第一話:常世の蚕(とこよのかいこ)
一 境界線上の死
「神域に足を踏み入れる人間には、二つのタイプがいます」
御子柴巽は、撥水加工された黒いトレンチコートの襟を立てながら、手元のタブレットに目を落とした。
靴底が湿った腐葉土を踏み締める音が、霧の深い山林に低く響く。
「一つは、無知ゆえに境界線を越える者。もう一つは、知っていながら『自分だけは特別だ』と過信して踏みにじる者。……あなたはどちらだと思います?」
数歩後ろを歩いていた榧野蓮は、寒さに身を震わせながら、青白い顔を上げた。
「僕なら、どちらでもないです。『気づいたら境界線の内側に引っ張り込まれていた』……。そっちのタイプですよ、御子柴さん」
巽は足を止め、振り返らずに小さく息を吐いた。
彼女の視線の先には、警察の黄色い規制線テープが痛々しく張られている。だが、地元の警察はこれ以上奥には進もうとしない。なぜなら、ここから先は法的な私有地であると同時に、地元民が数百年にわたり口にすることすら拒んできた「不入の山」――通称・蚕食山の神域だからだ。
巽の職業は『土地評価鑑識員』。しかしその実態は、大手不動産開発会社や政府機関から依頼を受け、通常の調査では解明できない『オカルト的・民俗学的リスク』を客観的に排除、あるいは隔離するためのスペシャリストだった。
今回の依頼は、この山一帯をソーラーパネル設置用に買収しようとした開発業者の社員が、連続して不審死を遂げた原因の究明。
「被害者はこれで三人目。全員、死因は『窒息死』ですが、気道に異物は詰まっていなかった。ただ……」
巽は現場の写真を画面に表示した。
「皮膚の表面が、異常なほど白く変色し、硬化していた。まるで、生きたまま何かに包まれていったかのように」
「それって、やっぱり『蚕』に関係があるんですか?」
榧野が怯えたように周囲の木々を見回す。
「この地には、かつて独自の養蚕信仰がありました。通常の『お蚕様』は絹を産む益獣ですが、ここでは違う。『常世の蚕』と呼ばれる神が祀られていた」
巽は歩みを進め、規制線の下を潜り抜けた。
「ルールその一。これより先、何があっても『糸』を口にしてはならない。衣服のほつれ糸も、蜘蛛の巣も、そして……自分自身の髪の毛すらも」
二 白い村の遺物
山道を登ること一時間。霧はさらに濃くなり、視界は数メートル先も見通せないほどになった。
突如、立ち並ぶ杉の木の合間に、朽ち果てた集落の残骸が現れた。かつて養蚕で栄え、昭和中期に一晩にして住民が消えたとされる「桑原村」の跡地だった。
家々の屋根は腐り落ち、壁は崩れているが、奇妙なことにどの家も窓や扉が『内側から板張り』にされていた。まるで、外からの侵入を防ぐためではなく、中にいる何かを外に出さないように閉じ込めたかのように。
「……御子柴さん、あれ」
榧野が一本の太い桑の木を指差した。
その枝には、無数の『白い物体』が実のようにぶら下がっていた。大きさは人間の拳ほどもある。一見すると巨大な繭のようだが、よく見るとそれは、古びた麻布や包帯のようなもので何重にもぐるぐる巻きにされた『人形』だった。
「『身代わり繭』ね」
巽は冷静に近づき、懐中電灯の光を当てた。
「村人が病気や災いから逃れるため、自分の髪や爪を人形に入れ、神に捧げたもの。でも、これは……」
巽の鋭い目が、人形の首元に巻かれた『赤い紐』を捉えた。その紐の結び目を見た瞬間、彼女のいつも冷静な瞳が微かに揺れた。
(この結び方……総角結びの変形。十年前、私の家から消えた姉さんが、よくお守りに結んでいたものと同じ……?)
巽がこの怪異調査の仕事を続けている真の目的は、十年前に神隠しに遭った姉・御子柴梓の行方を追うためだった。全国の神域を巡れば、いつか姉の痕跡に突き当たる。その確信が、今、最悪の形で現実味を帯び始めた。
「御子柴さん? どうしました?」
榧野の声で、巽は即座に表情を消した。客観性を失えば、神域のルールに囚われる。それは死を意味する。
「何でもありません。それより榧野くん、あなたの足元を見て」
「え?」
榧野が慌てて自分の足元を見ると、彼のスニーカーの靴紐に、いつの間にか「真っ白な極細の糸」が絡みついていた。それは地面の泥の中から、植物の根のように伸びてきている。
「うわあああ! 何だこれ、取れない!」
「暴れないで。言ったでしょう、糸を口にするなと。暴れて息が上がれば、空気中に浮遊している微細な糸の粒子を吸い込むことになる」
巽はポケットから特殊な有機溶剤を取り出し、榧野の足元に吹きかけた。糸はシュルシュルと音を立てて溶け、泥の中に消えていく。
「この山の神域は、すでに『活性化』している。侵入者を養分として認識している証拠です。急ぎましょう。山の中心にあるはずの『神堂』へ」
三 神域のルール
集落の最奥、ひときわ巨大な、岩山を背負うようにして建てられた社があった。
「神蚕宮」。
拝殿の扉は固く閉ざされ、注連縄の代わりに、人間の太ももほどもある巨大な「縄状の白い糸の束」が巻き付けられていた。
「ここに、開発業者の三人目が残した荷物があるはずです」
巽は拝殿の格子窓から中を覗き込んだ。中には、最新の測量機器やバックパックが散乱していた。そしてその奥――暗がりのなかに、白く巨大な「塊」が三つ、転がっていた。
「ひっ……! あれ、行方不明になってる作業員の人たちじゃ……」
榧野が息を呑む。
それは、完全に白い糸で繭のように包まれた、人間の遺体だった。表情までは見えないが、苦悶の形相で身悶えしたまま固まったことが、シルエットから容易に想像できた。
「客観的に見て、彼らはルールを破った」
巽は淡々と分析する。
「一人目は、山に落ちていた『身代わり繭』を物珍しさから持ち帰ろうとした。神の所有物を盗む行為、これは『侵奪』。二人目は、その繭をハサミで切り開いた。これは『損壊』。そして三人目は……」
巽の視線が、床に落ちている一本のペットボトルに留まった。
「喉が渇き、この山の中で水を飲んだ。その際、空気中に漂う神域の糸を、水と共に『口にした』」
「だから、内側から繭にされたってことですか……?」
「ええ。常世の蚕の信仰において、糸は『神の血管』。体内に取り込めば、内臓から順に繊維化し、最終的には皮膚を突き破って全身を包み込む。彼らは自ら進んで、神の餌になったのよ」
その時、拝殿の奥から「サササササ……」という、無数の小さな足が床を這うような音が響いてきた。
「嫌な音が聞こえます……御子柴さん、これ、中に何かいます!」
榧野が後ずさりする。彼の体質が、周囲の“異常”を感知して、全身に鳥肌を立てていた。
「静かに。音が近づいてくる」
巽は懐中電灯の光を音の方向へ向けた。
拝殿の天井から、一本の太い糸が垂れ下がってきた。その糸の先についていたのは――。
人間の、生首だった。
いや、正確には人間の頭部の形をした、巨大な「繭の塊」だ。顔の部分だけが奇妙に平らで、そこには墨で大雑把に「目」と「口」が描かれている。
その口が、不自然にパカリと開いた。
『……だれ……が……わが……いとを……つむぐ……』
「ひいいい!」
榧野が悲鳴を上げて尻もちをつく。
巽は一歩も引かず、ただ冷徹にその異形を観察していた。
「これが、この土地の『土地神』の成れの果て。祭祀を失い、ただの怪異へと零落した『常世の蚕』の神体……!」
四 解き放たれる禁忌
神体の口から、ブワリと白い霧のようなものが吹き出された。
それは霧ではない。目に見えないほど細い、無数の「絹糸の塵」だった。
「榧野くん、息を止めて!」
巽は叫ぶと同時に、自分のトレンチコートを脱ぎ捨て、榧野の頭から被せた。コートには特殊な防微粒子コーティングが施されているが、それも長くは持たない。
『……いとを……よこせ……ぬのをおくれ……我が身を満たす……生贄を……』
神体が、天井を這いながら二人に近づいてくる。その背後からは、何千、何万という本物の「白い蚕」が、床を埋め尽くすように這い出してきていた。
「御子柴さん! どうすればいいんですか! 闘うんですか!?」
「馬鹿なことを言わないで。私たちはただの人間、相手は数百年分の信仰と土地の呪いが詰まった神域そのものよ。勝てるわけがない」
巽は冷静に周囲の「ルール」を読み解こうとしていた。
(神仏の怪異には、必ず『理』がある。この神が求めているのは、新しい糸、あるいは身代わり。なぜ今になって、これほど活性化した?)
巽の脳裏に、先ほど見つけた『身代わり繭』の赤い紐がフラッシュバックした。
(あの結び目……。もし、十年前に姉さんがここに来て、何かを『残した』のだとしたら?)
彼女はバッグから、先ほど桑の木から回収してきた『身代わり繭』を取り出した。
「御子柴さん、それを使うんですか!?」
「ええ。この繭に結ばれた赤い紐……これは単なる飾りじゃない。『神域の門』を閉じるための、一種の鍵の役割を果たしている」
巽は、その赤い紐に刻まれた微細な文字に気づいた。
そこには、姉の筆跡でこう書かれていた。
――『常世の糸は、己の血をもって断て』――
「己の血……」
巽は躊躇うことなく、胸元から取り出したナイフで、自らの手のひらを深く切り裂いた。鮮血が溢れ出し、白い身代わり繭を赤く染めていく。
『……ああ……それは……尊き……血……』
神体の動きが一瞬止まった。墨で書かれた目が、巽の血に濡れた繭を凝視している。
「榧野くん、今よ! この拝殿の裏にある『御神木』の根元に、この繭を埋め込む! それがこの神域の機能を一時的に停止させる唯一の方法!」
「わ、わかりました!」
二人は這い寄る蚕の群れを飛び越え、拝殿の裏手へと走った。
そこには、雷に打たれて半分枯れた、巨大な桑の巨木が鎮座していた。その根元には、ぽっかりと暗い洞が開いている。
巽は血まみれの繭をその洞の奥深くへと押し込んだ。
「――『御子柴梓の妹、巽が命ずる。常世の蚕よ、その貪欲を収め、泥に還れ』――!」
瞬間、山全体が激しく揺動した。拝殿から響いていた不気味な足音が、悲鳴のような低い風鳴りへと変わる。
周囲を埋め尽くしていた白い蚕たちが、一斉にドロドロとした白い液体へと融け、地面へと染み込んでいった。天井からぶら下がっていた生首の神体も、糸が解けるようにして崩壊し、ただの古い麻布へと戻っていった。
霧が、急速に晴れていく。
五 客観の終わり、そして……
「……終わった、んですか?」
榧野がコートの中から顔を出し、荒い息を吐きながら辺りを見回した。
先ほどまでの圧倒的な恐怖が嘘のように、静かな山林の風景が戻っていた。鳥のさえずりさえ聞こえる。
「ええ。神域の『活動期』はこれで収まったわ。開発業者には、この山は『地質学的・環境保護の観点から開発不可能』として報告書を出す。これで誰もここには近づかない」
巽は衣服の汚れを払い、傷ついた手のひらに包帯を巻きながら、冷徹な「客観側」の顔に戻っていた。
しかし、彼女の視線は、先ほど繭を埋め込んだ御神木の洞の奥に釘付けになっていた。
そこには、血に染まった繭のさらに奥に、もう一つの「遺物」が隠されていたのだ。
それは、古びた『革製のシステム手帳』だった。
巽はそれを拾い上げ、ページをめくった。
泥と経年劣化でボロボロになっていたが、そこには間違いなく、姉・梓の文字で、全国の「神域」の座標と、不気味なスケッチが多数書き残されていた。
そして、その最後のページには、こう記されていた。
『巽へ。
もしあなたがこれを読んでいるなら、私はもう人間ではなくなっているでしょう。
私は“彼ら”に選ばれ、次の『門』へと向かいます。
次は……九州の、あの『水底の逆宮』で会いましょう。
追ってきてはだめ。でも、あなたなら、きっと来てしまうわね』
「御子柴さん? 何かあったんですか?」
榧野が覗き込もうとする。巽は素早く手帳をコートの内ポケットに隠し、いつもの冷徹な微笑を浮かべた。
「いいえ、何でもないわ。ただの、前の調査員の遺留品よ」
彼女の目は、すでにこの山を越え、次なる『異常な神域』へと向けられていた。
姉が生きているのか、それとも怪異そのものになってしまったのか。それを確かめるための、彼女の客観的な戦いは、まだ始まったばかりだった。




