハッとして口元を両手で覆った。
「……この子は人間たちに痛めつけられ、極度の人間不信に陥っている。
下手に人間らしく優しく抱きしめれば、逆にパニックを起こしてしまう
だからあえて、獣の親が子を運ぶ時と同じ
『首根っこを咥える』ような持ち方をして安心させているのですね……っ!」
と、またしても大層な『理解』をしてくれた訳だが
単に僕が『子猫の持ち運び方』をこれしか知らないだけだ。
それに実際、首の後ろを掴まれてぶら下がっている子猫は
不思議と暴れることもなく、脱力して大人しくなっている。
「ミア……お前の知っている場所の中で
一番静かで、人間が来ない場所へ案内しろ」
「承知いたしました! ……では、この街の裏手にある
今は使われていない古い水車小屋へ行きましょう!」
ミアの案内で、僕たちは裏路地を抜け
街の端にある薄暗い水車小屋へと身を潜めた。
……中は埃っぽいが、嫌な甘い臭いも
騒がしい足音も届かない……悪くない隠れ家だ。
僕は、子供を部屋の隅の柔らかい干し草の上に下ろすと
ミアに向かって顎をしゃくった。
「何か温かい『乳』と、こいつを包む清潔な布を用意しろ」
「はいっ! すぐに手配してまいります!」
……ミアが小走りで小屋を出て行くのを見送ると
僕は干し草の上で丸くなっている子供の隣に腰を下ろした。
子供はまだ小刻みに震えている。
よく見れば、顔には泥だけでなく
古い傷跡や血の塊がいくつもこびりついていた。
「仕方ない……顔周りだけは、綺麗にしておくか」
寝床に泥を持ち込まれるのは不愉快だ。
僕は無意識に自分の舌を出して舐めとろうとして
すんでの所で思いとどまった……ダメだ。
この『器』の舌はあまりに引っかかりがない
熱さには強いようだが、汚れを絡め取るのには全く向いていないのだ。
……人間の体というのは本当に不便極まりない。
仕方なく、僕は無駄に長い自分の服の袖口を少し破り取った。
それを小屋の床下を流れる水路の冷たい水で浸して固く絞ると
子供の顔の泥だけを強めに擦り始めた。
ゴシゴシ……ゴシゴシ……
「ぅ……ん……」
痛がるかと思ったが、子供の震えは次第に収まっていった。
親猫に毛繕いされている時の感覚を思い出しているのだろうか?
朧げな記憶だが……僕も昔、母猫にこうやって乱暴に顔を舐め回された。
そんな懐かしい記憶が、僕の手の動きを少しだけ優しくさせる。
……やがて、ミアが温かい山羊の乳を入れた木杯と
分厚い毛布を抱えて戻ってきた。
「バースト様、お待たせいたし……あっ」
ミアが小屋に入ってきた瞬間、彼女の足がピタリと止まった。
その視線の先にあるのは、顔の泥を拭き取られ
僕の太ももに寄りかかるようにしてスヤスヤと眠る子供の姿だった。
その喉の奥から聞こえる、微かだが強い音――
『ゴロゴロ……ゴロゴロ……』
――最大限に安心している時にしか鳴らさない
喉の奥を細かく震わせるその音は
漸く落ち着いたのだろう子供の安心を物語っていた。
「……どうした、早く布で包んでやれ」
「は、はいっ!」
慌てて近づき、持ってきた毛布で子供の体を優しく包み込んだミア
温かさに包まれ、子供がゆっくりと目を覚ます。
「う……!? 」
温かい山羊の乳が入った木杯に目が釘付けと成った子供に対し
そっと木杯を差し出したミア……甘く、独特な香りが小屋の中に広がった。
一方の子供は、ふらつく手で木杯を受け取り
ペチャペチャと音を立てて飲み始めた。
『飲める』程度には意識が確りしている事に安堵した僕は
ふと、横にいるミアの視線に気がついた……彼女は
子供が勢いよく飲む様子を優しく見守りつつも
じっと木杯を見つめながら、ゴクリと小さく喉を鳴らしていたのだ。
「ミア……お前も、飲みたいのか?」
「えっ!?」
僕の指摘に、ミアはなぜか顔を真っ赤にして――
「ち、違いますっ!
私はただ、美味しそうに飲むな~と思って見ていただけで!
わっ……私は大人の人間ですっ!
子供の飲み物を欲しがるほど食い意地が張っているわけでは……っ!」
――と、必死に両手を振って言い訳をするミアを見て
僕は静かに鼻で笑った。
この世界の人間の事はよく分からないが
こいつが相当な『ポンコツ』であることだけは間違いないらしい。
「ふぁあ……っ……」
子供の腹も満たし、安全な寝床も確保したことで
僕の身体にも限界が来ていた……あの羽虫どもを払うのに
また無駄な力を使ったせいだろう……急速な睡魔が襲ってくる。
「ミア……お前は、少し外を見張っていろ」
「は、はい! バースト様はお休みに?」
「ああ……少し、長めにな」
直後、干し草の上で丸くなり
温かくなった子供の体温を隣に感じながら
僕は、今度こそ深く静かな微睡みの中へと落ちて行く――




