第二話 まず、花が届かなくなりました
翌朝、リディアは朝食を食べてから屋敷を出た。
父に言われたから、というのもある。言われなければ食べなかったのかと訊かれれば、たぶん食べなかった。
王子宮に出入りしている取引先は、全部で二十三軒ある。花、酒、食材、馬車、蝋燭、薪、仕立て、食器、楽団。昨日までに発注を済ませたものと、月末にまとめて請求されるものを分け、そのなかから侯爵家の保証がついているものだけを抜き出していたら、朝食の時間が惜しくなった。
それを父に見つかった。
「座れ」
の一言で、リディアは椅子に戻された。
十九にもなって朝食を抜こうとして叱られるとは思っていなかった。ただ、婚約を破棄された翌朝の正しい過ごし方というものを知らないので、これが普通なのかどうかは比べようがない。
結局、パンを二切れと卵を一つ食べてから馬車に乗った。
最初に向かったのは、花屋だった。
「おはようございます、ヨハンさん」
「……おはようございます」
大通りから一本入ったところにあるヨハン花店は、まだ店を開ける支度の途中だった。
店先には水を張った桶が並び、若い店員が切り花を抱えて行き来している。その奥で、白髪の老人が薔薇の茎を一本ずつ切り揃えていた。
王子宮に花を納めて二十七年になる店主は、リディアの顔を見るなり鋏を置いた。
「ずいぶん、お早いことで」
「急ぎでしたので」
「でしょうな」
ヨハンはそれ以上、何も訊かなかった。
昨夜のことは、もう耳に入っているらしい。王都の噂は花より足が早い。花は馬車で運ばなければならないけれど、婚約破棄は人の口だけで運べるからだろう。
リディアは鞄から書類を出した。
「昨日までに王子宮へ納めていただいた分を、確かめさせてください」
「こちらです」
差し出された帳面を受け取り、自分の控えと並べて照らし合わせていく。
昨夜の夜会の分。白薔薇が三百本、卓上の花が十八卓、玄関の大花器が二つ、階段の装花、運び賃。
それから、片づけの手間賃。
「こちらは、要りません」
「片づけの分ですか」
「花は昨夜のうちに、お帰りのお客様にお配りしました。残りも王宮の使用人が引き取っております」
「それはよかった。三百本を今朝のうちに引き上げろと言われたら、さすがに私も泣きます」
「私も困ります」
「お嬢様が?」
「請求書の訂正が増えますので」
ヨハンが黙った。
なぜ黙ったのか分からず、リディアも待った。
しばらくして、老人は口元を押さえた。
「……失礼」
「何か」
「いえ。相変わらずだと思いまして」
褒め言葉なのは分かった。どう受け取ればいいのかは、分からなかった。
リディアは計算の続きに戻った。金額は合っている。最後の欄まで確かめてから、侯爵家から持ってきた支払いの証書を差し出した。
「昨日までの分です。こちらで全額、お支払いいたします」
ヨハンの手が止まった。
「全額?」
「はい」
「月末の締めでは」
「昨日までの分は、エルヴェール侯爵家が保証しておりますので」
「なるほど」
ヨハンは証書を受け取った。
額面を確かめ、もう一度確かめてから、リディアの顔を見る。
「多いですよ」
「合っているはずですが」
「いえ、金額の話ではなく」
老人は帳面を閉じた。
「昨夜の今日です。ここまでなさらなくても、うちは待ちます」
「待っていただく理由がございません」
「ですが」
「昨日までのご注文には、私の印がありますので」
それで、話は終わった。
昨夜の広間で外したのは、これから先の名前だけだった。
ヨハンはしばらく証書を見下ろしていたが、やがて息を吐いた。
「では、ありがたく」
「お願いいたします」
「それで」
老人が、帳面の端を指で叩いた。
「今日から先は」
「殿下ご自身とのお取引になります」
「侯爵家の保証は」
「ございません」
「お嬢様の印も」
「押せません」
「そうですか」
ヨハンはそれだけ言った。
困った顔もしなければ、喜ぶ顔もしなかった。ただ、店の奥へ向かって声を張る。
「マルク。王子宮の札を、こっちへ」
「はい!」
若い店員が、壁の釘から木の札を一枚外して、持ってきた。
アルベルト第一王子殿下御用
三年間、店のいちばん目立つところに掛かっていた札だった。ヨハンはそれを、両手で受け取った。
「捨ててしまわれるのですか」
「まさか」
老人は笑った。
「取引をやめるわけではありません」
「では、なぜ」
「条件が変わりましたので」
ヨハンは外した札を、帳場の棚に寝かせて置いた。
壁の釘には、もう一枚、札が残っていた。
エルヴェール侯爵家御用。王子宮の札よりずっと小さく、ずっと隅のほうに掛かっている。
「そちらは」
「残します」
「……なぜです」
「そちらは、条件が変わっておりませんので」
ヨハンはそれだけ言って、話を戻した。
「先にお代をいただいて、それから花をお渡しします」
リディアは一度だけ瞬きをした。
「それだけですか」
「それだけです」
「でしたら、何も問題はありませんね」
「お嬢様にとっては、そうでしょうな」
殿下にとっては、そうではない。ヨハンが言わなかった後半は、リディアにも聞こえていた。
ただ、それを確かめるのは、もう自分の仕事ではなかった。店の時計が目に入った。八時四十分。残りは二十二軒ある。
「次がございますので、失礼いたします」
「はい」
店を出ようとしたところで、背中から呼び止められた。
「リディア様」
振り返ると、ヨハンは受け取った証書を手にしたまま立っていた。
「三年間、一度も遅れませんでしたな」
「何がでしょう」
「お支払いです」
リディアは少し考えた。
遅れないようにしていたのだから、遅れていないのは当然のことだった。
「はい」
「……それだけですか」
「ほかに、何か」
「いえ」
ヨハンは笑った。
「お気をつけて」
「ありがとうございます」
今度こそ、店を出た。
次は酒商だった。番頭と帳面を突き合わせていると、横の束から一枚、見慣れない発注書がはみ出していた。宛先は第二王女の宮。保証人の欄は空いているのに、支払いは月末の締めになっている。
「こちらは」
「ああ、エリーゼ様の宮ですか」
番頭は、なんでもないことのように言った。
「あちらは三年、一度も月を越したことがございませんので」
リディアは発注書を束に戻した。
酒の数は、王子宮のひと月分の半分にも足りなかった。
その次は食材の問屋。昼までに七軒回り、午後に九軒、残りは明日。
婚約を破棄された翌日というのは、思っていたよりずっと忙しかった。
同じ日の午後、王子宮では、新しい婚約者候補のお披露目を兼ねた祝宴の支度が進んでいた。
少なくとも、進むはずだった。
「花はまだか」
アルベルトに訊かれて、侍従は答えられなかった。
大広間には白い卓布が掛けられ、銀の食器も並んでいる。料理人は厨房に入り、酒は昨夜の樽の残りがある。
花だけが、なかった。
卓上の花器も、階段脇の大花器も、玄関も、どこも空のまま。昨夜まで三百本の白薔薇が並んでいた場所だけに、何もないことのほうがかえって目についた。
王子宮家政局の会計官、オスカー・ベルンは、壁際に控えて空の花器を眺めていた。三年間、リディアから回ってくる発注書と請求書を受け取り続けてきた男だった。空の花器を見ても、顔色一つ変えない。
「もう始まるぞ」
「ただいま、確かめておりまして」
「どれだけかかる」
「それが」
侍従が口ごもったところで、入口から一人の老人が入ってきた。
ヨハンだった。花は抱えていない。
「ヨハン」
「殿下」
老人は帽子を取って、深く頭を下げた。
「花はどうした」
「店にございます」
「なら、なぜ持ってこない」
「お代を、先にいただけますか」
ヨハンは持ってきた注文書を広げ、一番下の欄を指で示した。保証人の欄は、空いていた。
「二十七年、この宮と取引してきた店だろう。私が払わないとでも言うのか」
「いいえ。払っていただいてから、お届けすると申し上げております」
アルベルトが言い返すより先に、横から明るい声が入った。
「でしたら、お支払いすればよろしいのでは? たかが、お花でしょう?」
セリーヌだった。
アルベルトの顔から、険しさが消えた。
「……オスカー。花代を払え」
「承知いたしました」
オスカーが支払いを済ませると、ヨハンは深く一礼して帰っていった。三十分もしないうちに、花は届いた。昨夜ほどの量ではない。それでも、祝宴を開くには十分だった。
「リディア様がいらっしゃらなくなったからといって、何も困りませんのに」
セリーヌが笑い、アルベルトも頷いた。
オスカーだけが、手元の帳簿に一行を書き足した。花代、本日支払い。月末の欄ではなく、今日の日付の欄に。
夕刻、祝宴が始まる直前に、侍従がまた駆けこんできた。
「殿下」
「今度は何だ」
「酒商から、確かめたいことがあると」
アルベルトの眉が動いた。
「また先払いか」
「それもございます。ただ」
侍従は紙を一枚差し出した。
「これまでの年の契約を続けられる場合は、新しい契約書をお願いしたい、とのことでございます」
「書けばいいだろう」
「はい。ただ、これまでと同じ条件ではお受けしかねる、と」
「なぜだ」
侍従は答えなかった。
代わりにオスカーが紙を受け取り、去年までの契約書と見比べた。一枚目、二枚目と数字をなぞる。去年の契約書の末尾には、几帳面な字で一文が添えてあった。
保証人に変更あるときは、残る分の支払い条件を改めて取り決める。
三年前、この条項を書き足させたのが誰だったか、オスカーは覚えていた。
帳簿の残りの欄を開く。
まだ、足りる。
オスカーはペンを置いた。
「殿下」
「何だ」
「酒商からも、蝋燭屋からも、馬車屋からも、同じ確かめが来ております」
オスカーの指は、注文書の空いた保証人の欄の上に、置かれたままだった。




