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怪力婪神[カイリョクランシン]・常世の理[トコヨノコトワリ]  作者: 季原 惣彌


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第二話:水底の逆宮(みなそこのさかさみや)

一 渇水が暴く境界


「神を殺す最も残酷な方法は、首を刎ねることでも、社を焼き払うことでもありません」

 御子柴巽は、遮るもののない強烈な陽射しから目を守るように、黒い日傘を傾けた。

 彼女が立っているのは、ひび割れた灰色の泥土の上だ。本来そこにあるべき「水」は、どこにもない。

「神を忘却すること。――それが、現世(うつしよ)において神の存在定義(ありかた)を抹消する唯一の方法です。しかし人間は、都合よく忘れたはずの神を、しばしば物理的に『埋めて』処理しようとする」

 巽の視線の先には、干上がった「龍神湖(りゅうじんこ)」の底が広がっていた。

 観測史上初とされる大渇水(だいかっすい)により、数十年前にダムの底へと沈んだ「旧・水守村(みずもりむら)」の残骸が、まるで白骨死体のように泥の中から剥き出しになっている。

 数歩後ろで、帽子を目深に被った榧野蓮が、吐き気をもよおしたように口元を押さえていた。

「御子柴さん……ここ、臭いが酷すぎます。泥の臭いじゃなくて、何ていうか……魚が腐ったような、でももっと生臭い、古い血みたいな匂いが、地面から這い上がってきてる」

「あなたのセンサーは今日も正確ね、榧野くん」

 巽は表情を変えずにタブレットを操作する。

「今回の依頼主は、このダムを管理する河川開発機構。一週間前、水位が極限まで下がった湖底の調査に入った職員二名が、通信を絶った。その翌日、彼らはダムの排砂(はいさ)バルブに詰まった状態で発見されたわ。死因は『溺死』。……奇妙なのは、彼らが発見された時、バルブ周辺の水位は彼らの膝下までしかなかったことよ」

「膝下の水で、大人が二人同時に溺死……?」

 榧野の背筋に冷たいものが走る。

「ええ。客観的な検死結果によれば、彼らの肺から検出されたのは、通常の淡水ではない。塩分濃度が極めて高い『海水』、それも、現存するどの海のものとも組成が異なる、未知の古代海水だった」

 巽は日傘を閉じ、泥に埋もれた村のメインストリートだったであろう歪んだ一本道を歩き始めた。目指すのは、泥の斜面の最奥(さいしん)。周囲の崩れた民家とは明らかに一線を画す、異様(まがまがしい)建造物(ぶったい)だった。

 通常、神社の鳥居は空に向かって堂々と佇むものだ。

 しかし、干上がった泥の中から突き出ていたのは、二本の柱の「根元」ではなく、「笠木(かさぎ)」の部分だった。鳥居が上下真っ逆さまに、地面に向かって突き刺さっている(たっている)

「あれが、旧水守村に伝わっていた禁忌――『逆鳥居(さかさとりい)』。そしてその先にあるのが、現世のルールが通用しない水底の神域、『逆宮(さかさみや)』よ」


二 逆転の村


 泥を踏み締めながら逆鳥居に近づくにつれ、周囲の空気が目に見えて変質していくのが分かった。気温は急激に下がり、真夏だというのに吐く息が白くなる。

「ルールその二」

 巽は鳥居の前に立ち、泥に埋まった横木を見下ろした。

「これより先、上を見てはならない。私たちは常に『底』を歩いていると認識しなさい」

「上を、見ちゃいけない? どうしてです?」

「この神域において、上下の概念は反転している。私たちが今立っている泥の地面は、彼らにとっての『天井(さかいめ)』。そして、見上げる空こそが、底なしの『深海(しんいき)』だからよ」

 榧野は慌てて視線を足元に落とした。

 逆鳥居を潜り、さらに斜度を増す泥の窪地へと降りていく。そこはかつての本殿があった場所だ。ダムの底に沈む前、この場所は深い縦穴(どうくつ)のようになっており、村人はそこに社を建てていたという。

 崩壊した拝殿の跡地に辿り着いた時、巽は周囲の壁面に刻まれた文様を目に留めた。

 懐中電灯の強い光を当てると、それは波のようでもあり、あるいは蠢く無数の触手のようでもある、不気味な幾何学模様だった。

「……やっぱりね。前回の『常世の蚕』の繭で見つけた、姉さんの遺品の紐……あの結び目に刻まれていた『神代の戸籍(神に仇なすもの)』の紋章と、この逆宮の壁画の文様は一致する。姉さんは、十年前にこの場所の存在を知っていた」

 巽は内ポケットから、前話で回収した姉・梓のシステム手帳を取り出した。ページをめくると、水守村に関する記述が見つかる。


『水守の神は、天から降ったのではない。地底の海、常夜(とこよ)の底から湧き上がった。

村人はそれを“綿津見の影(わたつみのかげ)”と呼び、乾きを癒す代償に、年に一度、一番美しい娘の“影”を沈めた。

逆さの門が開く時、水は引き、肉体は乾き、影だけが水底で溺れ続ける』


「影を、沈める……?」

 榧野がその一節を聞き、自分の足元を見て、ぎょっとした。

 拝殿の跡地に差し込む僅かな光の中、自分の影が、自分とは全く違う動きをしていた。

 榧野自身は直立不動で震えているのに、地面に伸びた彼の影は、まるで水中で激しく溺れているかのように、手足をバタバタと悶えさせていたのだ。

「う、うわああ! 御子柴さん! 僕の影が、影が!」

「動かないで! 影を引き剥がされるわ!」

 巽は即座にバッグから、強力な紫外線照射灯を取り出した。

「影が奪われるのは、光と影の境界が曖昧だからよ。強い光で、現世の輪郭を固定する!」

 バッと照射された強烈な光により、榧野の影は一瞬で濃く、鋭くなり、彼の足元に無理やり縫い留め(しばりつけ)られた。影の不自然な悶えは収まったが、榧野は恐怖のあまりその場にへたり込んだ。

「助かった……。でも、何なんですかこれ。ここはただの干上がった泥の底じゃないんですか」

「言ったでしょう、ここは『逆宮』。物理的に水が引いたからといって、神域の水が干上がったわけじゃない。現世の水が消えたことで、隠されていた『常夜の水』が、今まさに私たちのすぐ頭上にまで満ちてきているのよ」


三 降り注ぐ溺死


 サァ……、と、頭上から奇妙な音が響いてきた。それは、雨の音に似ていた。しかし、何かが決定的に違っていた。

 水滴が地面に落ちる「パツパツ」という音ではなく、巨大な水塊が頭上でうねるような、「ゴボゴボ」という、水中特有のくぐもった重低音。

「来るわ」

 巽は静かに告げた。

「え? 何が――」

 榧野が問いかけるより早く、周囲の空間が突如として青暗い光に包まれた。

 見上げることの禁じられた『上空()』から、何かが降ってきた。


 ドサリ。


 それは、行方不明になっていた河川開発機構の職員の「制服」を着た、何かだった。いや、服を着ているのではない。それは、全身の肉がぶよぶよにふやけ、眼球が水圧で飛び出し、口から絶え間なく大量の泥水を吐き出し続ける、「溺死体そのものの形をした水の塊」だった。


『……つめたい……くらい……たすけて……』


 死者の声が、水中で響くような不自然な反響を伴って、二人の鼓膜を揺らす。

 しかも、降ってきたのは一人ではない。

 周囲の泥の中から、かつてこの村で『影を沈められた(いけにえとなった)』とされる、様々な時代の衣服を着た者たちが、次々と這い上がってきた。彼らの身体は透明な水でできており、その内部で、彼らの『本物の影』が、苦しげに藻掻いているのが透けて見えた。


『新しい、水守が来た……』

『影を置いていけ……身代わりを置いていけ……』


「御子柴さん、囲まれてます! これ、物理的に触ったらどうなるんですか!?」

 榧野が悲鳴を上げる。

「彼らは『溺死の概念』そのものよ。触れれば、その瞬間にあなたの気道と肺が常夜の水で満たされ、一歩も動けないまま溺死することになる。逃げるわよ、本殿の奥へ!」

 巽は榧野の腕を掴み、泥の斜面をさらに下へと滑り降りた。

 背後からは、大量の水が押し寄せるような「ゴボゴボゴボ!」という轟音が迫ってくる。しかし、振り返って上を見てはならない。上を見れば、その瞬間に「空という名の深海」に意識を吸い込まれ、自ら飛び込んでしまうからだ。

 二人が飛び込んだのは、岩盤をくり抜いて作られた、本殿の最奥にある「神体安置所」だった。

 そこには、水が干上がった今もなお、並々と黒い液体を湛えた「不凍の池」が存在していた。

 池の中央には、一本の朽ちた柱が立っている。その柱に、信じられないものが縛り付けられていた。

「……あれは……」

 巽の、常に冷静な客観の仮面が、初めて大きく剥がれ落ちた。

 柱に縛り付けられていたのは、一人の女性の『影』だった。立体的な影。壁に投影されたものではなく、影そのものが三次元の形を成して、そこに佇んでいる。その影の形、髪の長さ、そして身につけている衣服のシルエットは、巽が片時も忘れたことのない、姉・梓のものだった。

「姉さん……!」


四 影の対話


『……巽……?』


 影が、ゆっくりと顔を上げた。顔のパーツは影なので判別できない。しかし、声は間違いなく、十年前に失踪した姉のものだった。その声は、耳からではなく、巽の脳裏に直接響いてきた。


『来てはだめと言ったのに……。あなたは本当に、昔から頑固(わがまま)ね』


「姉さん、どうしてここにいるの!? 十年前、あなたに何があったの!」

 巽が一歩踏み出そうとするのを、榧野が必死に止めた。

「御子柴さん、ダメです! あの池の黒い水、生き物みたいに動いてます! 近づいたら引きずり込まれる!」

 確かに、池の黒い水は、巽の足元に向かって触手のように幾筋もの流れを伸ばし始めていた。


『私は、この世界の“歪み()”を正すために、門を巡っているの』

 姉の影は、悲しげに首を振った。

『この水守の神域は、現世の人間がダムを作って無理やり神を閉じ込めたせいで、狂ってしまった。神は怒り、現世をすべて水底に沈めようとしている。私は、自分の影をここに(くさび)として打ち込むことで、神の氾濫を抑えていたのよ』


「そんなの、あなたの自己犠牲で成り立つ歪な均衡じゃない! 客観的に見て、そんな方法が長続きするはずがないわ!」

 巽は叫んだ。


『ええ、その通りよ。だから……限界が来たの。この大渇水は、神が私の影を喰らい尽くし、完全に目覚めようとしている予兆。巽、手帳の次のページを見て』


 巽は言われるままに、ポケットから手帳を取り出し、親指でページをめくった。そこには、血のような赤いインクで、巨大な『(かみもどき)』の紋章と、一つの呪文が記されていた。


『神を還すには、逆さの理をさらに覆せ。

天を底とし、底を天とせよ。

門守(かどもり)の血を引く者が、その眼を灼くほどの“偽りの太陽”を掲げる時、水底の宮は現世から永遠に切除される』


「偽りの太陽……」

 巽は、自分のバッグの中にある「ある機材」に目をやった。

 それは、土地鑑識用に持ち込んでいた、高輝度・広角の『工業用フラッシュ・ストロボ光源発破器』だった。本来は広大な廃墟や洞窟を一瞬で撮影するためのものだが、その光量は直視すれば一時的に失明するほど強力だ。

「榧野くん、私の指示があるまで、絶対に目を瞑って、耳を塞ぎなさい。いいわね!」

「わ、わかりました!」

 巽はストロボ発破器を池の中央、姉の影の足元へと投げ入れた。

 同時に、彼女はバッグから一枚の「鏡」を取り出し、それを自分の「頭の上()」へと向けた。

「上を見てはならない。ならば……鏡を通じて、天と地を完全に反転させる!」

 背後から、溺死体たちの水の群れが、部屋の中へと流れ込んできた。常夜の水が巽の足首を包み込み、激しい冷気と、肺が圧迫されるような擬似的な窒息感が彼女を襲う。しかし、巽は意識を強く保ち、鏡に映る「逆さの空(本当の底)」を見つめた。

「逆宮の主よ、現世の光を知りなさい――!」

 巽が起爆スイッチを押した。


――閃光。


 暗黒の水底に、文字通り「太陽」が炸裂した。

 あまりの光量に、黒い池の水は一瞬で水蒸気すら残さず蒸発し、周囲を埋め尽くしていた溺死体の群れは、光に焼かれてただの水滴へと還っていく。

 そして、巽が掲げた鏡がストロボの光を真上の「()」へと反射した瞬間、空間そのものが「バリバリ」とガラスが割れるような音を立てて歪んだ。


『……ありがとう、巽。これでこの場所の神は、本当の眠りにつくわ……』


 姉の影が、光の中に溶け込んでいく。

 最後に、その影は巽に向かって、一本の『古びた鍵』を投げ渡した。それは泥の上にカランと落ちた。


『私は……次の『門』へ行くわ。東北の、血の匂いがする古い墓地……『骨噛みの地蔵』が待つ場所へ。

気をつけて、巽。私の後ろには、もう“彼ら”が迫っている……』


五 次なる澱みへ


 光が収まった時、本殿の奥には、一滴の水も残っていなかった。不凍の池は完全に干上がり、ただの窪んだ岩肌と化している。頭上から響いていた不気味な水の音も、完全に消え去っていた。

「う……うう……」

 榧野が恐る恐る目を開け、耳から手を離した。

「御子柴さん、大丈夫ですか!?」

「ええ……なんとかね」

 巽は、ストロボの残像でチカチカする目を擦りながら、泥の上に落ちていた「古びた鍵」を拾い上げた。

 その鍵の頭の部分には、小さな『烏天狗(からすてんぐ)』の意匠が施されていた。

(姉さんの影は消えた。でも、これは救出じゃない。彼女は自らの意志で、あるいは何らかの強制力によって、神域を巡らされている……)

 手帳に書かれた次の目的地は、東北地方にあるという『骨噛みの地蔵(ほねがみのじぞう)』。

そして姉が最後に口にした『彼ら』という言葉。

「御子柴さん、これ……」

 榧野が、干上がった池の底を指差した。

 そこには、泥に塗れた「人間の骨」が、無数に転がっていた。ダムができる遥か昔から、この村が神に捧げてきた生贄たちの、本物の(いけにえ)だった。

「警察に連絡して、遺体の身元確認を急がせましょう。私たちの仕事はここまでよ」

 巽は冷徹な声で言い放ち、拾い上げた鍵をポケットに収めた。

 彼女の心は、すでにここにはなかった。

 姉を縛る『門』の正体、そしてその背後に見え隠れする、烏の紋章を掲げる組織の影。

 客観性を武器にする彼女の戦いは、さらに深く、暗い禁忌の核心へと進んでいく。



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