第一話 すべて、外せばよろしいのですね
「帳簿で私を縛る悪役令嬢は、もう要らない」
婚約を破棄すると告げられるより先に、リディア・エルヴェールは自分のあだ名を聞かされた。
王宮の大広間には、今夜のために取り寄せたものが並んでいる。
国外から運ばせた白薔薇が三百本。
北部の葡萄酒が二十四樽。
楽団が十二人に、給仕が三十人。
どれもリディアが手配したものだったので、婚約者に悪役令嬢と呼ばれながら最初に頭に浮かんだのは、今夜の請求書をこれからどこへ回せばいいのだろう、という疑問だった。
婚約を破棄された令嬢が、明日の支払先を心配する必要はあるのだろうか。
たぶん、ない。十九年生きてきて、初めて出くわす種類の問題だった。
「聞いているのか、リディア」
「はい、殿下」
第一王子アルベルトは、広間の真ん中に立っていた。
来春には次の王太子が指名される。成人した王子王女のなかではアルベルトが一番の候補だと言われていて、本人もそれにふさわしく振る舞える男だった。
よく通る声で話し、国外の使節には相手の国の言葉で挨拶をする。人の顔と名前を覚えるのも早く、今夜も入場してから一時間足らずで、招待客の半分以上と言葉を交わしている。
その隣に、見覚えのある少女がいた。
王都で急に商いを広げている商会の娘、セリーヌ。淡い桃色のドレスが、広間の灯りをよく拾っていた。
そこまで見て、リディアはようやく、自分が今夜どこに立たされているのかを理解した。
「三年間、私は君に王子妃として学ぶ時間を与えた」
アルベルトの声が広間によく響く。
楽団は、いつの間にか演奏をやめていた。
「だが、君が覚えたのは何だ。帳簿と、商人への頭の下げ方だけではないか」
近くで、小さく笑う声がした。
リディアはそちらを見なかった。見なくても、誰が笑ったのかはだいたい分かる。三年前から、何度も聞いてきた笑い方だった。
王子の夜会で請求書を確かめる女。
酒の追加注文に印を押さない女。
宝石商の請求が見積もりと違えば、王子の目の前でも差し戻す女。
社交界でいつからそう呼ばれはじめたのか、リディア自身は知らない。帳簿の悪役令嬢。ずいぶんと守備範囲の狭い悪役だと、初めて耳にしたときに思ったのは覚えている。
「王子妃に必要なのは、請求書を数える能力ではない」
「おっしゃるとおりかと」
答えると、アルベルトの眉がわずかに動いた。
言い返されると思っていたらしい。けれど、請求書を数えられることが王子妃の必須条件だと言い張るつもりは、リディアにもなかった。数えられないよりは、ましだと思うけれど。
「でしたら、なおさらですわ」
アルベルトの隣から、セリーヌが一歩前へ出た。
「私でしたら、殿下にそのような雑務をさせませんもの」
また笑いが起きた。今度はさっきより少し大きい。
リディアは手袋の中で、親指の爪を人差し指の腹で一度だけなぞった。
雑務。三年間で、自分では一度も使ったことのない言葉だった。使う暇がなかった、と言ったほうが正しいかもしれない。
王子宮から届く請求書は、ひと月に五十枚前後。多い月には六十を超える。一枚ずつ発注書と納品書と金額を突き合わせ、葡萄酒は一年分を先に押さえ、花は季節ごとに店を分け、馬車は一回ずつ呼ぶより年の契約にする。それでも足りなければ、翌月に回せるものを探す。
王子宮の家政費は、決まった額しか降りてこない。まだ王太子ではない王子の宮は、王家の金庫とは別の勘定で、使いすぎた分を国庫が埋めてくれることはない。三年前、支払いを溜めて商人たちに見放されかけたその宮を、掛け売りでつないできたのが、いずれ同じ家計を持つはずだったエルヴェール侯爵家の保証だった。
増えないものは、使い方を変えるしかなかった。
それを三年間続けてきた。どうやら、雑務だったらしい。
「セリーヌは、君とは違う」
アルベルトが言った。
「私を信じている。いちいち財布を覗きこんで、これは高い、これは要らないと口を挟んだりはしない」
「はい」
「……何か言うことはないのか」
問われて、リディアは少し考えた。
あった。
「本日のお花ですが、明日の朝までは持つように手配してございます。お帰りの際、ご希望の方にお配りしてもよろしいでしょうか」
広間が静かになった。
アルベルトも黙った。
婚約破棄の場で確かめることではなかったらしい、とリディアは遅れて気づいた。とはいえ、三百本ある。明日の朝、裏口に積まれて捨てられるよりはいい。
「……そういうところだ、リディア」
「申し訳ございません」
「君はいつもそうだ。金、契約、帳簿。私が何かをしようとするたびに、先に数字を持ってくる」
アルベルトはそこで一度、言葉を切った。
隣のセリーヌに目をやる。彼女は微笑んでいた。その笑顔を確かめてから、アルベルトは改めてリディアに向き直った。
「君との婚約を破棄する」
「承知いたしました」
今度は、誰も笑わなかった。
あまりにあっさり返したせいかもしれない。リディア自身、声がきちんと出たことに少し驚いていた。
胸の奥に何もないわけではなかった。三年は、三年だ。十六から十九まで、自分は王子妃になるのだと思って暮らしてきた。それが今、数十人に見守られながら、二言で終わった。
ただ、ここで泣いても婚約が戻るわけではないし、戻ったところで、さっきの言葉が消えるわけでもない。
それに、婚約が終わったのなら、先に確かめておかなければならないことがあった。
「殿下。一点だけ、確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「王子宮との契約についてです」
アルベルトの顔に、隠す気もない呆れが浮かんだ。
「また契約か」
「はい」
「もう君には関係ない」
リディアは口を閉じた。
関係ない。それなら話は早い、と思いかけたところで、アルベルトはまだ言い終えていなかった。
「今日中に、私の宮に関わるすべての契約から君の名前を外せ。君の父上にも伝えておけ。今後、私の宮に口を出す必要はない、とな」
リディアは、すぐには返事をしなかった。
聞き違えてはいけない言葉だった。
「すべて、ですか」
「ああ」
「私個人の署名だけでなく、エルヴェール侯爵家の名でお引き受けしているものも」
「全部だ」
「では、本日以降の保証も、すべて外すということでよろしいですね」
アルベルトが、苛立たしげに息を吐いた。
「何度言わせる。全部だ」
「承知いたしました」
リディアは一礼した。
顔を上げたとき、広間の端に立つ父と初めて目が合った。
エルヴェール侯爵は何も言わなかった。娘からアルベルトへ視線を移し、それからもう一度、娘を見る。その顔には、驚きより先に、何かを確かめるような色があった。
「印箱を」
リディアは、後ろに控えていた侯爵家の侍従に手を出した。
「……こちらで、ございますか」
「ええ」
侍従が戸惑いながら差し出した小箱を受け取る。今夜も追加の発注が出るかもしれないと思って、持ってきていたものだった。
蓋を開ける。婚約が決まった日に父から預けられた、王子宮との取引にだけ使える侯爵家の代理印と、小さな朱肉。それから、取引の変更を届け出るための書式が数枚。
王宮で働いていると、こういうものだけは嫌になるほど手元に揃っていく。
「おい」
アルベルトが、怪訝そうに眉を寄せた。
「何をしている」
「殿下のご命令を処理しております」
「今、ここでか」
「今日中とのことでしたので」
リディアは書式に日付を書いた。
婚約を破棄された日の数字を、自分の手で記す。ペン先が一度だけ止まり、インクが紙の上に小さな丸を作った。それを見てから、続きを書いた。
保証解除。以後の新規発注について、エルヴェール侯爵家は債務の保証を行わない。
最後に印を押す。
ぽん、と、夜会にはまるで似合わない軽い音がした。
同じものをもう一枚書いて、控えを手元に残す。一枚目は侍従に渡した。
「家政局へ。今夜の追加のご注文から、保証はないとお伝えして」
「か、かしこまりました」
侍従が広間を出ていくのを見送ってから、リディアはアルベルトに向き直った。今夜の追加に備えて、酒商の番頭は王宮の搬入口に控えさせてある。手配したのは、リディア自身だった。
「これで結構です」
「相変わらず、仕事だけは早いな」
「ありがとうございます」
「褒めてはいない」
「失礼いたしました」
セリーヌが口元を押さえて笑った。
張りつめていた広間の空気が、それで少し緩む。婚約破棄は終わり、悪役令嬢は退場する。あとは新しい王子妃の候補を囲んで、来春の指名を見据えた華やかな夜会に戻るだけ。
誰もがそう思っている顔をしていた。
リディアが印箱を閉じてから、三分後。
「酒を追加しろ」
アルベルトが給仕に命じた。
「北部の赤を。今夜は祝いの席だ。残っている者、全員に振る舞え」
「かしこまりました」
給仕が下がっていく。
リディアは壁際に寄り、父のところへ戻ろうとした。
その途中で、広間の端に一人で立っている少女が目に入った。第二王女エリーゼ。兄とは反対に、飾りの少ない薄青のドレスを着ている。誰と話しているわけでもなく、手にしたグラスもほとんど減っていなかった。
一瞬だけ目が合う。エリーゼが小さく会釈をした。リディアも返した。
それだけだった。
「殿下」
さっきの給仕が戻ってきた。
ずいぶん早い、とリディアは思った。手にしているのは酒瓶ではなく、小さな紙が一枚きりだった。
「何だ」
「酒商より、伝言がございます」
「いいから早く持ってこい」
「それが」
給仕は言いにくそうに、紙に目を落とした。
「恐れ入ります。追加の分は、先にお代を、とのことでございます」
「……何?」
アルベルトが聞き返した。
セリーヌも給仕を見る。周りの貴族たちも、何の話をしているのか分からないという顔をしていた。
「王子宮への納品だぞ」
「はい」
「いつも月末にまとめているだろう」
「酒商も、そのように申しておりました。ただ」
給仕は困ったように言葉を継いだ。
「今夜からは、先払いでお願いしたい、と」
アルベルトの視線が、初めてリディアへ向いた。
広間に、妙な静けさが落ちた。
周りの貴族たちは、誰も理由が分かっていない顔をしていた。
リディアは手元の紙に目をやった。ほんの三分前に、自分で印を押したばかりの保証解除の届。
仕事が早いものだ、と思った。酒商のほうが。
リディアは紙を畳んで、印箱の中にしまった。
「本当に、すべてと言ったのか」
帰りの馬車が王宮の門を離れてから、父が初めて口を開いた。
リディアは膝の上に印箱を載せていた。
「はい」
「保証もか」
「含めて、と確かめました」
「……そうか」
父はそれきり黙った。
車輪が石畳を踏む音だけが続く。
リディアは窓の外に目を向けた。王宮の明かりが、少しずつ後ろへ遠ざかっていく。三年間、あそこへ通った。明日からは、もう行かなくていい。そう思ったところで、なぜか胸の奥が少しだけ痛んだ。
膝の上の印箱に、手を置く。
まだ終わっていない。今日までの請求は残っているし、契約先への知らせも要る。婚約は終わっても、帳簿のほうは勝手に閉じてはくれない。
「お父様」
「何だ」
「明日の朝から回ります」
父はしばらく娘の顔を見ていた。
それから、短く息を吐いた。
「朝食は、食べてからにしろ」
「はい」
返事が、半拍だけ遅れた。
明日、最初に訪ねるのは、花屋だった。




