第五話 でしたら元に戻せと
「契約を元に戻せ」
呼び出されたリディアは、その言葉の意味を確かめるのに、ほんの少しだけ時間がかかった。
王子宮の応接室。三週間ぶりに入った部屋は、前と何も変わっていなかった。窓際の長椅子も、壁際の飾り棚も、暖炉の上の青い花瓶も、同じ場所にある。
違うのは、花瓶の中身だけだった。前なら季節の花が五、六本は挿してあったのに、今日は白い花が二本きり。
そのことに気づいてしまった自分が、少し嫌だった。もう確かめなくていい場所なのに。
「婚約を、でしょうか」
アルベルトの眉が動いた。
「違う。契約だ」
「承知いたしました」
承知はした。意味も分かった。それでも、リディアはすぐには返事をしなかった。
正面にアルベルト。少し離れてセリーヌ。壁際には、今日も帳簿を抱えたオスカー。机の上には、見覚えのある書類が何枚も積まれていた。花屋、酒商、馬車屋、食材の問屋。どれも、保証人の欄が空いている。
「聞いているのか」
「はい」
「なら話は早い。以前の契約を戻せ」
以前、と言われて、たった三週間前のことがずいぶん昔のように聞こえた。
「確かめさせてください」
「またか」
「はい」
アルベルトが息を吐いた。
「何だ」
「以前と同じ条件で、エルヴェール侯爵家が王子宮のお支払いを保証する形に戻す、ということでよろしいでしょうか」
「そうだ」
「新しいご発注についても」
「ああ」
「王子宮でお支払いができなかった場合は、侯爵家が代わりに払う」
「そう言っている」
リディアは頷いた。
「できません」
アルベルトが黙った。
セリーヌも、オスカーも、何も言わなかった。部屋の時計が、一度だけ鳴った。
「……何?」
「お戻しできません」
「理由を聞こう」
声は低かったが、怒鳴ってはいなかった。
「三年前にお引き受けしたのは、いずれ同じ家計を持つはずだったからです」
「それは分かっている。だが婚約と契約は別だろう」
アルベルトは机の上の書類を指した。
「婚約を破棄したあと、それまでの分は二日かけて全部払ったそうだな。オスカーから聞いた。婚約が終わっても、約束は約束だと」
「はい」
「ならば、これから先の契約も、婚約とは切り離して考えればいい」
「はい。婚約と契約は、別です」
アルベルトの眉が、わずかに上がった。認められるとは思っていなかったらしい。
「なら」
「ですから、婚約が終わっても、昨日までのお約束は果たしました」
「なら、これからも」
「いいえ」
リディアは首を振った。
「昨日までの約束と、明日から名前を書くことも、別ですので」
「金なら払う」
「存じております」
「今月も払っている。来月になれば家政費も入る。なら、何が問題だ」
リディアは一度、目を伏せた。
保証人の欄。小さな四角。三年間、何度もそこに名前を書いてきた。アルベルトのために、王子宮のために、いつか自分が暮らすはずだった場所のために。書く理由があった。少なくとも、あのころはそう思っていた。
昨日までの約束は守った。けれど、これから先の名前は、まだ誰にも約束していない。
「私の名前を、殿下のために使う理由がございません」
アルベルトの顔が止まった。
リディアは、自分の声を少し遅れて聞いた気がした。
アルベルトの手もとで、契約書の保証人の欄だけが、白かった。
「理由が、ない?」
「はい」
「私は第一王子だぞ」
「存じております」
アルベルトが、椅子の背から体を起こした。
「なら、なぜ断る」
以前のリディアなら、ここで数字を並べていた。侯爵家が負うかもしれない額、王子宮のひと月の出費、保証を戻した場合の危うさ。並べれば話は早い。
けれど今日は、それでは違う気がした。
「私が、決めたことですので」
部屋が静かになった。
アルベルトはしばらく、リディアの顔を見ていた。
「三年間、君は私の宮のためにやってきただろう」
「はい」
「それを、今さら」
「今さら、です」
リディアは静かに返した。
言い返したつもりはなかった。ただ、そのとおりだった。
アルベルトが、机の上の契約書を一枚取り上げる。
「では、このまま現金で払い続けろと言うのか」
「殿下のお支払いの方法を決める権限は、私にはございません」
アルベルトが何か言いかけて、やめた。
リディアも、それ以上は続けなかった。
「お話は、以上でしょうか」
「……ああ」
「では、失礼いたします」
一礼して、扉へ向かう。
「リディア」
背中から呼ばれて、足を止めた。
「本当に、戻すつもりはないんだな」
振り返る。
アルベルトは立ち上がっていなかった。机の向こうに座ったまま、契約書を手にしている。三年前なら、その姿を見て、次に何をすればいいかを考えていた。
「はい」
それだけ答えて、部屋を出た。
侯爵家に戻ると、執務室の机に手紙が積まれていた。朝にはなかったものだった。
「これは」
「商人たちからだ」
父が言った。
「全部、ですか」
「全部ではない。今日届いた分だけだ」
リディアは一番上の封を切った。王都の食材問屋。次は蝋燭商。その次は仕立屋。
書いてあることは、どれも似ていた。婚約破棄のことでも、王子宮のことでもない。今後もエルヴェール侯爵家と、直接の取引を続けたい。条件はこれまでどおりで構わない。支払いの日をまとめてもらえるなら、むしろありがたい。
「……なぜ、急に」
父が、一通だけ抜き出して差し出した。
「これを読め」
見覚えのある筆跡だった。花屋のヨハン。
本文は短い。取引の条件、春の花の仕入れ、侯爵領へ送るときの運び賃。最後に一行だけ、追伸があった。
《帳簿の悪役令嬢様。王都で一番、払いのきれいなお客様でした》
リディアは、その一行を二度読んだ。
「……これは」
「褒めているんだろう」
「……はい」
褒められているのは分かる。三年分の支払いを、ヨハンは全部見ていた。分かるのに、どういう顔をすればいいのかが分からない。
リディアは手紙を、ほかの束とは別にして、机の端に置いた。
「お返事を」
「明日でいい」
「ですが」
「今日はもう働くな」
「まだ夕方です」
「知っている」
「お返事だけでも」
「明日だ」
父は手紙の束を、リディアの手の届かないところへ少しずらした。
子供扱いされている気がした。十九なので、たぶん気のせいではない。
「では、何を」
そこまで言いかけて、リディアは口を閉じた。前にも同じことを訊いて、何も浮かばなかった。
今日は、一つだけあった。
「少し、出てまいります」
「どこへ」
「まだ、決めておりません」
父の眉が、わずかに上がった。
「……そうか」
「はい」
命令でも、仕事でもない。行き先も決めていない。それでも玄関まで歩いたところで、リディアは自分の足取りが少しだけ軽いことに気づいた。
行き先を決めないまま歩いていると、足は自然に商いの通りへ向いた。三年間、いちばん通い慣れた道だった。我ながら、と思う。
薪問屋の前を通りかかったところで、リディアは足を止めた。
店先の帳場に、飾りの少ない薄青のドレスの少女が立っていた。第二王女エリーゼ。年かさの侍女を一人連れているだけで、紋章のついた馬車も見当たらない。
「施療院へ、冬のあいだの薪を届けていただきたいのです」
エリーゼは、帳場の向こうの主人に言った。
「ひと冬で、荷車百二十台ぶん。宮の家政費では、一度にはお払いできません」
「でしたら、お引き受けは」
「春の茶会を、一つやめました。その分で、施療院の寝台を温める最低限の分は、ひと冬ぶん先にお払いします。寒い月に足す分を、月ごとに」
主人が、わずかに眉を上げた。
「月ごとの分が遅れたら」
「その月に足す分は、止めてくださって構いません。最低限の分は、先に全額お払いしますので」
エリーゼは、それ以上言葉を足さなかった。主人の手もとの帳面をじっと見て、返事を待っている。
主人はしばらく考えてから、帳面を一枚めくった。たぶん、そこに書いてあるのは、この三年間、一度も月を越さなかった宮の名前だった。
「……お受けいたしましょう」
「ありがとうございます」
エリーゼは小さく頭を下げ、振り返ったところで、リディアに気づいた。
一瞬、目が丸くなる。
「エルヴェール様」
「失礼いたしました。通りかかっただけです」
「いえ」
エリーゼは少し迷うように視線を落としてから、言った。
「月ごとの届け方は、同じ量でよいと思われますか」
リディアの頭は、勝手に荷車の数と冬の長さと施療院の寝台の数を並べはじめていた。
「いちばん冷えるのは二月です。二月を多めに、三月を減らしては。先にお払いになる分も、二月に寄せておけば」
そこまで言って、口を閉じた。訊かれたからといって、よその宮の帳簿に口を出すことはない。
「申し訳ございません。差し出がましいことを」
「いいえ」
エリーゼは首を振り、侍女に何か小さく伝えた。侍女が帳面に書きつけている。
「二月ですね。覚えておきます」
王女はもう一度だけ会釈をして、侍女と通りを歩いていった。馬車には乗らなかった。
リディアはその背中を見送ってから、自分が今、少しだけ楽しかったことに気づいて、困った。
その夜、屋敷に戻ると、机の上に新しい封書が一通置かれていた。
王家の紋章でも、王子宮の封でもない。封蝋には交易組合の印があった。宛名は、エルヴェール侯爵家。
開くと、厚い紙に飾り文字が並んでいた。
王都交易会 主催・第一王子アルベルト
翌月の初め。国外の使節と王都の大商会を集めた、大きな交易会。
リディアは招待状を最後まで読み、主催者の名前を、もう一度だけ見た。
アルベルト・レイ・アルヴァート。
保証人の欄ではない。今度は、彼自身の名前だった。




