第4回 聖性の市場価格
夜明け前の鉱山は、色を忘れている。
空は薄い鉛色で、岩肌も建物も、みんな一度灰に沈めてから作り直したみたいな顔をしていた。そこへ三つの馬蹄の音が重なる。
ひとつは重く、ひとつは軽く、ひとつは妙にせっかち。
昨夜の予告どおり、というには演出が行き届きすぎている。誰が舞台監督なのか知らないが、性格が悪い。
「来たな」
ガルストが門の脇で腕を組む。
「ええ」
イルメラは作業棟の戸口からそれを見た。
まだ朝日も差しきらない時間だというのに、鉱山の技師たちはすでにあちこちから首を出している。寝起きの顔で野次馬だけは一流だ。ロムなど、片足だけ靴紐が結べていないくせに最前列へ来ていた。転ぶぞ。
最初に姿を見せたのは、神殿の騎馬だった。
黒ではなく灰色の軍馬。乗り手は二名。法衣の上に旅装の外套を羽織り、腰には短杖。昨夜の査察官エドヴァンとは別口だ。こちらは交渉ではなく処理に来た顔をしている。表情に「会話」という機能が最初から搭載されていない。
次に、軽やかな馬車。
車体は細身で、無駄な装飾が少ない。神殿の黒塗りよりずっと趣味がいい。車輪の泥はねを防ぐ布覆いまで実用的だ。扉には見慣れぬ紋章。隣国の学術組合か何かだろう。降りてきた女は痩せて背が高く、髪をきっちり結い上げ、分厚い革鞄を抱えていた。
あれは同類だ、とイルメラは一目でわかった。
鞄が重そうなのに嬉しそうな顔をしている人間は、だいたい同類である。
最後に。
いちばんうるさい馬蹄とともに、見覚えのある男が現れた。
第一王子レオンハルト。
王都で断罪のときに着ていた式服よりは簡素だが、それでも鉱山にはあまりにも浮いていた。鉱山の朝は煤と湿気でできているのに、彼だけ「私は香油で手入れされています」という匂いをまとっている。
相変わらず景色に馴染まない男だった。
「うわあ」
ロムが小声で言う。
「全部来た」
「献立みたいに言わないの」
イルメラは前へ出た。
三勢力が門前で揃うと、鉱山というより古い喜劇の舞台みたいだった。抹殺したい神殿、連れて帰りたい隣国、今さら復縁したい王子。目的がそれぞれ露骨すぎて、むしろ清々しい。
最初に口を開いたのは神殿側だった。
「イルメラ・フォン・アルヴェイン」
年かさの神官が、馬上から冷たく言う。
「神殿を惑わし、偽造聖水を流布し、秩序を乱した罪により――」
「長いので要約を」
「……身柄を拘束する」
「よくできました」
神官の眉が跳ねた。
やはり会話機能は弱いらしい。
次に、隣国の女が一歩進み出た。
「わたくしは隣国アルヴェル化学者組合、第二研究監エーリカ・ゼルヴァ」
声がよく通る。無駄がなく、言葉の端が硬い。だが神官の硬さとは違う。こちらは「説明すれば通じる」という前提がある硬さだ。
「あなたの件はすでに伝わっています。こちらとしては、亡命と研究保護を正式に提案したい」
「早いですね」
「遅いくらいです」
「好感が持てます」
「ありがとうございます」
即答だった。たぶんこの人は褒め言葉を無駄に往復させない。
そして最後に、王子。
レオンハルトは一度咳払いし、それからいかにも「ここから主役は私です」という顔を作って馬を下りた。鉱山の泥に王族の靴が少し沈む。靴が気の毒である。
「イルメラ」
声色だけは妙に柔らかい。
「私は……誤解していた」
うわあ、と今度はロムではなく、鉱山のあちこちから空気の「うわあ」が聞こえた。やめなさい、もう少し隠しなさい。
王子は続ける。
「君の才覚を、私は正しく理解していなかった。王都へ戻ってほしい。婚約の件も……再考できる」
沈黙。
鉱山じゅうの空気が「再考」を咀嚼していた。
イルメラは一拍置いてから言った。
「殿下」
「なんだ」
「その台詞、せめて私を流刑にした翌月ではなく、流刑にする前にご用意いただければ、もう少し費用対効果が高かったかと」
ロムが膝を叩いて笑い、ガルストに頭を小突かれた。
王子の顔がぴくりとする。
「私は謝っているんだぞ」
「聞こえています」
「なら――」
「ただ、論点が謝罪ではありませんので」
イルメラは静かに言った。
「殿下は私を理解していなかったのではなく、理解する必要がないと思っておられた。婚約者の知識が自分の権威を傷つけると知った瞬間、切り捨てた。そこに愛情も信頼もありません」
「それは違う!」
「違いません」
即答すると、王子は見るからに動揺した。
王都では、たぶんあまり即答で否定されないのだろう。周囲がもう少し遠慮して差し上げてほしい。
「今になって復縁を言い出すのは、私が正しかったからです。殿下は真理と結婚したいのではなく、勝ち馬に乗りたいだけでしょう」
「勝ち馬……」
「いま馬はあちらです」
イルメラは神殿の軍馬を指した。
ロムがとうとう吹き出してしゃがみ込んだ。神殿騎手がものすごく嫌そうな顔をしている。申し訳ないが面白い。
隣国のエーリカは、口元だけで笑っていた。
「では」
イルメラは三者を見渡した。
「皆さま、お急ぎのところ恐縮ですが、順番に」
「順番も何もない!」
神殿側が苛立たしげに言う。
「あなたは神殿の管理下に置かれる」
「それで何をなさるのです」
「危険な知識の拡散を止める」
「止まりませんよ」
「止める」
「もう止まりません」
イルメラは作業棟から持ってきた薄い冊子を三部、懐から取り出した。
粗い紙を綴じた、手製の製法書。
白花草抽出、青鉄塩精製、加熱条件、濾過、沈殿、希釈、安全域。最低限だが、要点は外していない。
「何だそれは」
王子が言う。
「製法書です」
「は?」
「聖水の」
三者の顔がそろって止まった。
その一瞬だけ、鉱山の朝がまた凍った気がする。人類は「言われてはいけない正解」を目の前に出されると、だいたい同じ顔になる。
イルメラは神殿、隣国、王子へ、一冊ずつ手渡した。
「公平にどうぞ」
エーリカだけが、受け取る手つきで中身の価値を理解していた。指がほんの少し速い。研究者の動きだ。
神殿側の神官は冊子を見下ろし、まるで毒でも持たされたような顔をした。
「正気か」
「ええ」
「これを、三者すべてに?」
「独占を防ぐには、同時に配るのが最も安いので」
「安いとか高いとかの問題では――」
「大いにそうです」
イルメラはきっぱり言った。
「一国の独占を別の国へ移すだけでは、値札の色が変わるだけでしょう」
エーリカが、そこで初めて真正面からイルメラを見た。
「つまり亡命提案は断ると」
「ええ」
「研究保護も、設備も、予算も提供できますが」
「魅力的です」
「でしょうね」
「ですが、それでは王都神殿の独占が、隣国組合の独占に置き換わるだけです」
エーリカは製法書を閉じた。
少しの沈黙。
それから、実に研究者らしい顔で言う。
「腹立たしいほど筋が通っていますね」
「ありがとうございます」
「褒めています」
「珍しい」
「本当に腹立たしい」
ロムが「この人好きだ」と小声で言った。わかる。
王子はまだ冊子を開いたまま固まっていた。目が文字の上を滑っているが、理解は追いついていない顔だ。たぶん「婚約者がこんなものを書ける」ことと、「自分がそれを失った」ことを同時に処理できていない。
「イルメラ!」
彼はようやく叫んだ。
「こんなものを公にしたら、王都が混乱する!」
「でしょうね」
「なら――」
「ですが、混乱するから正しい情報を隠してよい、とはなりません」
イルメラは冊子の一頁を軽く叩いた。
「再現できるものを神秘として独占し続ければ、いずれもっとひどい崩れ方をします。今朝壊れるか、十年後に壊れるかの違いです」
「十年待てば対処も――」
「その十年のあいだ、誰が高値を払い続けるんです」
王子は言葉に詰まった。
神殿神官が割って入る。
「理想論だ。製法が広がれば粗悪品も出回る。死人が出る」
「だから製法書に安全条件まで書きました」
「それで十分なはずが――」
「十分ではありません。ですから教育が要る」
イルメラは神官を見た。
「神殿が本当に人命を優先するなら、隠蔽ではなく公開と教育へ転じるべきです」
「神殿にそんな余裕はない」
「でしょうね。市場価格が崩れますから」
そのときだった。
鉱山の坂道を、息せき切った伝令が駆け上がってきた。煤だらけの少年で、片手にくしゃくしゃの紙片を握っている。朝の冷気の中で湯気みたいに息が白い。
「団長! 団長!」
「なんだ!」
「王都から早馬! 写しが、もう――」
少年は紙片をガルストへ押しつけ、次いでイルメラを見た。
「製法書の写しが、王都で流れ始めたって!」
門前の全員が止まる。
神殿神官の顔から、目に見えて血の気が引いた。
「何だと」
「商人組合と施療院、あと一部の工房に……朝にはもう回ってるって……値が、値が崩れたって!」
ガルストが紙を広げる。字は乱れているが内容は十分だ。
王都市場、祝福水の買い控え発生。神殿納入価格急落。卸が停止。転売屋が半泣き。施療院が確認中。写本屋が笑いすぎて手が震える。
ずいぶん生き生きした文面だな、とイルメラは思った。
「そんな……馬鹿な……」
王子が呟く。
「写しなんて誰が」
「さあ」
イルメラは首をかしげた。
「世の中には筆の速い人がいるのでしょう」
実際には、昨夜のうちにロムたちへ最低限の抜粋を頼み、さらに鉱山経由で王都の写本屋へ飛ばしていたのだが、それは今ここでわざわざ説明することでもない。事実として、もう流れた。それで足りる。
神殿側は完全に顔色を失っていた。
「市場が……一夜で……」
「八リブルですから」
イルメラは言った。
「原価が知れれば、値札はいつまでも聖句では支えられません」
エーリカが冊子を閉じ、深く息を吐いた。
「見事ですね」
「混乱してはいますが」
「ええ。ですが、見事に独占を殺した」
王子はまだ茫然としていた。
「では……君は王都へ戻らないのか」
「戻りません」
「隣国にも行かない?」
「行きません」
「神殿にも従わない?」
「その予定はありません」
「では、どうするつもりだ」
その問いに、イルメラはようやく少しだけ笑った。
作業棟の後ろを振り返る。
煤まみれの壁。夜通し火を入れた炉。並ぶフラスコ。仮設の棚。薬草の乾燥束。鉱石箱。乱雑だが、昨日まで誰かを救った場所。これからも救える場所。
「ここに、定量分析院を作ります」
鉱山の空気が一拍遅れて動いた。
ロムが「分析院」と復唱し、次に「院って何だろ」と言った。あとで説明するから待ちなさい。
「薬効、鉱石、水質、熱病、蒸留、配合、安全域。測れるものは全部測る。製法は残す。手順は教える。祝福を特権ではなく技術に戻す場所にします」
エーリカが口笛でも吹きそうな顔をした。吹かないだけで十分行儀がいい。
神殿神官は怒りと恐怖の中間みたいな顔で固まっている。
王子だけが、まだ理解の入口で立ち尽くしていた。
「そんなことをして、何になる」
「自由になります」
イルメラは答えた。
「少なくとも、値札をつける相手を選べるくらいには」
そのとき、門の陰からひとりの老人が現れた。
灰色の旅外套。痩せた体。青ざめた面差し。第1回の断罪の場で、ただひとり違う顔をしていた老神官だった。
イルメラは小さく目を見開く。
「あなた」
「……お久しぶりですな」
老神官は咳払いし、神殿側の騎手たちをまるで見えていないかのように通り過ぎた。
「名乗りが遅れました。わたくしはユリウス。神殿内で、かつて定量化を試みて……うまくいかなかった側の人間です」
「改革派の残党、というやつですか」
「残党とは可愛げのない」
「可愛げは重視していません」
「存じております」
老人はかすかに笑った。
「第1回の小瓶、覚えておいでですかな」
王子が顔を上げた。
「小瓶?」
「断罪の日、イルメラ殿が持っていた聖水サンプルです。あれはすでに、すり替え済みでした」
門前がまた凍る。
王子がものすごい勢いでイルメラを見る。
「な、何……?」
「殿下のお手元に残った王家聖水、あれはもう合成品です」
ユリウスはさらりと言った。
「ずいぶん前から少量ずつ置換を進めておりました。気づかれないことは確認済みです」
神殿側の神官が、今にも倒れそうな顔になった。
「貴様……!」
「人聞きが悪い。改革の準備です」
「それを先に言いなさいよ」
イルメラが思わず言うと、ユリウスは肩をすくめた。
「若い方の見せ場を奪うのも無粋かと」
「無粋です」
「褒め言葉として受け取ります」
この老人、かなり性格が悪い。
だが嫌いではない。
「では、神殿と手を組むか」
ユリウスは静かに問うた。
「改革派として、こちら側から支援もできます」
鉱山の朝が静まる。
王子も、神殿も、隣国も、ガルストも、皆イルメラを見ていた。
ここで「組む」と言えば話は早い。神殿内部の改革派と連携し、王都側から制度を変える道もある。だが、それでは結局また中心ができる。別の顔をした独占だ。
イルメラは首を振った。
「手は組みません」
ユリウスの眉がわずかに動く。
「ですが、敵にもなりません。それぞれの場所で定量を続けましょう」
「並走、ですかな」
「ええ。神殿は神殿で、内部から計量を進めてください。私はここで、開いた場所から広げます」
ユリウスはしばらく黙り、それから深く頭を下げた。
「……承知しました」
エーリカも軽く息を吐く。
「では隣国としては、独占ではなく公開研究として付き合う道を探しましょう」
「助かります」
「腹立たしいですが」
「それはもう伺いました」
王子だけが、なお立ち尽くしたままだった。
ようやく彼は、かすれた声で言う。
「本当に……戻らないんだな」
「ええ」
「私は」
「殿下」
イルメラは少しだけ柔らかく言った。
「謝罪は受け取ります。ですが、過去の判断は取り消せません。論理的に見て、私が戻る理由がありません」
「論理……」
「はい。感情ではなく」
王子は、その一言でようやく完全に負けを知った顔になった。
少し遅い。
だが遅いからこそ、本物なのだろう。
やがて三勢力は、それぞれ違う沈黙を抱えたまま引きはじめた。
神殿は崩れた市場の計算へ。隣国は新しい均衡の模索へ。王子は、自分が失ったものの大きさを持ち帰るために。
門前から人がはけていく。
残ったのは鉱山の朝の匂いと、煤と、冷えた空気と、作業棟の棚に並ぶフラスコだ。
ロムが言った。
「で、分析院って何するんです」
「まず文字を覚えなさい」
「そこからですか」
「安全手順を読めないと死にます」
「急に現実」
「化学ですから」
ガルストが鼻で笑う。
「弟子を取る気か」
「来るなら」
「変人しか来ねえぞ」
「知っています」
イルメラは作業棟へ入り、日誌を開いた。
煤のついた頁に、今朝の光が差す。
最終頁。
そこへ、静かに書きつける。
『祝福は、誰のものでもない』
少し考え、頁の端にもうひとつだけ書き足した。
『8リブル』
昨日までは値札だった数字。
今日からは、自由の最低価格。
日誌を閉じると、外でまた足音がした。
門のほうを見ると、見知らぬ少年がひとり、恐る恐る立っている。背には小さな荷物、手には擦り切れた紙束。どう見ても「研究したい目です」と書いてある顔だ。
「えっと」
少年が言う。
「ここ、定量分析院ですか」
ロムが吹き出した。
「まだ看板ないぞ!」
「じゃあ今つけます」
イルメラは言った。
鉱山の朝日が昇る。
棚のフラスコが、その光を受けて静かに輝いた。




