第七話 殿下がお命じになった名前です
「リディア・エルヴェールを呼べ」
交易会の翌朝、アルベルトはそう命じた。
呼び出されたリディアが王宮に着いたのは、昼を少し過ぎたころだった。案内されたのは、いつもの応接室ではなかった。壁に王家の紋章が掛かった、重臣たちが使う小さな会議の間。
アルベルトのほかに、セリーヌとオスカー。それから、昨日の交易会に出ていたという東方の商務官が二人。
リディアは入口で一礼した。
「お呼びでしょうか」
「ああ」
アルベルトの前には、一枚の契約書が置かれていた。
中身に見覚えはない。けれど、一番下の欄だけは見慣れていた。空いたままの、保証人の欄。
「昨日、交易会があった」
「存じております」
「東方との鉱石の取引がまとまった」
「それは、おめでとうございます」
アルベルトの眉が、わずかに動いた。
「だが、契約には至らなかった。前金を求められた。今の家政費では払えない。保証人もいない」
「はい」
アルベルトは契約書を持ち上げた。
「それで、君を呼んだ」
ようやく話がつながった。
リディアは一度だけ、空いた欄に目をやった。先日、応接室の机に積まれていた書類と同じ空き方だった。
「君の仕事が、必要だ」
アルベルトが言った。
リディアの指先が、ほんの少しだけ止まった。
三年前なら、たぶんその言葉が聞きたかった。帳簿を見ることも、商人と話すことも、先に条件を決めることも、雑務ではなく要る仕事だと言ってほしかった。今さらだと思った。それでも、何も感じなかったわけではなかった。
「それは認める。君は帳簿ばかり見ていたのではない。王子宮を回していた」
「ありがとうございます」
「だから、戻ってきてほしい」
リディアは顔を上げた。
「婚約者としてではない。王子宮の家政の監督として、正式に迎える。肩書きも、俸給も出す。発注も支払いも、これからは君の判断で決めていい。誰にも、雑務とは言わせない」
アルベルトは、一つずつ確かめるように言った。
リディアは、すぐには答えられなかった。
頭に浮かんだのは、侯爵家の執務室の机だった。侯爵家の帳簿も、商人たちへの返事も、そこにはある。それでも、三年間毎朝当たり前のように届いていた王子宮からの束だけが、この一か月近く一度も来ない。あそこに、またあの束が積まれる。季節の花を選び、酒の数を決め、月末の数字を揃える。三年間、自分がいちばんうまくできたこと。
それを、今度は雑務ではなく、仕事として。
体の横で、指先が小さく動いた。ペンを持つときの形だった。
「その代わり」
アルベルトが、契約書を指で押し出した。
「以前の契約を、戻してくれ」
指先が、止まった。
やはり、そこだった。
監督の席と、保証人の欄。二つは同じ紙の上には書かれていない。けれど、片方だけを受け取ることはできないらしかった。
「……肩書きと引き換えに、ということでしょうか」
「引き換えではない。君の仕事には、それが要るだろう。以前もそうしていた」
リディアは、机の上の契約書を見た。
王子宮の束が届かない朝の机と、また積み上がる請求書の束。その二つを、もう一度だけ頭の中で並べた。
並べてから、静かに息を吸った。
「殿下。その俸給は、私の仕事へのお支払いでしょうか。それとも、侯爵家の保証へのお支払いでしょうか」
アルベルトは、すぐには答えなかった。
「……どちらでも同じだろう。君が戻れば、どちらも戻る」
同じではなかった。仕事は、リディアのものだ。保証は、父の家のものだ。
「できません」
アルベルトの頬が、わずかに動いた。
「まだ、そう言うのか。君の仕事は認めた」
「存じております」
「なら、何が足りない。君が戻れば、以前のように回る。君の名前がないから、こうなったんだ」
リディアは答える前に、机の上の契約書を見た。
「殿下」
「何だ」
「私は、何も止めておりません」
アルベルトが黙った。
「花も、酒も、馬車も、商会とのお取引も、昨日の契約も。私が止めたものは、一つもございません」
「それは」
「殿下がお命じになった名前を、外しただけです」
部屋が静まった。
商務官の一人が、視線を落とした。オスカーは動かなかった。
セリーヌは、机の上の契約書の一番下を見ていた。それから顔を上げて、リディアと目が合った。
婚約破棄の夜、口元を押さえて笑っていた人は、今日は笑わなかった。ただ、小さく頭を下げた。
アルベルトが、机を指で叩いた。一度、二度。三度目は、来なかった。
リディアは、それ以上何も足さなかった。沈黙のほうが、長く残った。
やがて、アルベルトが椅子から立ち上がった。
「君が拒むなら、こちらにも考えがある」
「はい」
「王子宮は、私の信用で立て直す。保証人など要らない形にする。君の名がなくても」
「はい」
リディアは一礼した。
「それが、殿下のご判断でしたら」
アルベルトの口が止まった。
怒鳴りはしなかった。引き留めもしなかった。
「……下がれ」
「失礼いたします」
リディアは背を向けた。扉に手をかけたところで、後ろから声がした。
「リディア」
振り返る。
「私は、本当に君の仕事を認めている」
少しだけ、間があった。
「ありがとうございます」
それだけ返して、扉を閉めた。
廊下に出ると、窓から昼の光が差していた。三年前なら、欲しかった言葉だった。今でも、少しは嬉しい。
屋敷に戻っても、王子宮からの束は今日も届かない。それも、分かっている。
けれど、嬉しいからといって、自分の名前まで渡すことはない。
それからの七日間も、王子宮からの請求書は一枚も届かなかった。侯爵家の帳簿をつけ、商人たちへ返事を書くと、それで午前が終わった。
四日目の朝、リディアは部屋の隅に置いたままだった青い布の包みを開いた。しばらく眺めてから、仕立屋を呼んだ。
「何をお作りいたしましょう」
「冬の外套を」
言ってから、少しだけ間が空いた。
「……私の分を」
「かしこまりました。王都では今、裾の長いものが流行っておりますが」
仕立屋が、見本の絵を何枚か広げた。夜会の帰りに羽織るような、床に届きそうな丈のもの。襟に毛皮を重ねたもの。どれも、王子宮の夜会でよく見た形だった。
リディアは、しばらく絵を見比べていた。
「歩きやすいものを」
「歩きやすい、でございますか」
「はい。丈は短めで。裾を気にせず歩けるものを」
仕立屋は一瞬だけ手を止めてから、何も訊かずに、白い紙に新しい線を引きはじめた。
七日目、王宮の謁見の間に、成人した王子王女と主だった貴族が集められた。
来春に予定されていた王太子の指名について、国王から話があるという。
アルベルトは列の先頭に立っていた。その少し後ろに、飾りの少ない薄青のドレスの少女がいる。第二王女エリーゼ。婚約破棄の夜、広間の端に一人で立っていた少女だった。
リディアも、父の隣で列のなかにいた。
国王が席につくと、ざわめきが消えた。
「来春を待たず、王位を継ぐ者を指名する」
アルベルトが顔を上げた。
国王は書類を一枚開いた。
「この三年、お前とエリーゼの宮の報告は、ずっと見てきた。エリーゼの報告には、毎月、何をやめて何に回したかが書いてあった。お前の宮の報告には、何を買ったかしか書いていなかった」
国王は、アルベルトのほうへ顔を向けた。
「第一王子アルベルト」
「はい」
「東方との鉱石の契約は、条件の合意まで進んだそうだな。交渉の中身も見た。悪くない」
周りがわずかにざわめいた。
国王はそれを待たずに続けた。
「では、なぜ署名できなかった」
「前金が、足りませんでした」
「保証人がいないことは、交易会の前から分かっていたはずだ」
「……はい」
「では、何で払うつもりだった」
アルベルトの視線が、一度だけ下がった。
「交渉がまとまれば、払い方は、後から」
「誰が払う」
アルベルトは答えなかった。
国王は、続きを待たなかった。
「婚約を破棄したことを問うているのではない」
国王は書類を閉じた。
「お前は、自分で外した名前が、何を支えていたかすら知らなかった」
アルベルトは何も言わなかった。
国王は次の書類を取った。
「第二王女エリーゼ」
「はい」
少女が一歩、前へ出た。
「お前の宮の家政費は」
「月に、金貨八十六枚です」
「支払いの遅れは」
「ございません」
「保証人は」
「おりません」
「なぜ回る」
エリーゼは、ほんの少しだけ考えた。
「使える額のなかで、先に決めておりますので」
「施療院の薪の件も、聞いた」
「……茶会を、一つやめただけです」
それだけだった。
国王が頷いた。
「次に王位を継ぐ者として、第二王女エリーゼを指名する」
一瞬、誰も動かなかった。
それから、ざわめきが広がった。アルベルトだけが、動かなかった。
隣で、父が長く止めていた息を、少しだけ吐くのが聞こえた。
エリーゼが深く頭を下げる。
「謹んで、お受けいたします」
国王は席を立ちかけて、そこで一度、列のなかに目を向けた。
「エルヴェール侯爵令嬢」
「はい」
リディアは一歩だけ前へ出た。
「帳簿の悪役令嬢、だったか」
広間のどこかで、息をのむ音がした。
リディアは否定しなかった。
「そのように、呼ばれております」
「そうか」
国王は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「三年間の働き、確かめさせてもらった」
それだけだった。
褒美の話も、婚約を戻せという話もなかった。
「ありがとうございます」
リディアは頭を下げ、顔を上げた。
向かいに、アルベルトがいた。目が合った。どちらも、何も言わなかった。
三年前なら、リディアは彼の次の予定を考えていた。今は、自分の立つ場所だけを考えればよかった。
謁見が終わり、王宮の廊下に出ると、父が隣に並んだ。
「帰るか」
「はい」
二人で階段を下りていく途中、後ろから足音がした。
「エルヴェール侯爵令嬢」
聞き覚えのない男の声だった。
振り返ると、黒い髪の男が立っていた。
「ユリウス・ハルトと申します。隣国の使節団で、財務官をしております」
隣で、父の呼吸が一度だけ止まった。
男は一礼した。
「突然、失礼いたしました。少しだけ、お名前を確かめたくて」
「私の、ですか」
「はい」
ユリウスは笑った。
「お名前は存じていましたが、ご本人にご挨拶したことがありませんでしたので」
それだけのことで、わざわざ階段を追いかけてくる人がいるとは思わなかった。
隣で、父が咳払いをした。
「ユリウス殿」
「失礼を。今日は、ご挨拶だけに」
ユリウスはもう一度、頭を下げた。
「リディア・エルヴェール様」
「はい」
「覚えました」
それだけ言って、彼は離れていった。
リディアは、その背中を見送った。
「お父様」
「何だ」
「今の方は」
「隣国の使節団の財務官だ」
「そうではなく」
「なら、何だ」
リディアは少し考えた。
「……いえ」
分からなかった。
ただ、誰かの保証人としてではなく、名前を呼ばれた。それだけは、分かった。




