表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/4

第2回 蒸留、第一夜



 北方鉱山は、最初の一歩で鼻をやられる。


 門をくぐった瞬間、イルメラはきっぱりそう思った。


 石炭の煤。濡れた土。焼けた金属。人の汗。煮詰めた薬草のような苦い匂いまで混じっている。王都の大聖堂が焚く香の煙とは、同じ「鼻に来る」でも思想が違った。あちらはありがたがらせる匂いで、こちらは「働け」と言ってくる匂いである。


 しかも門前にいたのが、聖職者ではなかった。


 煤だらけの男たちがずらりと並び、腕を組み、露骨に「なんだこの荷物付きの令嬢は」という顔でこちらを見ていた。


 護送の衛兵が、その中でもいちばん背の高い男へ書状を押しつける。


「流刑者イルメラ・フォン・アルヴェイン。受領を」


「荷物は」


 男は低い声で言った。


「女ひとりと鞄ひとつです」


「いちばん厄介な種類だな」


 衛兵が頷いた。余計な同意である。


 男は書状をざっと読み、イルメラへ目を向けた。灰色の髪に煤が混じり、額には古い火傷の痕。肩幅が広く、作業着の袖から出た腕は道具箱より頑丈そうだった。


 だが目だけは、工具の刃先みたいに無駄がない。


「鉱山技師団長、ガルストだ。貴族令嬢の世話係をする趣味はない」


「奇遇ですね。私も筋肉の塊に従順に保護される趣味はありません」


 間髪入れずに返したら、後ろの技師たちがぶふっと吹いた。


 ガルストの片眉が上がる。


「元気だな、流刑者」


「追放されたばかりですもの。しおらしくなるには、まだ荷馬車の尻痛が新鮮すぎます」


 衛兵が咳払いをした。たぶん笑うのを我慢したのだろう。


 ガルストは書状を畳み、顎で門の内側を示した。


「部屋は空いてる。壁はある。扉もたぶん閉まる。期待しすぎるな」


「寝台は」


「ある」


「マットレスは」


「藁だ」


「豪華」


「どのへんがだ」


「藁は燃料にも緩衝材にもなります」


「令嬢の感想じゃねえな」


 そのとおりだった。


 だがイルメラは、門の向こうに見える鉱山施設の雑多な配置に、すでに少し胸が躍っていた。積み上がる鉱石箱。煙を吐く炉。細い水路。乾燥棚。粗いが機能優先で組まれた木造の作業棟。王都の研究室より美しくはないが、あちらよりずっと正直だ。


 必要だからそこにある、という顔をしている。


 好きな顔だ。


「で」


 ガルストが言った。


「神殿を怒らせた理由は何だ。司祭の頭に試験管でも刺したか」


「そこまで直接的ではありません」


「安心した」


「聖水の原価を口にしました」


「……は?」


「市価八リブル相当で再現可能だと、衆前で」


 今度は、並んでいた技師たちの空気がまとめて止まった。


 門の脇にいた若い技師が、持っていたレンチを取り落とした。がこん、と景気の悪い音がする。


 ガルストだけが黙ったまま、じっとイルメラを見た。


「今、なんと言った」


「聖水です」


「そっちはわかる。わからんのは後半だ」


「原料と加熱条件を揃えれば再現可能です。まだ最終比率は詰め切っていませんが、目星は立っています」


 ガルストの口が閉じたまま、顎だけが固まる。


 それから、後ろを振り返った。


「おい」


「は、はい」


「全員、聞かなかったことにしろ」


「無理です団長」


「俺もそう思う」


 彼は深く息を吐いた。


 その吐息の重さが、単なる驚きではないことを、イルメラはすぐに理解した。


「……中で話すぞ」


 案内されたのは、宿舎ではなく作業棟の奥だった。


 長机に図面、工具、試薬瓶、鉱石片、使いかけの計算板が散らばっている。壁際には銅製の冷却管、簡易蒸留器、耐熱皿まであった。祭具に似た曲線を持つ金属器具が、煤まみれの棚に雑然と並んでいる。


 イルメラは目を輝かせた。


「素晴らしい」


「何がだ」


「散らかり方が。人がちゃんと仕事している部屋です」


「王都の令嬢はもっと花瓶とか褒めるもんじゃないのか」


「花瓶は反応しませんもの」


 ガルストは椅子を引いて座り、向かいを顎で示した。


「話せ」


 イルメラは鞄を膝に置き、簡潔に話した。聖水の分析を試みたこと。原料の見当。青鉄塩と白花草抽出物、微量の石灰。加熱と分離。まだ本物との完全一致には届かないこと。


 そして最後に、神殿がそれを禁忌として塞いだこと。


 ガルストは一度も口を挟まなかった。


 話し終えると、作業棟の外から、坑夫たちの怒鳴り声と荷車の軋む音が聞こえてきた。しばしその騒音だけが間を埋める。


 やがてガルストが言った。


「こっちじゃ、祝福水一本で一週間分の賃金が飛ぶ」


 声が低い。


「落盤で脚を潰したやつ、熱で寝込んだ子ども、肺をやられた年寄り。効くとわかってても、全員には回らん。神殿は寄進だの慈悲だの言うが、結局は金だ」


 机の上の青鉄鉱を、彼の太い指がひとつつまんだ。


「ここで掘った鉱石が王都へ行く。神殿の祭具にも、聖堂の屋根にもなる。なのに戻ってくるのは、高値の水だ」


「だから鉱山が流刑地に選ばれたのかもしれません」


「どういう意味だ」


「原料の近くに、口の軽い化学屋を捨てておけば、たいていは事故ると思ったのでしょう」


 ガルストが鼻で笑った。


「事故る気か」


「成功する気です」


 即答すると、今度は口の端だけで笑われた。


「面白くない冗談だな」


「冗談ではなく計画です」


「もっと面白くない」


 沈黙のあと、彼は背もたれに体重を預けた。


「もし本当に作れるなら」


「作れます」


「まだ作ってないだろ」


「作れます」


「強いな」


「根拠がありますので」


 イルメラは作業台の器具へ目をやった。


「蒸留器を貸してください。白花草の乾燥在庫、青鉄塩の低純度分画、石灰水、それと清浄な水。できれば三日」


「三日?」


「正確には三日三晩あれば十分です」


「寝る気あるか」


「実験の途中で?」


「質問が悪かったな」


 ガルストは額を押さえ、それから外へ向かって怒鳴った。


「おい、ロム! 在庫表持ってこい! あと誰もこの棟に勝手に入れるな!」


「団長、本気で?」


「本気でなきゃこの顔になるか!」


 外から「いつもと同じ顔です!」という元気な返事が返ってきた。たぶん部下に愛されているタイプなのだろう。怒鳴っても誰も怖がっていない。


 その日の夜から、実験が始まった。


 まず白花草を砕く。


 乾燥葉を乳鉢へ入れ、杵で押し潰すと、ぱり、ぱり、と薄い骨みたいな音が鳴る。立ちのぼる匂いは青く苦く、喉の奥に張りつく。王都で扱った上等な薬草よりずっと粗いが、有効成分はむしろ強く残っている気がした。


 次に青鉄塩を水へ溶き、濾す。


 鉱山由来の低純度塩は、想像どおり余計な砂と金属粉が多い。濁った液は麦茶どころか泥水の親戚だ。これを見てありがたがる信徒はいないだろうが、工程の途中などそんなものである。料理だって煮込み始めはだいたい不安な色だ。


 火を入れる。


 炉の熱が一気に頬へ押し寄せ、銅釜がごう、と唸る。ガラス管の内側に薄い蒸気が曇り、やがて雫となって落ちていく。ぽたり。ぽたり。静かなのに忙しい音だった。


 イルメラは記録板に条件を書きつける。


 重量。時間。温度感覚。色の変化。沈殿量。におい。神殿が「祈り」と呼ぶものを、彼女はただ順番に並べ替えていく。


「令嬢」


 隣でふいごを踏んでいた若い技師が、おそるおそる口を開いた。


「その、これ、本当に効くんですか」


「効かなければ、ただのまずい湯です」


「身も蓋もねえな」


「科学に蓋をすると怒られますから」


 若い技師は笑い、団長に睨まれてまた真顔に戻った。


 三時間が過ぎ、六時間が過ぎる。


 夜が深まるにつれ、炉の赤とランタンの黄だけが棟の中を照らした。人の顔も器具の影も、皆どこか企み顔に見える時間帯である。


 二日目には、抽出液の苦味と塩の配合比を変えた。


 ひとつは効能が弱い。ひとつは刺激が強すぎる。ひとつは匂いがひどい。試料番号五に至っては、ガルストが鼻先で嗅いだ瞬間に「靴箱だ」と評した。貴重な評価である。少なくとも飲ませる前に棄却できた。


「本物の聖水も、最初から完成品じゃなかったはずです」


 イルメラは沈殿を見ながら言った。


「誰かが何度も失敗した。ありがたさは、だいたい失敗の山の上に立っています」


「夢がねえな」


「夢を見るのは寝てからです」


「寝ないくせに」


 三日目の夜。


 外は雨になっていた。


 屋根を叩く音が単調に続き、作業棟の中だけが別の時間で動いている。誰も大声を出さなくなっていた。疲れているのもあるが、最後のひと押しに近づいているとき、人は自然と静かになる。


 イルメラは六番目の試料を小瓶に取り、灯りへ透かした。


 淡い青み。透明度。粘度の低さ。鼻を寄せたときの苦味の立ち方。どれもサンプルに近い。


「……これです」


 ガルストが腕を組む。


「そう見えるだけじゃなくてか」


「そう見えるだけのものに、三日三晩も付き合わせません」


 ちょうどそのとき、扉が乱暴に叩かれた。


「団長!」


 若い母親が、びしょ濡れで飛び込んできた。腕に抱えた子どもは顔が赤く、荒い息をしている。咳のたびに胸がひゅうと鳴った。


「また熱が上がって……っ、診療所の祝福水は、もう……」


 言葉が途切れる。


 足りないのだろう。あるいは払えないのだろう。どちらでも同じことだった。


 ガルストがイルメラを見る。


 彼女は一拍だけ黙った。


 完成判定直後の試料だ。理想を言えば、あと二段階ほど確認したい。反応の安定も見たい。観測者としては、ここで人に使うのは早い。


 だが目の前の子どもの息は浅く、待ってはくれない。


「鉱山熱ですか」


「た、多分……昨日から咳が……」


「この子、何歳です」


「六つです」


 イルメラは小瓶を見た。青い液が、ランタンの光の中で静かに揺れる。


 倫理と知的欲求。その天秤は、いつだって綺麗には釣り合わない。


「薄めます」


 彼女は言った。


「一度に全部は使いません。少量から。水を」


 誰かが飛び、誰かが器を持ち、誰かが椅子を寄せた。さっきまで試料番号五を靴箱呼ばわりしていた若い技師まで、驚くほど機敏に動く。


 イルメラは試料を慎重に希釈し、匙で子どもの口へ運んだ。


 母親が震えている。


 ガルストは黙って見ている。


 棟の中の全員が、炉の音すらうるさいと思うほど静かだった。


 子どもは少しむせ、苦そうに顔をしかめた。


「えらい」


 イルメラは低く言った。


「まずいでしょう。でも効くなら、あとで大人に文句を言えばいい」


 それから、長い時間が過ぎた。


 実際には十五分ほどだったのかもしれない。だが待つ側の十五分は、時計職人が嫌がるほど伸びる。


 やがて子どもの呼吸が、少しだけ深くなる。


 咳の間隔が開く。


 胸の笛みたいな音が和らぎ、赤かった頬がじわじわと熱を引いていく。


 母親が、はっと息を呑んだ。


「……あ」


 子どもが薄く目を開けた。


「おかあ、さん……おみず、にがい……」


 元気な文句だった。


 棟の中に、溜め込まれていた息が一斉に漏れる。


 誰かが壁にもたれ、誰かが座り込み、若い技師のひとりはなぜか天を仰いで「靴箱じゃなかった……」と呟いた。そこは感想としてどうなのか。


 母親は泣きながらイルメラの手を掴んだ。


「ありがとう……ありがとう、ございます……祝福、です……!」


 その言葉に、イルメラの指先がわずかに止まった。


 祝福。


 神殿のものでも、王家のものでもなく、今たしかにこの場で誰かが救われた結果につけられた名前。


 違和感があった。


 だが、嫌悪ではなかった。


「祝福ではありません」


 そう言いかけて、彼女は少しだけ言葉を選んだ。


「……手順です」


 母親は涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、それでも何度も頷いた。たぶん、どちらでもよかったのだ。この子が息をしているなら。


 夜更け。


 皆がようやく散ったあと、イルメラは作業台の端で日誌を開いた。


 紙には煤の指跡がつき、字は少し乱れている。寝不足の文字だ。


『三日目、六番試料。鉱山熱の症例に対し改善を確認』


 書きつけてから、彼女は少し考えた。


『神の領域を侵したのか』


 自分でそう記し、その下に短く答える。


『違う。測れるものを測った』


 ペン先が止まる。


 ランタンの火が、紙の端を琥珀色に照らした。外ではまだ雨が降っている。炉の残り熱が、じんわりと足元へ上がってくる。


 この熱も、水滴も、沈殿も、子どもの呼吸も。


 全部、現象だ。


 現象なら、記録できる。


 記録できるなら、渡せる。


 独占される理由はない。


 イルメラは日誌を閉じた。


 そのとき、作業棟の外で、馬のいななきがした。


 こんな時間に。


 ガルストがすぐに扉へ向かい、外の様子を窺う。続いて低い舌打ちが聞こえた。


「……早すぎるだろ」


「何がです」


 イルメラも立ち上がる。


 団長は振り向かずに答えた。


「神殿だ」


 棟の窓の隙間から、黒塗りの馬車の側面が見えた。


 雨をはじく漆黒の塗装。扉に刻まれた銀の紋章。夜の鉱山には場違いなほど高価で、場違いなほど無音の車輪。


 査察。


 しかも、予定より早い。


 ランタンの火が、小さく揺れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ