第2回 蒸留、第一夜
北方鉱山は、最初の一歩で鼻をやられる。
門をくぐった瞬間、イルメラはきっぱりそう思った。
石炭の煤。濡れた土。焼けた金属。人の汗。煮詰めた薬草のような苦い匂いまで混じっている。王都の大聖堂が焚く香の煙とは、同じ「鼻に来る」でも思想が違った。あちらはありがたがらせる匂いで、こちらは「働け」と言ってくる匂いである。
しかも門前にいたのが、聖職者ではなかった。
煤だらけの男たちがずらりと並び、腕を組み、露骨に「なんだこの荷物付きの令嬢は」という顔でこちらを見ていた。
護送の衛兵が、その中でもいちばん背の高い男へ書状を押しつける。
「流刑者イルメラ・フォン・アルヴェイン。受領を」
「荷物は」
男は低い声で言った。
「女ひとりと鞄ひとつです」
「いちばん厄介な種類だな」
衛兵が頷いた。余計な同意である。
男は書状をざっと読み、イルメラへ目を向けた。灰色の髪に煤が混じり、額には古い火傷の痕。肩幅が広く、作業着の袖から出た腕は道具箱より頑丈そうだった。
だが目だけは、工具の刃先みたいに無駄がない。
「鉱山技師団長、ガルストだ。貴族令嬢の世話係をする趣味はない」
「奇遇ですね。私も筋肉の塊に従順に保護される趣味はありません」
間髪入れずに返したら、後ろの技師たちがぶふっと吹いた。
ガルストの片眉が上がる。
「元気だな、流刑者」
「追放されたばかりですもの。しおらしくなるには、まだ荷馬車の尻痛が新鮮すぎます」
衛兵が咳払いをした。たぶん笑うのを我慢したのだろう。
ガルストは書状を畳み、顎で門の内側を示した。
「部屋は空いてる。壁はある。扉もたぶん閉まる。期待しすぎるな」
「寝台は」
「ある」
「マットレスは」
「藁だ」
「豪華」
「どのへんがだ」
「藁は燃料にも緩衝材にもなります」
「令嬢の感想じゃねえな」
そのとおりだった。
だがイルメラは、門の向こうに見える鉱山施設の雑多な配置に、すでに少し胸が躍っていた。積み上がる鉱石箱。煙を吐く炉。細い水路。乾燥棚。粗いが機能優先で組まれた木造の作業棟。王都の研究室より美しくはないが、あちらよりずっと正直だ。
必要だからそこにある、という顔をしている。
好きな顔だ。
「で」
ガルストが言った。
「神殿を怒らせた理由は何だ。司祭の頭に試験管でも刺したか」
「そこまで直接的ではありません」
「安心した」
「聖水の原価を口にしました」
「……は?」
「市価八リブル相当で再現可能だと、衆前で」
今度は、並んでいた技師たちの空気がまとめて止まった。
門の脇にいた若い技師が、持っていたレンチを取り落とした。がこん、と景気の悪い音がする。
ガルストだけが黙ったまま、じっとイルメラを見た。
「今、なんと言った」
「聖水です」
「そっちはわかる。わからんのは後半だ」
「原料と加熱条件を揃えれば再現可能です。まだ最終比率は詰め切っていませんが、目星は立っています」
ガルストの口が閉じたまま、顎だけが固まる。
それから、後ろを振り返った。
「おい」
「は、はい」
「全員、聞かなかったことにしろ」
「無理です団長」
「俺もそう思う」
彼は深く息を吐いた。
その吐息の重さが、単なる驚きではないことを、イルメラはすぐに理解した。
「……中で話すぞ」
案内されたのは、宿舎ではなく作業棟の奥だった。
長机に図面、工具、試薬瓶、鉱石片、使いかけの計算板が散らばっている。壁際には銅製の冷却管、簡易蒸留器、耐熱皿まであった。祭具に似た曲線を持つ金属器具が、煤まみれの棚に雑然と並んでいる。
イルメラは目を輝かせた。
「素晴らしい」
「何がだ」
「散らかり方が。人がちゃんと仕事している部屋です」
「王都の令嬢はもっと花瓶とか褒めるもんじゃないのか」
「花瓶は反応しませんもの」
ガルストは椅子を引いて座り、向かいを顎で示した。
「話せ」
イルメラは鞄を膝に置き、簡潔に話した。聖水の分析を試みたこと。原料の見当。青鉄塩と白花草抽出物、微量の石灰。加熱と分離。まだ本物との完全一致には届かないこと。
そして最後に、神殿がそれを禁忌として塞いだこと。
ガルストは一度も口を挟まなかった。
話し終えると、作業棟の外から、坑夫たちの怒鳴り声と荷車の軋む音が聞こえてきた。しばしその騒音だけが間を埋める。
やがてガルストが言った。
「こっちじゃ、祝福水一本で一週間分の賃金が飛ぶ」
声が低い。
「落盤で脚を潰したやつ、熱で寝込んだ子ども、肺をやられた年寄り。効くとわかってても、全員には回らん。神殿は寄進だの慈悲だの言うが、結局は金だ」
机の上の青鉄鉱を、彼の太い指がひとつつまんだ。
「ここで掘った鉱石が王都へ行く。神殿の祭具にも、聖堂の屋根にもなる。なのに戻ってくるのは、高値の水だ」
「だから鉱山が流刑地に選ばれたのかもしれません」
「どういう意味だ」
「原料の近くに、口の軽い化学屋を捨てておけば、たいていは事故ると思ったのでしょう」
ガルストが鼻で笑った。
「事故る気か」
「成功する気です」
即答すると、今度は口の端だけで笑われた。
「面白くない冗談だな」
「冗談ではなく計画です」
「もっと面白くない」
沈黙のあと、彼は背もたれに体重を預けた。
「もし本当に作れるなら」
「作れます」
「まだ作ってないだろ」
「作れます」
「強いな」
「根拠がありますので」
イルメラは作業台の器具へ目をやった。
「蒸留器を貸してください。白花草の乾燥在庫、青鉄塩の低純度分画、石灰水、それと清浄な水。できれば三日」
「三日?」
「正確には三日三晩あれば十分です」
「寝る気あるか」
「実験の途中で?」
「質問が悪かったな」
ガルストは額を押さえ、それから外へ向かって怒鳴った。
「おい、ロム! 在庫表持ってこい! あと誰もこの棟に勝手に入れるな!」
「団長、本気で?」
「本気でなきゃこの顔になるか!」
外から「いつもと同じ顔です!」という元気な返事が返ってきた。たぶん部下に愛されているタイプなのだろう。怒鳴っても誰も怖がっていない。
その日の夜から、実験が始まった。
まず白花草を砕く。
乾燥葉を乳鉢へ入れ、杵で押し潰すと、ぱり、ぱり、と薄い骨みたいな音が鳴る。立ちのぼる匂いは青く苦く、喉の奥に張りつく。王都で扱った上等な薬草よりずっと粗いが、有効成分はむしろ強く残っている気がした。
次に青鉄塩を水へ溶き、濾す。
鉱山由来の低純度塩は、想像どおり余計な砂と金属粉が多い。濁った液は麦茶どころか泥水の親戚だ。これを見てありがたがる信徒はいないだろうが、工程の途中などそんなものである。料理だって煮込み始めはだいたい不安な色だ。
火を入れる。
炉の熱が一気に頬へ押し寄せ、銅釜がごう、と唸る。ガラス管の内側に薄い蒸気が曇り、やがて雫となって落ちていく。ぽたり。ぽたり。静かなのに忙しい音だった。
イルメラは記録板に条件を書きつける。
重量。時間。温度感覚。色の変化。沈殿量。におい。神殿が「祈り」と呼ぶものを、彼女はただ順番に並べ替えていく。
「令嬢」
隣でふいごを踏んでいた若い技師が、おそるおそる口を開いた。
「その、これ、本当に効くんですか」
「効かなければ、ただのまずい湯です」
「身も蓋もねえな」
「科学に蓋をすると怒られますから」
若い技師は笑い、団長に睨まれてまた真顔に戻った。
三時間が過ぎ、六時間が過ぎる。
夜が深まるにつれ、炉の赤とランタンの黄だけが棟の中を照らした。人の顔も器具の影も、皆どこか企み顔に見える時間帯である。
二日目には、抽出液の苦味と塩の配合比を変えた。
ひとつは効能が弱い。ひとつは刺激が強すぎる。ひとつは匂いがひどい。試料番号五に至っては、ガルストが鼻先で嗅いだ瞬間に「靴箱だ」と評した。貴重な評価である。少なくとも飲ませる前に棄却できた。
「本物の聖水も、最初から完成品じゃなかったはずです」
イルメラは沈殿を見ながら言った。
「誰かが何度も失敗した。ありがたさは、だいたい失敗の山の上に立っています」
「夢がねえな」
「夢を見るのは寝てからです」
「寝ないくせに」
三日目の夜。
外は雨になっていた。
屋根を叩く音が単調に続き、作業棟の中だけが別の時間で動いている。誰も大声を出さなくなっていた。疲れているのもあるが、最後のひと押しに近づいているとき、人は自然と静かになる。
イルメラは六番目の試料を小瓶に取り、灯りへ透かした。
淡い青み。透明度。粘度の低さ。鼻を寄せたときの苦味の立ち方。どれもサンプルに近い。
「……これです」
ガルストが腕を組む。
「そう見えるだけじゃなくてか」
「そう見えるだけのものに、三日三晩も付き合わせません」
ちょうどそのとき、扉が乱暴に叩かれた。
「団長!」
若い母親が、びしょ濡れで飛び込んできた。腕に抱えた子どもは顔が赤く、荒い息をしている。咳のたびに胸がひゅうと鳴った。
「また熱が上がって……っ、診療所の祝福水は、もう……」
言葉が途切れる。
足りないのだろう。あるいは払えないのだろう。どちらでも同じことだった。
ガルストがイルメラを見る。
彼女は一拍だけ黙った。
完成判定直後の試料だ。理想を言えば、あと二段階ほど確認したい。反応の安定も見たい。観測者としては、ここで人に使うのは早い。
だが目の前の子どもの息は浅く、待ってはくれない。
「鉱山熱ですか」
「た、多分……昨日から咳が……」
「この子、何歳です」
「六つです」
イルメラは小瓶を見た。青い液が、ランタンの光の中で静かに揺れる。
倫理と知的欲求。その天秤は、いつだって綺麗には釣り合わない。
「薄めます」
彼女は言った。
「一度に全部は使いません。少量から。水を」
誰かが飛び、誰かが器を持ち、誰かが椅子を寄せた。さっきまで試料番号五を靴箱呼ばわりしていた若い技師まで、驚くほど機敏に動く。
イルメラは試料を慎重に希釈し、匙で子どもの口へ運んだ。
母親が震えている。
ガルストは黙って見ている。
棟の中の全員が、炉の音すらうるさいと思うほど静かだった。
子どもは少しむせ、苦そうに顔をしかめた。
「えらい」
イルメラは低く言った。
「まずいでしょう。でも効くなら、あとで大人に文句を言えばいい」
それから、長い時間が過ぎた。
実際には十五分ほどだったのかもしれない。だが待つ側の十五分は、時計職人が嫌がるほど伸びる。
やがて子どもの呼吸が、少しだけ深くなる。
咳の間隔が開く。
胸の笛みたいな音が和らぎ、赤かった頬がじわじわと熱を引いていく。
母親が、はっと息を呑んだ。
「……あ」
子どもが薄く目を開けた。
「おかあ、さん……おみず、にがい……」
元気な文句だった。
棟の中に、溜め込まれていた息が一斉に漏れる。
誰かが壁にもたれ、誰かが座り込み、若い技師のひとりはなぜか天を仰いで「靴箱じゃなかった……」と呟いた。そこは感想としてどうなのか。
母親は泣きながらイルメラの手を掴んだ。
「ありがとう……ありがとう、ございます……祝福、です……!」
その言葉に、イルメラの指先がわずかに止まった。
祝福。
神殿のものでも、王家のものでもなく、今たしかにこの場で誰かが救われた結果につけられた名前。
違和感があった。
だが、嫌悪ではなかった。
「祝福ではありません」
そう言いかけて、彼女は少しだけ言葉を選んだ。
「……手順です」
母親は涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、それでも何度も頷いた。たぶん、どちらでもよかったのだ。この子が息をしているなら。
夜更け。
皆がようやく散ったあと、イルメラは作業台の端で日誌を開いた。
紙には煤の指跡がつき、字は少し乱れている。寝不足の文字だ。
『三日目、六番試料。鉱山熱の症例に対し改善を確認』
書きつけてから、彼女は少し考えた。
『神の領域を侵したのか』
自分でそう記し、その下に短く答える。
『違う。測れるものを測った』
ペン先が止まる。
ランタンの火が、紙の端を琥珀色に照らした。外ではまだ雨が降っている。炉の残り熱が、じんわりと足元へ上がってくる。
この熱も、水滴も、沈殿も、子どもの呼吸も。
全部、現象だ。
現象なら、記録できる。
記録できるなら、渡せる。
独占される理由はない。
イルメラは日誌を閉じた。
そのとき、作業棟の外で、馬のいななきがした。
こんな時間に。
ガルストがすぐに扉へ向かい、外の様子を窺う。続いて低い舌打ちが聞こえた。
「……早すぎるだろ」
「何がです」
イルメラも立ち上がる。
団長は振り向かずに答えた。
「神殿だ」
棟の窓の隙間から、黒塗りの馬車の側面が見えた。
雨をはじく漆黒の塗装。扉に刻まれた銀の紋章。夜の鉱山には場違いなほど高価で、場違いなほど無音の車輪。
査察。
しかも、予定より早い。
ランタンの火が、小さく揺れた。




