第3回 二本のフラスコ
神殿の馬車というものは、どうしてああも「私は高いです」と自己紹介しながら走るのだろう、とイルメラは思った。
夜の鉱山に着いた黒塗りの馬車は、泥を跳ねることさえ上品ぶっていた。車輪の縁に銀の装飾、扉には神殿紋、御者台の灯具には無駄に磨かれた真鍮。鉱山の荷車が「運べればよし」の精神で生きているのに対し、こちらは「見ろ、権威だ」の精神で塗り固められている。
雨上がりの門前に、その黒だけがやけに浮いて見えた。
「趣味が悪い」
思わず言うと、隣のガルストが低く返した。
「こっちの景色に合ってねえって意味なら同意だ」
「いえ、泥がつくのに黒を選ぶあたりがです」
「そっちか」
作業棟の戸口から、何人もの技師が首だけ出して様子を窺っていた。好奇心と警戒心が半々、野次馬根性が二割増しといった顔ぶれである。こういうとき、人はだいたい隠れるつもりでぜんぜん隠れない。
やがて馬車の扉が開いた。
最初に降りたのは従者だった。次に、法衣の裾を泥から守るのに全神経を使っていそうな男が姿を現す。長身、痩躯、青白い顔。濡れた夜気の中でもきっちり襟を正し、眉ひとつ乱さない。いかにも「皺ひとつない報告書を書きます」という顔であった。
高位神官。
第1回の断罪の場で、イルメラに「測るな」と言い放ったあの男ではない。もっと若い。だが目元には同じ種類の硬さがある。自分の信じる秩序以外は存在しないと決めている者の目だ。
「神殿中央査察局、監察神官エドヴァン」
男は門前で名乗った。
声まで無駄がない。切れ味のいい紙ナイフみたいな声だった。
「こちらに、王都追放処分となったイルメラ・フォン・アルヴェインがいると聞く」
「逃げるならもう少し快適な場所を選びます」
イルメラが前へ出ると、エドヴァンは静かに視線を落とした。
「あなたが」
「ご足労痛み入ります。ぬかるみの中をわざわざ」
「皮肉ですか」
「事実確認です」
ガルストが横で咳払いした。たぶん「初手から煽るな」という意味だろう。だが相手もまた、初手から愛想よくする気はないようだった。
エドヴァンはわずかに顎を引いた。
「王都から報告を受けています。あなたは聖水の再現を吹聴し、信徒を惑わせ、神殿の権威を傷つけた」
「市場価格の話はしました」
「同じことです」
「違います。ずいぶん違います」
周囲の技師たちの肩がぴくぴくしている。笑いを噛み殺しているのだ。鉱山の者たちは我慢顔があまり上手くない。
エドヴァンはそれを無視した。
「本件については、正式な真偽判定を行う」
「ここで?」
「ここで」
「祭壇も聖歌隊もありませんが」
「必要ありません」
イルメラは少しだけ目を細めた。
なるほど。必要ないのだ。つまり、彼らが聖水を見分ける方法は、少なくとも彼の中では儀礼そのものではない。
「判定に用いる試料は二本」
エドヴァンは従者へ目配せした。漆塗りの細箱が運ばれ、中から一本の細長いフラスコが現れる。王家か神殿の倉から持ち出した、本物の聖水だろう。ガラスは上質で、栓には封蝋が打たれている。液体はかすかに青みを帯び、いかにも高そうな顔をしていた。
「あなたの再現品を一本、神殿側の正規聖水を一本。どちらが祝福を宿すかを判定する」
「ずいぶん親切ですね。見世物にしては道具立てが足りませんが」
「見世物ではない」
「なら密室で?」
「……必要なら」
「最初からそう仰ればよろしいのに」
エドヴァンの頬が、ほんのわずかに引きつった。
勝った。小さな勝利である。こういう人間は、感情を顔に出さないことで優位に立った気になっている節がある。そこで「ほんのわずか」でも揺れると、本人だけがものすごく腹を立てる。
結局、判定の場は作業棟の一角に整えられた。
普段は鉱石の純度確認に使っている長机が片づけられ、余計な工具がどけられる。煤をかぶった銅皿が外され、代わりに白布が一枚だけ敷かれた。布一枚で「儀式感」が出るのだから便利なものである。人類はだいたい布に弱い。
棟の中央に、二本のフラスコ。
左に神殿の正規品。右にイルメラが三日三晩かけて調製した再現品。
どちらも淡い青。どちらも透明。ランタンの光を受け、静かに細い反射を返している。
周囲には最低限の立会人だけが残された。ガルスト、若い技師ロム、子どもの母親、そして数名の古参技師。神殿側はエドヴァンと従者二名。誰もが妙に黙っていた。普段うるさいロムまで無口なのだから、緊張とは恐ろしい。
「二本の違いを、どう判定なさるのです」
イルメラが尋ねると、エドヴァンは白布の前へ進み出た。
「祝福水は、神に仕える者が触れればわかる」
「感覚頼みですか」
「感覚ではない。識別だ」
「便利な呼び替えですね」
「あなたは黙っていなさい」
「静かに見学いたします」
エドヴァンは深く息を吸い、まず左のフラスコに手を伸ばした。
栓を抜く。わずかな香りが広がる。神殿特有の、薬草と金属の奥に甘い残り香を混ぜた匂いだ。いまやイルメラにとっては「はいはい白花草ですね」の匂いだが、初めて嗅ぐ者には十分神秘に思えるだろう。
エドヴァンは目を閉じ、指先でガラスを支えたまま、ほんの少量を銀匙に取った。唇に触れる。喉を通す。
誰かが息を呑んだ。
次に右のフラスコ。
イルメラの再現品だ。
こちらも同じように栓を抜き、銀匙で取る。エドヴァンの眉間に、極細の線が寄る。集中しているのか、嫌な予感がしているのか、まだわからない。
飲む。
沈黙。
ランタンの火が、かすかに揺れた。
棟の外では、どこか遠くで夜番が荷車を引く音がしている。ぎい、ぎい、と遅い音だ。こんな瞬間でも鉱山は止まらない。
「……判定を」
従者の一人が促す。
エドヴァンは目を開けた。表情は、ひどく平坦だった。平坦にしようとして失敗した顔、と言ったほうが正しいかもしれない。
彼はまず左のフラスコへ手を置いた。
「祝福を宿している」
当然だろう。
問題は次だ。
右のフラスコへ、手が移る。
その一瞬だけ、エドヴァンの指先が見えるほど震えた。
「……これも」
声が低い。
「これも、祝福を宿している」
作業棟の空気が、ぐしゃっと音を立てて歪んだ気がした。
ロムの口が、見事に半開きになっている。子どもの母親は両手を握りしめたまま泣きそうな顔で固まっていた。ガルストだけが腕を組んだまま、石像のように動かない。
イルメラは言った。
「同等ですか」
エドヴァンは答えなかった。
「査察官殿」
「……同等」
吐き出すように言ってから、彼はまるで自分の舌を信用できないもののように一拍置いた。
そして。
「いや」
ほんのかすかに、右のフラスコを見た。
「こちらのほうが、効力が強い可能性が――」
そこまで言って、彼自身がはっと口を閉ざした。
密室の沈黙、というのはたいてい比喩だが、この瞬間は本当に部屋そのものが息を止めたようだった。
イルメラは静かに瞬きをした。
「今、そう仰いましたね」
「言葉尻を取るな」
「事実確認です」
「……」
「神殿正規品より、私の再現品のほうが強い可能性がある、と」
エドヴァンの顔色が、紙より白くなった。
やはりそうなのだ、とイルメラは確信する。
恐れているのは再現されたことではない。再現の先で、最適化されることだ。祈りの独占ではなく、手順の改良で上回られること。それが秩序の根を切る。
エドヴァンは二本のフラスコを見比べたまま、しばらく動かなかった。
やがて、絞り出すように言った。
「……この件は、公表してはならない」
棟の端でロムが「うわあ」と小さく呟いた。感想が素直すぎる。
イルメラは白布の向こうに立つ神官を見た。
「なぜです」
「秩序のためだ」
「どの秩序の?」
「信徒が拠る秩序だ。王都の施療院、地方救護院、寄進、巡礼、祭礼、流通、課税……それらはすべて聖なる供給を前提に組まれている」
「ずいぶん経済的な神聖ですね」
「笑い事ではない!」
初めて、エドヴァンが声を荒げた。
従者がぎょっとする。たぶん彼らも、上司がこんな声を出すのをあまり見たことがないのだろう。
「市場が崩れれば、施療も崩れる。神殿の威信だけの問題ではない。地方統治まで連鎖する」
「つまり、あなたが守りたいのは神そのものではなく、制度だ」
「制度を守らずに何を守る。人は秩序なしに救われない」
「けれど、その秩序は高価すぎます」
イルメラは一歩だけ前へ出た。
「鉱山では、一本の祝福水の値段で家族が食べられなくなる。救われる者を選ぶ仕組みを、あなたは秩序と呼ぶのですか」
エドヴァンの唇が硬く閉じる。
反論はいくつもあるのだろう。神殿にも言い分があるはずだ。流通には費用がかかる、偽造を防がねばならない、乱造は害を生む、教育なき拡散は危険だ――どれも部分的には正しい。
正しいから厄介なのだ。
イルメラはさらに問う。
「あなたは何を守りたいのです」
問いは静かだった。
だが作業棟の全員が、その一言を聞いた瞬間に背筋を伸ばしたのがわかった。
エドヴァンは、すぐには答えなかった。
長い沈黙ののち、彼はやっと低く言う。
「……崩し方を間違えれば、多くが死ぬ」
それは、初めて彼の口から出た本音らしい言葉だった。
イルメラは少しだけ目を細める。
この男は盲信者ではない。少なくとも、現実の勘定を知っている。だからこそ恐れている。
「では報告書にそう書けばいいでしょう」
「書けるか」
「『現行制度は破綻を孕む。段階的移行が必要』と」
「あなたは本当に神殿の文書を知らないな」
「知りたくもありません」
ロムがとうとう吹き出し、ガルストに肘で小突かれた。
エドヴァンは疲れた顔で目を閉じた。ついさっきまで一糸乱れぬ査察官だった男が、急に十年ほど老けたように見える。
「……今夜の判定は、外へ漏らさないでいただきたい」
「お願いになりましたね」
「命令では通らない相手だと理解した」
「ご理解が早くて何よりです」
「腹立たしい女だ」
「よく言われます」
そのあと、神殿側は別室――といっても作業棟の隣の会計部屋だが――へ下がった。
報告書を書くためだという。従者が紙束と携帯机を持ち込み、エドヴァンも後から入った。扉は閉まったが、古い木壁の向こうで椅子が軋む音、紙を押さえる音、ペン先が引っかかる音まで聞こえる。
鉱山の建物は秘密に向いていない。
「何て書くんだろうな」
ロムが小声で言う。
「『異常なし』じゃないですか」
イルメラは肩をすくめた。
「便利ですもの、あの言葉」
「いや絶対異常あっただろ今の」
「ありましたね」
白布の上には、まだ二本のフラスコが並んでいる。
双子のようでいて、実際には片方がもう片方を追い越してしまったかもしれない二本。どちらが本物か、という問い自体が、すでに少し馬鹿らしい。
ガルストがそのフラスコを見つめたまま言った。
「……勝った気分か」
「半分」
「半分」
「証明はできました。でも相手がその場で降伏するとは最初から思っていません」
「だろうな」
「だから残り半分は、不穏です」
「それもだろうな」
棟の外で風が鳴った。雲の切れた夜空から、遅れて月光が差し込み、窓辺のガラス片を青く光らせる。
しばらくして、隣室の扉が開いた。
エドヴァンが出てくる。顔はもう整っていた。少なくとも表面上は。だが手元の紙を持つ指先だけが、まだわずかに震えている。
「判定結果は本部へ送る」
「正確に?」
イルメラが問うと、彼は一瞬だけ沈黙した。
それから、答えずに視線を外した。
十分だった。
嘘を書くのだ。この男は。自分が守るべき秩序のために。
「神殿も大変ですね」
イルメラが言うと、エドヴァンは苦い顔をした。
「あなたほどではない」
「光栄です」
「褒めていない」
「でしょうね」
彼は従者に合図し、箱と書類を持たせた。
帰還の支度は素早かった。まるで一秒でも早くこの作業棟から離れたがっているようだ。まあ気持ちはわかる。自分の信じる世界が化学式で殴られた部屋など、長居したい場所ではない。
馬車へ向かう直前、エドヴァンは振り返った。
「イルメラ・フォン・アルヴェイン」
「はい」
「あなたは、危険だ」
「ありがとうございます」
「だから褒めていない」
「知っています」
彼は何か言いかけ、結局やめた。
黒塗りの馬車が夜の鉱山を離れていく。今度は来たときより静かだった。高価な車輪も、敗北のときは少し音が軽い。
見送ったあと、ロムが大きく息を吐いた。
「うわあ……本当に『こっちのが強い』って言いましたよね……?」
「言いました」
「俺、一生その顔忘れられない気がする」
「人の黒歴史を記憶するのはやめなさい」
「でも歴史じゃないですか」
「まだ現在進行形です」
ガルストは腕を組んだまま夜道の先を見ている。
「これで終わると思うか」
「思いません」
イルメラも同じ方向を見た。
神殿は隠すだろう。だが隠せば隠すほど、別の動きが生まれる。王都にはもう噂が戻る。査察が来た事実だけでも十分だ。しかも本部への報告が歪められれば、内部の綻びはさらに広がる。
制度は、嘘の上に立つと足音が増える。
その夜更け。
作業棟の片づけを終えたころ、遠くの街道から音がした。
最初はひとつかと思った。だが違う。微妙に間隔の異なる、複数の馬蹄だ。夜気の底を、乾いた打音が三筋に分かれて近づいてくる。
タッ、タッ、タッ。
ひとつは重い。軍馬か、護衛付きの公用。
ひとつは軽い。急使か、長旅慣れした細身の馬。
そしてもうひとつは、妙にせっかちだ。乗り手の性格までうるさそうな音だった。
ガルストが低く舌打ちする。
「増えやがった」
イルメラは暗い門の方へ視線を向けた。
神殿の追手。
隣国の使者。
そして――おそらく、王子自身。
月を映した窓ガラスの上で、二本のフラスコがまだ静かに光っていた。




