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第1回 8リブルの断罪



 王立大聖堂の謁見広間は、今日に限ってやけに光りすぎていた。


 高窓から差し込む昼の光が、磨き抜かれた白大理石の床に反射し、列席する貴族たちの宝飾をいっそうぎらつかせる。金、銀、真珠、聖刻印。どれもこれも「尊いものは高価である」と言いたげな顔をしていた。


 その中央で、イルメラ・フォン・アルヴェインは、ひとりだけ場違いなほど落ち着いていた。


 淡い灰青のドレス。腰の細い線に沿って下がる小さな革鞄。令嬢の持ち物としては不格好で、あきらかに宴席より作業台に似合う代物だった。だが、今この場で最も信用できる物があるとすれば、彼女にとっては宝石の首飾りではなく、その鞄の中身である。


 ガラス管、小型の秤、試薬瓶。


 そして、王家秘蔵とされる聖水の、サンプル。


「イルメラ・フォン・アルヴェイン」


 玉座の前、一段高い位置から、婚約者であった第一王子レオンハルトが厳かに呼び上げた。


 厳かに、のつもりなのだろう。だが実際には、怒鳴るのを我慢して喉の奥で音がつかえているだけに聞こえる。緊張で上ずった声音は、よく乾いた羊皮紙を無理に丸めたようだった。


「貴様の数々の不敬、ならびに神殿への冒瀆は、もはや看過できぬ」


 列席者たちがざわりと身じろぎする。


 不敬。冒瀆。便利な言葉だ、とイルメラは思った。意味を細かく定義しなくても、言われた側だけが一方的に悪く見える。


「特に――聖水を分析しようとした件。これは神への挑戦に等しい」


 ああ、そこか。


 イルメラは内心でうなずいた。


 神への挑戦、ではない。正確には、神殿会計への挑戦である。


 ただし、そのように言い換えるとこの場がさらに荒れるので、口には出さない。まだ。


「何か言い残すことはあるか」


 王子は言った。勝者の余裕を演出したかったらしい。


 だがその目は、早く終われと叫んでいた。おそらく彼は、断罪というものを、もっと華麗で、もっと彼に都合よく、もっと周囲が彼を褒めそやす催しだと思っていたのだろう。ところが実物は、ひたすら長く、暑く、そして段取りが悪い。


 イルメラはゆっくりと一礼した。


「ございます」


 広間の空気が、期待で少しだけ前のめりになる。


 ここで泣くと思っている者がいる。謝ると思っている者もいる。気高く微笑んで散る悲劇を期待している者までいるかもしれない。


 残念ながら、そのどれでもない。


「聖水は」


 イルメラは、よく通る声で言った。


「市価八リブルの原料と、三時間の加熱で再現できます」


 広間が凍った。


 凍った、というのは比喩だが、床の白さのせいで本当に薄氷でも張ったように見えた。誰も咳ひとつしない。扇を揺らしていた令嬢の手も止まり、居眠りしかけていた老伯爵まで目を見開いている。


 王子だけが、理解が半拍遅れた。


「……は?」


「ですから、聖水です。王家が神殿より金貨で買い付けている、あの祝福水のことです」


 イルメラは親切に言い直した。


「主成分は、山地産の白花草から抽出できる苦味成分と、低純度の青鉄塩。それに微量の石灰分。加熱条件を整え、揮発分を飛ばして沈殿を分離すれば、ほぼ同等の効能を持つ液が得られます」


 数人の貴族が、わかったふりの顔をした。わかっていない顔と、わかったふりの顔は似ている。だが前者は口を閉じ、後者はだいたい眉だけを動かすので区別がつく。


 王子は顔を真っ赤にした。


「ふ、ふざけるな! 聖水は神官の祈りによってのみ祝福される神聖なものだ!」


「でしたら、ぜひ祈りの前後で質量変化を測ってみたく」


「測るな!」


 王子より早く、神殿側の高位神官が鋭く声を発した。


 銀糸で聖句を織り込んだ法衣。胸元の聖印。痩せた頬に浮かぶのは怒りというより、嫌悪だった。


「聖なるものを量るなど、許されぬ禁忌だ」


「なぜです?」


「なぜ、だと?」


「効能があるなら、条件を揃えて再現性を確認すべきでしょう。再現できるものは奇跡ではなく手順です。再現できないなら、その不確かさも含めて記録すべきです」


「だから、それが不敬だと言っている!」


「便利ですね、不敬」


 イルメラは首をかしげた。


「失敗した説明の代わりに置いておけますもの」


 あちこちで息を呑む音がした。


 さすがに言い過ぎたかもしれない、と彼女は思った。思ったが、撤回はしない。ここまで来ると、少々礼儀正しくしたところで処分が軽くなるわけでもない。


 むしろ、最後くらいは正確に言っておきたい。


「王子殿下」


 イルメラは視線を戻した。


「私は一度も、聖水に効能がないとは申しておりません。ただ、その効能が神秘の専売であるかは別問題です」


「詭弁だ!」


「いいえ、会計です」


「会計ではない!」


「会計です。八リブルの液体を八十リブルで流通させる仕組みについての」


 王子の口がぱくぱく動いた。観賞魚のようだ、とイルメラは思った。綺麗だが、話は通じない。


 列席者の間に、今度は別種のざわめきが走る。


 八十リブル。


 誰もが聞き覚えのある額だった。負傷兵への支給、地方救護院への納入、王家の儀式用備蓄。聖水は神聖である以前に、高価だった。


 高位神官のこめかみに、ぴくりと青筋が立つ。


「これ以上の妄言は聞くに値しません」


「では、実験で示します」


「示す必要はない」


「示されると困る、の間違いでは?」


「黙れ!」


 その怒声と同時に、衛兵たちが一歩前へ出た。


 いよいよだな、とイルメラは思う。


 しかし、そのとき。


 神殿列の末席にいた老神官が、わずかに身を乗り出したのが見えた。


 年老いた細い指が、法衣の裾を強く握っている。青ざめた顔。額に浮く汗。彼だけが、怒りではなく、別の感情で震えていた。


 恐怖だ。


 しかも、いま初めて聞いた者の恐怖ではない。


 知っていた者の顔だ、とイルメラは直感した。


 彼女は一瞬だけ、視線を向けた。


 老神官はほんのわずかに首を振った。やめろ、というより、もう遅い、に近い動きだった。


 なるほど。


 やはり、神殿の中にもいるのだ。


 再現可能性を、考えたことのある者が。


「イルメラ・フォン・アルヴェイン!」


 王子の声が裏返った。


「貴様の婚約は、この瞬間をもって破棄する! さらに王都追放、北方鉱山への流刑を命じる!」


 広間が、待ってましたと言わんばかりにどよめいた。


 婚約破棄。


 追放。


 ようやく皆が知っている筋書きに戻ってきたせいで、場の空気が少しだけ安心しているのがわかる。人は理解できない理論より、理解しやすい破滅が好きなのだ。


 イルメラは目を伏せた。


「承りました」


「……は?」


 今度は王子が本日二度目の間抜けな返答をした。


 もっと泣くとか、縋るとか、悔しがるとか、そういう反応を期待していたのだろう。だがイルメラにしてみれば、王都の研究室を取り上げられるのは痛いが、北方鉱山という行き先には別の意味があった。


 白花草の群生地帯。


 青鉄塩の鉱脈。


 蒸留用の燃料。


 必要なものが、妙に揃っている。


 ずいぶん気の利いた流刑地ではないか。


「では、失礼いたします」


「ま、待て! まだ話は」


「殿下」


 イルメラは最後に、少しだけ微笑んだ。


「次に誰かを断罪なさるときは、せめて相手の専門分野を把握してからになさってくださいませ。化学屋に原価の話をさせるのは危険です」


 誰かが、ぶっと吹き出した。


 すぐに咳払いで誤魔化されたが、もう遅い。笑いは伝染する。広間の緊張が、ひび割れたガラスのように細かく砕けていく。


 王子の顔が、熟れすぎた林檎のような色になった。


 衛兵に挟まれ、イルメラは謁見広間を後にした。


 長い回廊を抜けるあいだ、聖堂の壁に描かれた聖人画がいくつも目に入る。どの聖人も、手に杯や書物を持ち、いかにもありがたそうな顔で天を見上げていた。


 だが、もし彼らに蒸留器を持たせたら、きっと今より少しだけ役に立つだろう、とイルメラは思った。


 不敬かしら。


 まあ、今さらだった。


 護送馬車は、日が傾きかけたころに城門を出た。


 車内は驚くほど狭く、驚くほど硬く、そして驚くほど揺れた。王都の石畳は立派だが、立派なのは見た目だけで、座り心地にはまったく寄与しないらしい。


「っ……」


 小さく体を浮かせて衝撃を逃がしながら、イルメラはため息をついた。


「これで聖水がこぼれたら、まずいわね」


 向かいに座る衛兵が怪訝そうに眉を上げた。


「何か言いましたか」


「いいえ。王都の道路整備について、やや批判的な感想を」


「はあ」


 会話が続かなかった。助かる。


 イルメラは膝の上の革鞄をそっと開き、布に包んだ小瓶を取り出した。


 淡く青みを帯びた透明な液体が、馬車の揺れに合わせてゆらりと傾く。窓から差し込む夕光を受け、小瓶の中で細い金線のような反射が走った。


 王家の聖水。


 正真正銘、本物のサンプル。


 これがあれば、成分比を最後まで詰められる。


 そして、あの老神官の顔。


 あれは確信に値する材料だった。少なくとも神殿は、何も知らぬまま神秘を売っていたわけではない。知っていて、触れぬようにしている者がいる。


 ならば、崩れる。


 天秤に乗るものは、いつか必ず比較されるのだから。


 イルメラは小瓶を灯りにかざした。


 車内のランタンが、ガラス越しに小さく揺れる。透明なものは好きだ。隠しているようでいて、よく見れば、何もかも光の通り道にしてしまう。


「北方鉱山、か」


 白花草。


 青鉄塩。


 技師たち。


 追放先としては、あまりにも都合がよすぎる。


 誰かが意図しているのか、単に神殿が自分たちの足元を理解していないのか。どちらでもいい。必要なものがある場所へ行けるなら、それで十分だ。


 イルメラは小瓶を包み直し、そっと胸元に寄せた。


 口元に、笑みが浮かぶ。


 婚約は失った。


 王都の地位も失った。


 けれど、実験は続けられる。


 それなら、まだ負けていない。


 むしろ、ここからだ。


 馬車は夕闇の街道を軋みながら進んでいく。


 北へ。


 鉱山へ。


 神秘の値札が、剥がれ落ちる場所へ。

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