第六話 殿下ご自身の信用で
月が替わって、王子宮に新しい二百枚が入った。
先月の終わりは、葡萄酒と蝋燭を削り、使用人の夕食を一品減らして、残り三枚で持たせた。持たせた、という言い方をオスカーがしたのは、帳簿をつけはじめて初めてだった。
王都交易会は、アルベルトがいちばん得意とする場だった。
広間のように、全員に同じ顔を向ける必要はない。相手ごとに欲しいものが違い、出せるものも違う。その差を見つけて、こちらの得になる形に組み替える。
会場には、王都の商会の主と国外の使節が集まっていた。香辛料、鉱石、毛織物、染料、酒、船。卓ごとに見本と契約書が並んでいる。
開会の挨拶を終えると、アルベルトはまっすぐ東方の使節の卓へ向かった。先日の晩餐で、足した葡萄酒をいたく気に入った男だった。
「例の鉱石ですが」
「ええ」
使節は、前に出した条件書を開いた。
「こちらとしては、春までに三十箱。王都での荷降ろしをお願いしたい」
「その三十箱は、もう港に着いているのだろう」
使節の指が止まった。
「……どこで、それを」
「昨夜、北方の商会の者が話していた。港の倉庫が足りず、東方の荷が止まっている。倉庫代は、日ごとにかかる」
「よく聞いておられますな」
「聞くために呼んでいる」
アルベルトは紙を一枚抜いた。
「港の三十箱は、来月こちらで引き取る。港から王都までの馬車も、こちらで出す。春まで待たずに、そちらは倉庫を空けられる」
「その代わりに」
「夏に届く二十箱も、同じ値で買う。五十箱、すべて同じ値だ」
使節は黙った。
隣にいた商会の主が、紙の上で倉庫代を数えはじめる。しばらくして、その男が使節に何か耳打ちした。
「……では、その条件で」
使節が手を差し出し、アルベルトはその手を握り返した。
周りの商人たちが、わずかにざわめいた。
アルベルトはそのまま次の卓へ移った。船の商人とは、一隻を借りるのではなく空いている荷の分だけを買う話に変え、染料の商人とは、値引きではなく支払いを二度に分けることで折り合った。
昼を過ぎるころには、三件の話がまとまっていた。会場の空気も悪くない。
東方の使節についている商務官が、契約書を一枚差し出してきたのは、そのあとだった。
「こちらに、殿下のお名前を」
さきほどまとまった鉱石の契約だった。
アルベルトは中身をもう一度確かめた。数、値、運び、納期。問題はない。
支払いの欄だけは、まだ一度も話に出ていなかった。これまでは、話に出すまでもない欄だった。
ペンを取りかけて、手が止まった。
契約書の一番下。署名の欄の隣に、もう一つ欄がある。
保証人。空いていた。
「これは」
「お支払いの条件でございます」
商務官が答えた。
「前金をご用意いただければ、保証人は要りません」
「前金?」
「はい。最初の三十箱分を、全額でございます。金貨六百枚」
「三十箱分を、今か」
「契約が成り立ったときに」
「半金では」
「今回は、初めてのお取引ですので」
商務官の口ぶりは変わらなかった。
「私の名で署名する。それでは足りないのか」
「いいえ」
商務官は、契約書の一か所を指した。
「殿下のお名前は、ここに必要です」
署名の欄だった。
商務官の指が、その隣へ移った。
「こちらには、別のお名前が必要です」
アルベルトは後ろを振り返った。
「オスカー」
「はい」
会計官は、今日も少し離れたところに立っていた。
「払えるか」
オスカーは契約書を受け取り、金額を見た。それから抱えてきた帳簿を開き、一枚、もう一枚とめくって、閉じた。
「今の家政費では、お支払いできません。前金だけで、家政費の三か月分でございます。今月の二百枚をすべて回しても、足りません」
声は大きくなかった。
けれど、周りには十分に聞こえた。
「家政費の話ではない。交易の契約だ」
「はい。ですが、国の事業としてではなく、殿下ご自身のお名前でのお買い付けです」
「鍛冶組合に卸せば、すぐに戻る金だ」
「卸すのは、品が届いてからでございます。買うのは、今日です」
オスカーは帳簿に指を置いた。
「殿下がご自身の名で動かせるお金は、家政費だけでございます。国庫から回すことは、私にはできません」
オスカーはそこで口を閉じた。
アルベルトは契約書を見た。その向こうで、使節が待っている。断ってもいないし、急かしてもいない。
交渉はまとまっているのに、署名だけができなかった。
「では、払い方を変えろ」
商務官が、一度だけ瞬きをした。
「どのように」
「納めたときに半分。残りは月末」
「でしたら、保証人を」
「それは」
言葉が止まった。
また、その欄だった。
アルベルトは一度だけ目を閉じた。
「……後日、改める」
「承知いたしました」
商務官は書類を引いた。その声には、落胆も嘲りもなかった。だからかえって、周りの静けさが目立った。
誰も笑っていない。誰も責めていない。
少し離れた卓から、そのやり取りを見ていた男がいた。
隣国の使節団の財務官、ユリウス・ハルト。黒い髪を短く整えた二十代半ばの男で、さっきまで自国の商人と数字を突き合わせていた。
契約書が引かれたあと、ユリウスは帳簿を抱えて戻っていくオスカーに声をかけた。
「少し、よろしいですか」
「はい」
「先ほどの契約書の、保証人の欄ですが」
「何でしょう」
「これまで殿下のお取引を保証していたのは、どなたですか」
オスカーは少しだけ黙った。
「エルヴェール侯爵家でございます。実務を担っていたのは、令嬢のリディア様です」
「……リディア・エルヴェール」
ユリウスは小さく繰り返した。
「ご存じで」
「名前だけは」
ユリウスはそれ以上、何も訊かなかった。
一度だけ、オスカーが抱えている帳簿の背に目をやり、自分の卓へ戻っていった。
交易会そのものは、成功だった。
午後にはさらに二件の話がまとまり、使節たちとの昼の会食も滞りなく終わった。アルベルトは最後まで主催者として振る舞い、閉会の挨拶も乱れなかった。誰かにしくじりを責められることもなかった。
ただ、王宮へ戻る馬車のなかで、オスカーの抱えた書類は一枚減っていた。署名されないまま、先方に返された鉱石の契約書だった。
その夜、国王の前に、交易会の報告書が置かれた。
まとまった商談、持ち越しになった案件、まとまらなかった案件。一つずつ、理由が添えてある。
国王の指が、ある行で止まった。
東方鉱石買付契約 条件合意済
前金不足につき未署名
その下に、さらに短い書き添えがあった。
保証人なし
国王はしばらく、その短い一行を見ていた。




