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小惑星配送便3 ―― ゆりかごは星の海を越えて ――  作者: 真野真名


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2、運ぶのは「時限爆弾」 ――徹底管理のシャトルラン




「規定G値は〇・八以下。これを超える衝撃や振動が加わった瞬間、内部の分子構造が崩壊してただの水になります」


 人工惑星メンバメイ軌道上のラボ【ビクスモッツァ】。病院の無菌室を思わせる無機質な一室で、いきなり突きつけられたその言葉に、僕は息を呑んだ。


 契約初日、十三時五分前。


 目の前の若い女性研究員は、僕の顔など見ていなかった。彼女の視線は、自身の両手に乗せられた金属製の小箱に縫い付けられている。手のひらに収まるサイズの、蜂の巣構造をした奇妙な断熱シェル。中央に埋め込まれたインジケーターが『マイナス四十・〇度』という緑色の数字を冷たく放っている。


「温度はマイナス四十度、許容誤差はプラスマイナス〇・一度。〇・二度を超えて逸脱した場合、成分が不可逆的に失活します。そして」


 彼女は糊の利いた硬質な白衣を着ていたが、その袖口は酷くすり切れ、何日も着替えていないような細かなシワが寄っていた。何日も徹夜を重ねた特有の充血した目が、ようやく僕を射抜く。


「これが最も重要よ」


 彼女は機械のように冷徹に言葉を紡ぎながらも、小箱を支える細い指先を微かに震わせていた。


「製造から約六時間。先ほど抽出されたこの薬は、十九時を迎えた瞬間に完全な毒物へと変質します。それを一秒でも過ぎたら、配送は失敗とみなしてその場で破棄して」


 彼女の声が、その一瞬だけ一音低く、ひび割れたように聞こえた。


「……随分と物騒なナマモノですね。普通の薬じゃない」


 僕の呟きに、彼女は微かに唇を噛んだ。鉄の仮面の奥から、必死に押し殺した感情が漏れ出しそうになっている。


「配送員さんは、何も知らなくていい。ただ、時間通りに、五時間以内にルテティアへ届けてください。今は、それだけが重要なの。行って。あと三分で十三時になる」


 僕は何も聞かず、受け取った金属箱を特製の衝撃吸収ホルダーへと収め、小走りで流星号へと引き返した。


 十三時ちょうど。コンソールに入金予定のシグナルと、同時に非情なカウントダウンが灯る。


「ポチ、発進だ。スケジュールを秒単位で刻め」


『了解しました。エンジン点火、最大巡航速度へ移行します。本日の推定違約金発生確率、現時点で三・七パーセント。ご参考まで』


 ここから、僕の「絶対に気が抜けない三十日間」の幕が上がった。




 通常航行であれば、メンバメイから小惑星ルテティアまでは五時間半かかる。それを、流星号のオンボロエンジンを限界まで回し、危険なショートカットを駆使して四時間半に縮める。

 だが、その「三十分の余裕」など、宇宙の気まぐれな悪意の前に一瞬で消し飛ぶ薄氷だった。


 まず襲ってきたのは、徹底的な温度管理という名の地獄だ。

 流星号のエアコンは、ゴリラテープで補修した部分が吹き飛んで以来、ただの送風機と化している。


「ポチ、コンテナの温度計はどうなってる!」


『マイナス三十九・九度を検知。失活ラインまであと〇・一度です』


「クソ、やっぱり冷却系がイカれてやがる。……おい、あれをやるぞ」


 僕はシートベルトを外し、コクピットの床に這いつくばった。自分の宇宙服の背中から伸びている生命維持用の冷却液チューブを引き抜き、貨物室のコンテナ外部に増設したジャケットへと直接結合する。


 そして、宇宙服が僕を冷やすのをやめた。

 宇宙服の内部がじっとりと自分の汗で満たされていく。サウナの中にいるような不快極まりない感覚。だが、コンソールのインジケーターは、マイナス四十・〇度という絶対的な数値を維持し始めた。


「僕の肉体という有機的な冷却資産が、見事に機能しているな」


『はい。発汗量が通常の二・三倍を記録しています。不快な臭いを除けば、極めて効率的な熱交換システムです』


 温度の次は、振動だ。


 前方から迫り来る無数の岩塊。重力の歪みが相殺されて最も揺れが少ない「凪のライン」をポチが瞬時に計算し、僕がスラスターをミリ秒単位で微細噴射してトレースしていく。内臓が慣性によって引き剥がされるような錯覚の中、僕は操縦桿を握り続けた。


 そして、最もシビアなのが時間管理だった。


『往路における、宇都宮様の排泄許容時間は残り一分十五秒です。これを超過した場合、ルテティア入港時の減速シークエンスに〇・八秒の遅れが生じます』


「わかってるよ! 宇宙のウーバーを舐めるな、こっちは一分一秒を削って生きてんだ!」


 往路と復路を合わせて、一日に許されたトイレ休憩時間はわずか四分。それ以上は、十万クレジットの天引きという名の奈落が待っている。


 十七時四十五分。


 ルテティア採掘基地のみすぼらしいドックに接地し、ハッチを開けて待っていた現地の作業員に金属箱を手渡す。

 受領シグナルがコンソールに緑色で灯った瞬間、僕は崩れるように操縦席に全体重を預けた。


 残り時間、十五分。


「……ハァ、ハァ……。ポチ、初日、クリアだ」


『お見事です、宇都宮様。これで全体の三十分の一が終了しました』


 僕は宇宙服のヘルメットを脱ぎ、ぬるくなった水を一気に飲み干した。喉を通り抜ける水の安っぽささえ、今は生きている実感に変わる。緊張で強張った顔にようやく笑顔が戻った。


「なあポチ、俺、この三十日間のシャトルランが終わる頃には、何キロ痩せてると思う?」


『現在のエネルギー消費量と異常な発汗量から逆算して、約四・二キログラムの純粋な脂肪組織が減少すると推定されます。将来、存在しない彼女を抱きしめる際の、無駄な贅肉というクッションが減るわけです。統計上、好都合な変化と言えるのではないでしょうか』


「お前、俺に彼女ができないっていう前提を、いつになったら捨てるんだよ」


『論理的な訂正を要求します。仕様上、宇都宮様の交際相手発生確率は依然として〇・〇〇一パーセント未満を維持しています』


「一瞬でも期待した俺が馬鹿だったよ」


『はい。その認識は統計的にも正しいです』


 僕は小さく笑い、ダッシュボードのポチの隣を見た。


 ピンク色の球体、タマは相変わらず何も言わない。白い花のシールが、不揃いなエンジンの振動に合わせて微かに揺れているだけだ。


「タマ、お前のお兄ちゃんは今日も相変わらず冷酷だぜ」


 タマは答えない。僕はガムテープで補修されたシートに深く寄りかかり、目を閉じた。


 一日目が終わり、二日目、三日目と、息の詰まるような綱渡りのフライトが続いた。


 来る日も来る日も、温度と振動と時間に追われ、僕の精神と肉体は確実に削られていった。

 三日目には合成ラーメンの味を忘れ、五日目には夢の中でも凪のラインを探していた。

 それでも、コンソールに刻まれる「完了」の文字だけを支えに、流星号を飛ばし続けた。




 そして迎えた、七日目の往路。


 ルテティア航路のちょうど半分を過ぎたあたりの、比較的密度の低いデブリ帯に差し掛かった時だった。


『前方、デブリ帯に大きめの動的反応を検知』


 ポチの声が、いつもよりわずかに低いトーンに変わった。

 僕はすぐさま姿勢を正し、メインモニターを見据える。


「デブリか? いや、形が歪だな。船、か……?」


『識別信号の送信はありません。航行能力は喪失している模様。漂流船、あるいは廃棄された廃船です』


 モニターの倍率を上げると、漆黒の宇宙空間に浮かび上がる影の輪郭がはっきりと見えてきた。赤錆びた金属の地肌が露出した旧型の大型輸送船。その側面に描かれた、大きく剥がれかけた「翼を広げた時計」のロゴマーク。


『型番、および個体識別データの残存部分から照合完了。クロノス・エクスプレス製、CX-シリーズ第二世代輸送船です』


 ポチの言葉に、僕はダッシュボードのピンク球体を二度見した。


「クロノス・エクスプレスって、タマの元いた会社だよな」


『はい。同社は五年前に経営破綻を迎えました。その後、多くの船がメンバメイ周辺の違法サルベージ屋の手に流出したと、公安のレポートにあります』


「違法サルベージ屋ね。要するに、宇宙のゴミ漁りか」


『より正確に表現するならば、裏社会の密輸業者、あるいは海賊の隠れ蓑です。メンバメイの裏社会において、これらは極めて一般的な改造ベースとして流通しています』


「へえ、物騒な話だ。僕らみたいな真面目な配送員には縁のない世界だな」


『……そうであれば良いのですが』


 ポチは、いつもよりほんの少しだけ間を置いてから、そう答えた。


「なんだよ、意味深な」


『単なる背景情報の提示です。仕様に基づく出力です』


「分かってるよ。関わらなきゃいいんだろ、関わらなきゃ」


 僕は流星号の進路をわずかに傾け、その不気味な廃船から距離を取った。錆びついた船体はゆっくりと通り過ぎ、バックミラーの闇の中へと消えていく。

 僕はその時、それ以上の深い意味を考えようとはしなかった。宇宙にはよくある、死んだ鉄の塊の一つに過ぎない。


 だが、ダッシュボードの上のポチのインジケーターが、その廃船が視界から完全に消え去るまで、何度も何度もタマのほうへと不自然な明滅を繰り返していたことに、僕は気づいていなかった。


 僕たちの知らない暗闇の底で、重く粘り気のある悪意が、ゆっくりと目を覚まそうとしていた。




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