4、狂気への分岐点
白兎配送メンバメイ支社、エグゼクティブ・クーリエ専用の執務エリア。
温度も湿度も完璧に管理された快適な空間の中で、満鷹瑛児は、自分のデスクに備え付けられた高級なレザーチェアに深く沈み込んでいた。
彼の眼前には、空中に投影されたホログラム・ディスプレイが青白い光を放っている。そこに表示されているのは、ルテティア採掘基地への「特命案件」の配送ログだった。
『二十日目:配送完了(17:48) ――ステータス:正常』
その緑色の文字を見た瞬間、満鷹の胃の奥で、どす黒い酸が逆流するような感覚が走った。
「……馬鹿な。あり得ない。どうしてだ……ッ!」
満鷹は無意識のうちに、完璧に手入れされた自身の爪を、手のひらに食い込むほど強く握りしめていた。ギリッと奥歯が鳴る。
今日で二十日目だ。あの薄汚いオンボロ船に乗る底辺アルバイト、宇都宮遥がシャトルランを開始してから、実に三分の二の日程が消化されたことになる。
満鷹はこれまで、あらゆる手を尽くしてあの男の配送を妨害してきた。
管制を買収し、ゲートを閉鎖させ、カードを凍結し、予報を改竄し、警察まで使った。それでも、あの男は一度も遅延していない。
どれもこれも、一つ間違えれば自分自身の首が飛ぶような、極めてリスクの高い社内規定違反――いや、明確な犯罪行為だった。
そこまでして、十重二十重に罠を張り巡らしたのだ。通常の配送員であれば、最初のゲート閉鎖の時点で心が折れて遅延ペナルティを受け入れるか、機体を壊してリタイアしているはずだった。
「……なぜだ」
満鷹の口から、乾いた呟きが漏れた。
「普通なら、折れるだろう。普通なら契約を投げる。普通なら、割に合わないと会社を辞めるはずだ」
自分が仕掛けたのは、一介のアルバイトが対処できるレベルの障害ではない。理不尽の連続だ。システムと権力による、圧倒的な暴力だ。
それなのに、あの男は血みどろになりながらも、すべてを突破してくる。
「なぜ、あいつだけ折れないんだ。なぜ……俺の想定通りに動かない」
ドンッ、と満鷹はデスクを強く叩いた。コーヒーの入ったチタン製のマグカップが跳ね、濃褐色の液体が数滴、彼の純白のシャツの袖口に跳ねた。
満鷹は舌打ちをし、ハンカチでそれを乱暴に拭き取った。シミは落ちない。まるで、彼の完璧なキャリアについた「宇都宮遥」という消えない汚点そのもののように思えた。
満鷹の目論見は完全に狂っていた。
当初、彼は「嫌がらせをして契約を潰し、宇都宮に違約金を背負わせて業界から追い出す」程度にしか考えていなかった。自分があの男から受けた屈辱――ルテティアの田舎者たちの前で恥をかかされ、人事評価を下げられた怒り――を晴らすための、ほんの軽い「指導」のつもりだった。
だが、宇都宮はゴキブリのような異常な生命力と、理解不能な操縦技術で、満鷹の仕掛けた理不尽な障害をすべてねじ伏せてみせた。
その事実が、満鷹のプライドをさらに深く、修復不可能なほどに傷つけていた。
「俺の完璧な計画が……あんな、教養も知性もないその日暮らしの底辺に、破られたというのか? この俺が、出し抜かれたとでもいうのか?」
満鷹の呼吸は荒くなっていた。自分が理解できない強さ。自分の常識が一切通じない異質な存在。それが、満鷹の自尊心を根底から揺さぶり、恐怖に似た苛立ちへと変質していく。
「満鷹くん。少し、いいかね」
不意に背後から声をかけられ、満鷹はビクッと肩を震わせた。
振り返ると、恰幅の良い支社長が、温和な笑みを浮かべて立っていた。満鷹は慌ててホログラムの配送ログを隠し、作り物の完璧な笑顔を顔面に貼り付ける。
「はい、支社長。何かご用命でしょうか」
「いやね、先日の週次評価会議の報告書を見ていたんだが……例のルテティアの三十日連続案件。宇都宮くん、素晴らしい成績だね」
支社長の口から出たその名前に、満鷹の顔面からすっと血の気が引いた。
「あのオンボロ機体で、あのシビアな条件を二十日間、一度のミスもなく連続クリアしている。顧客の辺見さんからも絶賛のメッセージが届いていてね。あの時、君は猛反対してくれたが……やはり、顧客の要望通り彼を指名して正解だったよ。私の判断は間違っていなかった」
「……ええ。おっしゃる通りです。彼も、期待以上の働きをしているかと」
満鷹は声の震えを隠すため、必死に腹筋に力を入れた。一ヶ月前、このデスクを叩いて抗議した自分がひどく惨めなピエロのように思えた。
「そこでなんだがね」
支社長は嬉しそうに手を打ち合わせた。
「この案件が無事に三十日間完遂されたら、宇都宮くんを特例で正社員に登用しようかと考えているんだよ。彼のようなガッツのある若者は、今の白兎配送には貴重だからね」
満鷹の耳の奥で、甲高い耳鳴りが鳴り響いた。
あいつが、正社員になる? 俺と同じ執務エリアを歩き、同等の権限を持つようになる?
「……正社員ですか?」
満鷹は乾いた唇を舐め、必死に反論の糸口を探した。
「しかし、彼は確か……大学を休学中だったはずです。正社員として迎え入れるには、経歴の面で問題があるのでは」
「ああ、それなら心配いらない。彼が望むのであれば、復学の手続きと、早期卒業に向けた金銭的なサポートは会社が全面的にバックアップするつもりだ。優秀な人材への投資としては安いものだよ」
満鷹の口は半開きになったまま、声を発することができなかった。
「君も、先輩として彼を指導してやってくれないか? では、引き続き頼むよ」
支社長が上機嫌で去っていくのを見送った後、満鷹はそのままトイレへと駆け込んだ。
個室の便器に顔を突っ込み、胃の内容物をすべて吐き出す。しかし、出てくるのは黄色い胃液ばかりだった。
「げぇっ、はぁ、はぁ……ッ! ふざけるな……ふざけるなッ!」
冷たいタイルの壁に額を押し当て、満鷹はうめき声を上げた。あいつが正社員になるなど、絶対に許されない。
胃の底から這い上がってくる絶望感を噛み殺していた満鷹のもとに、さらなる追撃が訪れたのは、その日の午後だった。
「満鷹エグゼクティブ・クーリエ。今、少々お時間よろしいでしょうか」
静かな、しかしひどく冷ややかな声だった。
そこに立っていたのは、見慣れないグレーのスーツを着た若い男だった。胸元には「内部監査部」のバッジが光っている。
「……監査部が、私に何の用だ? 見ての通り、今は忙しいんだが」
満鷹は努めて尊大な態度を取ろうとしたが、その声はひどく上擦っていた。
監査部の男は、手元の薄型端末を操作しながら、感情の読めない目で満鷹を見下ろした。
「実は、ここ二週間ほどの社内ネットワークのアクセスログにおいて、不可解なデータが検出されまして」
「不可解なデータ?」
「はい。特定のアルバイト配送員――宇都宮遥氏の航行データや、経費アカウントに対する『外部からの不正な書き換えアクセス』の痕跡です。民間管制への不自然な通信記録、港湾システムへのクラッキングの痕跡、さらには給油ステーションでのアカウント凍結操作。これらがすべて、宇都宮氏の配送ルート上で局所的に発生しています」
「それがどうした。システムの不具合か、海賊の嫌がらせだろう」
「ええ。我々も最初はそう考えました」
監査部の男は、感情の読めない目で満鷹を見据えた。
「ですが、アクセスのプロトコルを解析した結果、どうやら『社内の高い権限』を持ったアカウントが偽装され、利用された可能性が浮上したのです」
「……内部犯の仕業だと言いたいのか」
「まだ断定はできません。しかし、エグゼクティブ・クラスの権限が使われた形跡がある以上、見過ごすわけにはいきません。現在、本社システムと連携し、エグゼクティブ権限を持つ全社員の端末のアクセスログを、フォレンジック――デジタル鑑識――調査にかけることが決定しました」
満鷹は、机の下で組んだ両手が小刻みに震え出すのを止められなかった。
まずい。非常にまずい。
満鷹は自分の痕跡を消したつもりでいたが、それはあくまで「素人目には見えない」というレベルに過ぎなかった。本社の監査部が専門のプロトコルで本腰を入れて解析すれば、偽装用のプロキシを何十個噛ませていようが、やがては真のアクセス元――満鷹の個人端末――へと辿り着く。
「調査結果が確定し、もし仮に……本当に仮の話ですが、社内の人間による悪意ある妨害工作であった場合。これは業務妨害どころか、各惑星のインフラに対するサイバーテロと同義です。懲戒解雇は免れず、刑事告発、および業界からの永久追放措置が取られることになります」
監査部の男は、眼鏡の奥で鋭く目を細めた。
「満鷹さん。何か、お心当たりはありませんか?」
「……ない。私を疑っているのか? この私を。誰よりも会社に利益をもたらしてきた、この私を!」
「滅相もありません。ただ……念のため、満鷹さんの端末も調査対象に含まれます。近いうちに端末の提出をお願いすることになるかと思いますので、ご承知おきください。では、失礼します」
男は丁寧にお辞儀をし、足音もなく去っていった。
満鷹は、一人取り残されたデスクで、歯の根が合わないほど震えていた。
終わる。
俺のキャリアが、人生が、終わる。
もし宇都宮がこのまま三十日間を完走し、英雄扱いされれば、監査部は「宇都宮の偉業を邪魔しようとした卑劣な犯人」を必ず見つけ出そうとするだろう。
そうなれば、すべてが白日の下に晒される。
高級マンションも、何着もあるオーダーメイドのスーツも、周囲からの称賛の眼差しも、すべてを失う。刑務所の臭い飯を食い、出所した後は一生、宇宙港の薄汚いドックで日雇いの荷運びをして暮らすことになる。あの、宇都宮遥と同じように。
「嫌だ……」
満鷹は両手で頭を抱え込んだ。
こんなはずじゃなかった。ほんの少し、生意気なアルバイトに身の程をわからせてやるつもりだっただけだ。それなのに、なぜ自分が犯罪者として全てを失わなければならない?
隠蔽は無理だ。時間は残されていない。どうすればいい。どうすればこの最悪のシナリオを白紙に戻せる?
極限の恐怖の中で、満鷹の脳裏に一つの選択肢が浮かび上がった。
――宇都宮遥が、宇宙の藻屑となれば。
彼が「不慮の事故」で消滅すれば、三十日の案件は未達に終わる。当事者が死んでしまえば、監査部も「死人に対する嫌がらせ」の犯人探しなど、これ以上本腰を入れて追及はしないだろう。会社も不祥事は揉み消す。全ては闇の中だ。
だが、それは明確な「殺人」だ。
エリートとして生きてきた俺が人殺しになるのか?
満鷹の呼吸は乱れ、脂汗が額を伝い落ちた。倫理と保身が激しくせめぎ合う。
いや、違う。悪いのは俺じゃない。俺の完璧な人生を狂わせた、あの男が悪いんだ。あいつが素直に折れていれば、こんなことにはならなかった。
満鷹の瞳から迷いが消え、どす黒く濁った狂気の光が宿った。
彼は立ち上がり、執務エリアの奥にある防音仕様のプライベート・ブースへと足早に向かった。内側から電子ロックをかけ、非合法な暗号化通信端末を取り出す。
メンバメイの裏社会。暗黒のネットワークに接続する。
数回のルーティングを経て、通話が繋がった。
『……よォ。白兎のエリート様が、こんな下水道みたいな回線に何の用だ?』
スピーカーから、機械で重低音に加工された、耳障りな声が響いた。
満鷹は一度だけ深く深呼吸をし、冷酷な声で答えた。
「仕事の依頼だ。『クロウ・シンジケート』」
『ほう。こっちは違法サルベージ屋だぜ? 荷物の運搬なら、そっちの会社の領分だろうが』
「運搬じゃない。……『解体』だ」
満鷹は口の端を歪めて笑った。もう、後戻りはできない。そして、後戻りする気もなかった。
「標的は、白兎の登録機。機体番号XLQ―09。乗っているのは丸腰のアルバイトだ」
『……なるほど。で、どうする』
「宇宙の塵にしろ。事故にしか見えないようにな」
『おいおい、それは「人殺し」の依頼だぜ? サルベージ屋の料金表には載ってねぇな』
「前金で十万。事後にもう十万だ」
通信の向こうで、低い笑い声が聞こえた。
『二十万。破格だな。いいだろう、引き受けた。だが、方法はこちらに任せてもらうぜ』
「構わない。そっちが何をするのか知ったことか。とにかく、五日以内に必ず仕留めろ」
『任せとけ。うちのガラクタ船でも、オンボロ一隻を塵にするくらい、造作もねぇよ』
通信が切れた。
ブースの中に、再び静寂が戻る。
満鷹は暗号化端末を電源から切り離し、深く息を吐き出した。
胸のつかえが取れたような、異様な高揚感が全身を包んでいた。これですべてが終わる。あの目障りなドブネズミは、冷たい宇宙の闇に消え、自分は白兎配送のトップクーリエとして君臨し続けるのだ。
「悪いのは俺じゃない。分を弁えずに、俺の世界に踏み込んできた……お前が悪いんだぞ、宇都宮」
満鷹瑛児は、狂気に染まった目で無人の空間を睨みつけながら、ただ一人、満足げな笑い声を上げた。




