第八話 私の名前で買います
王都の菓子屋に入るのは、ずいぶん久しぶりだった。
リディアは店先で一度だけ足を止めた。ガラスの向こうに、蜂蜜のタルト、胡桃のパイ、砂糖を薄くまぶした焼き菓子、果実を煮詰めた小さな菓子が並んでいる。
三年間、こういう店に来なかったわけではない。王子宮の夜会に出す菓子を選びに、何度も来た。客に出すもの、使節に持たせるもの、アルベルトの好みに合うもの。日持ちして、運びやすく、値段のわりに見栄えがするもの。そういう基準でなら、いくらでも選べた。
今日は、そのどれも要らなかった。
リディアは扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
店員が笑顔で迎えた。
店のなかは甘い匂いでいっぱいで、奥では焼き上がったばかりの菓子を棚に並べている。
「本日は、お使い物でしょうか」
「いいえ」
答えてから、リディアは少し考えた。
「家で、いただきます」
「かしこまりました」
それだけのことなのに、妙に落ち着かなかった。
店員が、いくつか菓子を勧めてくれる。
「こちらは今朝焼き上げた林檎のパイでございます。こちらの胡桃の菓子は、日持ちいたしますので」
日持ち、という言葉に体が反応しかけて、やめた。誰かのところへ持っていくわけではない。
「今日、食べるのでしたら」
言ってから、リディアは少しだけ止まった。
店員は気にした様子もなかった。
「でしたら、こちらですね。栗と蜂蜜を使っております。今日がいちばんおいしいです」
「今日が」
「はい」
小さな丸い菓子だった。
「では、それを」
「おいくつになさいますか」
いつもの癖で、人数を数えそうになった。父、使用人、来客。そこまで考えて、違うと気づく。
「一つ」
言ってから、もう一度棚を見た。
「……二つ、お願いします」
一つでは、足りない気がした。
「かしこまりました」
店員が菓子を紙の箱に入れ、紐をかけて帳場へ運んだ。
「領収書のお名前は、いかがいたしましょう」
リディアは顔を上げた。
三年間、領収書の宛名には、いつも同じ書き方をしてきた。《アルベルト第一王子殿下御用》。その下に、小さく自分の名前。
「リディア・エルヴェールで」
「はい。リディア・エルヴェール様」
店員はそれだけ言って、領収書に名前を書いた。
リディアは、自分の財布から代金を払った。受け取った紙の箱は、驚くほど軽かった。
店を出ると、午後の通りは人で混み合っていた。商人の呼び声、荷車の音、馬車の車輪、どこかの店から流れてくる焼きたてのパンの匂い。少し前までなら、その一つ一つを仕事に結びつけていた気がする。今日は、ただ歩けばよかった。
「エルヴェール侯爵令嬢」
後ろから声をかけられた。
振り返ると、黒い髪の男が立っていた。王宮の階段で、名前を確かめに来た男。
「ユリウス様」
「覚えていただけましたか」
「お名前は」
「それはよかった」
ユリウスは笑った。
手には書類も帳簿も持っていない。使節団の服ではなく、ずいぶん軽い外套を着ていた。
「もう、お帰りになるのでは」
「明日の朝です」
「では、今日は」
「仕事は、終わりました」
その言い方に、少しだけ親しみを覚えた。
「そうでしたか」
「はい」
ユリウスの目が、リディアの手元に落ちた。
「お買い物ですか」
「はい」
「何を、買われたのですか」
「栗と蜂蜜の、小さなお菓子です。今日がいちばんおいしいそうで」
「ああ、あの店の」
ユリウスは店の看板のほうを見た。
「私は、胡桃のほうを買ってしまいます。日持ちするので、つい」
リディアは瞬きをした。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「分かります」
「分かりますか」
「はい。とても」
ユリウスも、つられたように笑った。
「もう一度、お会いできればと思っていました」
言い方は軽かった。けれど、冗談ではないらしかった。
「私に、でしょうか」
「はい」
「何か、お取引のことで」
「いいえ」
ユリウスはすぐに首を振った。
「今日は、仕事ではありません」
リディアは黙った。
仕事ではない、という言葉は、まだ少し難しかった。
「ご一緒しても?」
ユリウスが訊いた。
リディアは紙の箱に目を落とした。代金は、もう払ってある。
「それでしたら」
顔を上げる。
「少しだけ」
「どのくらいです?」
リディアは、足を止めた。
何分、と答えかけて、口を閉じる。
「……決めなくても、よろしいのですよね」
「今日は」
ユリウスが言った。
二人で歩きだした。行き先は、決めていない。
リディアはそれを確かめてから、今度は足を止めなかった。
その夜、エルヴェール侯爵は、執務室の机のいちばん下の引き出しを開けた。
鍵は、自分しか持っていない。中には、黒い革表紙の帳簿が一冊だけある。
娘が死ぬたび、侯爵は娘が十六になる春の朝へ戻った。帳簿もそのたびに白紙へ戻ったから、目を覚ますたびに、記憶から書き直してきた。
頁をめくる。
一度目 二十七
二度目 二十七
三度目 十九
四度目 二十一
五度目 十九
六度目 二十七
どの頁にも、終わりの少し前に、同じ呼び名が書いてあった。
悪役令嬢。
王子に従わせても。
婚約を断らせても。
先に保証を外させても。
国外へ逃がしても。隣国の財務官に、国境を越えさせても。
第二王女を推しても。
未来を、すべて話しても。
どの道を選ばせても、最後に娘が選ぶのは、自分ではなかった。
だから七度目、侯爵は未来を教えなかった。帳簿の読み方を教え、婚約が決まった日に、王子宮との取引にだけ使える代理印を預けた。
それだけだった。
三年のうちに、呼び名はやはり娘のところへやって来た。けれど七度目には、その前に一語がついていた。
帳簿の悪役令嬢。
侯爵は、新しい頁を開いた。
七度目 十九。婚約破棄
王子自らの命により、保証解除
王位、第二王女
リディア――
そこで、ペンが止まった。
今日、娘は菓子を二つ、自分の名で買って帰ってきた。行き先も決めずに、街を歩いたらしい。
侯爵は、空いた行を見ていた。
これまでの頁には、娘の明日が書かれていた。どの頁にも、死ぬ場所まで。
侯爵は何も書かずに、帳簿を閉じた。
七度目にして初めて、娘の明日を書けなかった。




