第三話 お金でしたら、ございます
「保証がないなら、現金で払えばいい」
翌朝、アルベルトはそう結論づけた。
間違ってはいなかった。王子宮には、金がある。
「今月の家政費は」
「金貨二百枚でございます」
オスカーが答えた。
「残りは」
「百八十六枚です」
「十分だな」
「はい」
オスカーは否定しなかった。
夜会の追加の酒と、昨日の花を現金で払っても、まだ百八十六枚残っている。月が始まって、四日目だった。
「今後の注文は、その都度払え」
「承知いたしました」
「年の契約を結び直せと言ってきた店も、急ぐことはない。必要なときに、必要なだけ買えばいい」
「承知いたしました」
アルベルトは椅子の背に体を預け、机に積まれた商人たちの書状を眺めた。
「ずいぶん大ごとにしていたが、結局は支払いの時期が変わっただけではないか」
向かいの長椅子で、セリーヌが笑った。
「私も、そう思いますわ」
「リディアは何でも契約にしたがった。花も、酒も、馬車もだ。一度書類を作らなければ物が買えないような顔をしていた」
「これからは、もっと自由になりますわね」
「ああ」
アルベルトは書状の山を脇へ寄せた。
もう、帳簿を抱えた婚約者に、それは来月に、と止められることもない。今朝の王子宮は、何一つ困っていなかった。
「殿下」
侍従が入ってきた。
「今夜の晩餐について、料理長から確かめたいことがあると」
「何だ」
「東方の使節のお二人がご同席なさるので、葡萄酒を二種類足したいそうです」
「入れろ」
「かしこまりました」
侍従が下がる。
セリーヌが、わずかに目を丸くした。
「よろしいのですか?」
「客に安い酒を出すほうが問題だ。来春の指名まで、半年もない。今は削るところではない」
アルベルトは笑った。
こういう判断は早かった。誰を招くか、どこで金を使えば印象に残るか、誰と誰を同じ卓につければ話が次へ進むか。その手のことなら、リディアよりアルベルトのほうがずっと得意だった。
実際、その夜の晩餐はうまくいった。
東方の使節の一人は足した葡萄酒をいたく気に入り、予定になかった鉱石の話を持ち出した。東方の鉱石を王子の名で買い付け、王都の鍛冶組合へ卸す。国の事業ではなく、アルベルト自身の商いとして。王の顔になる者が、自分の名で品と金を回せると示すには、悪くない話だった。
アルベルトはその場で条件をまとめず、翌朝の面談だけを取りつけた。相手に考える時間を渡して、こちらの値打ちを上げるやり方だった。
末席には、隣国の使節団から来た若い財務官も座っていた。給仕が新しい葡萄酒を運んでくるたび、オスカーがその場で代金を払う。財務官はそれを、黙って見ていた。
客が帰るころには、王子宮の使用人たちも明るい顔をしていた。
花は届いた。酒も、料理も届いた。止まったものは、何もない。
翌日の夕方、オスカーが帳簿を開いた。
「殿下。今月の家政費について、ご報告がございます」
「何だ」
「残りは、金貨百十二枚です」
アルベルトは書類から顔を上げた。
「……昨日はいくらだった」
「百八十六枚でございました」
「一日で七十四枚も使ったのか」
「はい」
「何に」
オスカーは帳簿の向きを変えて差し出した。
葡萄酒、食材、晩餐の花、臨時の給仕、楽団、使節の送り迎えの馬車、今朝の面談に使った応接室の花と茶菓子。どれもアルベルトが知っているものだった。
「高くないか」
「年の契約に含めていた分まで、今回は別に買っております。それに、これまで月末まで宮に残っていた金を、今は先にお支払いしております」
「年の契約?」
オスカーは葡萄酒の欄を指で示した。
「去年は春のうちに、一年分の数をまとめて決めておりました。宮で使う分も、夜会の分も、使節をお迎えする分も。昨夜の二種類は、その外でございます。馬車も、花も、同じです」
アルベルトが黙った。
オスカーも黙った。
「なら、今から同じ契約を結べばいい」
「できます。ただし、これまでと同じ条件ではございません」
「また保証人か」
「はい」
アルベルトが、椅子の肘掛けを指で二度叩いた。
「分かった。しばらくは現金で払え。来月になれば、また二百枚入る」
「はい」
「それまで百十二枚ある。問題はない」
「月末までの支払いの見込みも、ご覧いただけますか」
「今は残高だけでいい」
「はい」
オスカーは帳簿を閉じた。
その言葉にも、反論はしなかった。百十二枚。数字だけ見れば、まだ大金だった。
リディアはそのころ、王子宮の金貨があと何枚残っているのかを知らなかった。
知る必要もなかった。
「こちらで、最後ですね」
「はい」
侯爵家の執務室で、リディアは二十三枚目の精算の証書に印をつけた。
王子宮と取引していた二十三軒。婚約を破棄されるまでに積み上がっていた請求は、これですべて片がついた。
侯爵家が立て替えた分は、王子宮への貸しとして別の帳面に移してある。商人たちに払った金と、殿下の宮から返してもらう金は、もう同じ帳面には載らない。返済は、来年の家政費から分けて受け取る取り決めだった。
向かいの机では、父が手紙を読んでいる。
「払い残しは」
「ございません」
「漏れは」
「ございません」
「そうか」
父は手紙に目を戻した。
リディアも帳簿を閉じた。それで仕事は終わった。終わってしまった、と言うほうが近かった。
いつもなら、この時刻には王子宮へ向かっている。午後の発注を確かめ、翌日の予定を見て、夜会があれば要る人数を聞く。今日は行かなくていい。机の上には、次に見るべき請求書が一枚もなかった。
リディアは閉じた帳簿の上に両手を置いて、しばらくそのままでいた。
「リディア」
「はい」
「終わったのか」
「はい」
「なら、休め」
「ですが」
「仕事がない」
「……はい」
正しかった。
リディアは席を立ち、扉の前まで行ってから振り返った。
「お父様」
「何だ」
「何をすれば、よろしいでしょう」
父が手紙から顔を上げた。
「休めと言った」
「休むときは、何を」
父が黙った。
リディアも、返事を待った。
「……好きなことをしろ」
「好きなこと」
「ああ」
今度はリディアが黙った。
父は娘の顔をしばらく見てから、手紙を机に伏せた。
「三年か」
「何がでしょう」
「いや」
父は首を振った。
「今日は、庭でも歩いてこい」
「承知いたしました」
「命令ではない」
「……では、歩いてきます」
執務室を出て、庭へ向かいながら、リディアは考えた。
好きなこと。三年間、要るものならいくらでも考えてきた。要る花、要る酒、要る馬車、要る支払い。自分が好きなものとなると、急に数が減る。ゼロではないはずなのだけれど、と思ったところで、ちょうど一つも出てこなかった。
庭に出ると、午後の日差しがまぶしかった。
今日の午後は、何も買わなくていい。誰の許しも取らなくていい。そのことに、まだうまく慣れなかった。
それから二週間が過ぎた朝、アルベルトは鏡の前で上着の襟を直していた。
「殿下、お時間です」
「ああ」
今日は王立学院の創立百年の式典だった。国王をはじめ、成人した王子王女、有力な貴族、国外からの客まで集まる。来春の指名を考えれば、遅れるわけにはいかない。
「馬車を回せ」
「ただいま」
侍従が下がる。
アルベルトは机の上の式次第を手に取った。挨拶は七分。そのあと東方の使節と短く話し、先日の鉱石の件を一歩進めるつもりだった。
十分が過ぎ、二十分が過ぎた。
「遅い」
扉が開いた。入ってきた侍従の顔を見て、アルベルトは眉を寄せた。
「何だ」
「馬車が、参りません」
「なぜだ」
「いつもの馬車屋に確かめましたところ、保証が外れてからのご利用は、年の契約の条件では出せない、と」
「それは聞いた。今日の分を頼めばいい」
「先にお代をいただけなければ出せない、と」
「なら払え。オスカーを呼べ」
ほどなくして、帳簿を抱えたオスカーが入ってきた。
「馬車代を払え。すぐにだ」
「承知いたしました。往復で二枚。残りは、四十七枚から四十五枚になります」
アルベルトの手が止まった。
「……四十七? 百十二枚あっただろう」
「二週間前には。年の契約の外で、すべてその都度お支払いしておりますので」
アルベルトは時計を見た。式典まで、あと三十五分。数字の話をしている時間はなかった。
「払え」
「はい。ただ、いつもの車は、馬車屋がもう別の契約先へ回しております」
「回した? あれは私の馬車だろう」
オスカーが、ほんの一瞬だけ黙った。
「いいえ、殿下。年の契約で、優先して回していただいていた、馬車屋の車でございます。保証人に変更あるときは条件を改める、という一文が、その契約にも入っておりました」
「……今から出せるのは」
「辻馬車だけだそうです」
アルベルトが黙った。
「……紋章は」
「ございません」
「四頭立ては」
「二頭立てです」
時計の針が、一つ進んだ。
アルベルトは式次第を握りしめた。
「出せ」
「承知いたしました」
王立学院の正門の前には、馬車が列を作っていた。
公爵家、侯爵家、伯爵家、国外の使節。それぞれの紋章を掲げた車体が、一台ずつ玄関の前へ進んでいく。
その列に、紋章のない二頭立てが一台、加わった。
「どこの家だ?」
待っていた貴族の一人が首を傾げた。
御者が扉を開ける。降りてきたアルベルトを見て、男の口が止まった。
「……殿下」
アルベルトは何も言わなかった。
上着を整え、そのまま階段へ向かう。遅れてはいない。服装にも乱れはない。挨拶の文句も頭に入っている。式典そのものには、何の差し支えもなかった。
階段に足をかける直前、後ろから馬車の音がした。
振り返ると、黒い車体の四頭立てが玄関へ進んでくるところだった。扉には、エルヴェール侯爵家の紋章。王子宮の前で、三年間何度も見てきた馬車だった。今日乗っているのは、侯爵一人だけらしい。
侯爵家の四頭立てが、玄関の前で辻馬車を追い越していく。
三年のあいだ、先に玄関へ着くのは、ずっと殿下の馬車のほうだった。
侯爵家の馬車が目の前を通りすぎ、玄関に止まる。アルベルトは一度だけ、自分が降りてきた辻馬車のほうを見た。
「殿下、お時間です」
「分かっている」
アルベルトは前を向いた。
式典では、予定どおり七分の挨拶をした。東方の使節とも話し、鉱石の件も次の段へ進んだ。誰からも、しくじりを指摘されることはなかった。
だから、その日の仕事は成功だった。
夜、王子宮に戻ったアルベルトの机に、オスカーが帳簿を置いた。
「何だ」
「本日までの家政費でございます」
「馬車代なら見た」
「はい」
オスカーが帳簿を開く。残りは、四十五枚。
アルベルトは数字を見てから、椅子に腰を下ろした。
「来月になれば、また二百枚入る」
「はい」
「それまで四十五枚。足りるな」
オスカーは答えなかった。
アルベルトが顔を上げる。
「オスカー」
「殿下」
会計官は、帳簿の端に記された日付を指で示した。
「月末まで、あと十一日ございます」




