083 白い線路は、国境線で止まりませんわ
北西へ向かう景色は、思ったより静かだった。
王都の街道のように馬車が並ぶわけでもなく、宿場町が次々に見えるわけでもない。
冬枯れの草地が続き、その向こうに低い丘が重なっている。
ところどころに、葉を落とした木が立っていた。
白銀列車は、その間をゆっくり進んでいく。
私が窓の外へ視線を向けると、草地の先に細い白い線が伸びた。
土の上に置かれたものではない。
雪でも、石でも、木でもない。
私の魔導で生まれた、白銀列車のための線路。
白い線は、丘の形に合わせて緩く曲がり、草を踏みつぶすことなく、その上をすっと通っていく。
ノアは地図と窓の外を交互に見ていた。
「傾斜は問題なさそうです。もう少し先で風向きが変わりますけど、車体にはほとんど影響しないと思います」
「では、このまま進めますわね」
「はい。ティアさんが今の調子で線路を伸ばすなら、揺れも少ないです」
「今の調子」
「かなり良いです」
「それは、たいへんよい報告ですわ」
私は指先を窓辺に置いた。
白い線路が、また少し先へ伸びる。
アベルは食堂車から顔を出し、窓の外を見た。
「何もないな」
「何もない場所にも、朝食はあるかもしれませんわ」
「まだ朝食の話をしてるのか」
「国が変わるのですもの。食文化は重要ですわ」
「それは否定しない」
アベルは真面目な顔で頷いた。
ルークはラウンジの扉近くに立っている。
いつもより、少しだけ周囲を見る目が鋭い。
「お嬢様。この先から王国の監視はかなり薄くなります」
「王都の目が届きにくいということですわね」
「はい。こちらにとっては利点でもありますが、同時に、道案内や救援を期待しにくい場所でもあります」
「つまり、頼れるのは白銀列車ですわね」
「そして、我々です」
「ええ」
私は窓の外を見た。
草地。
丘。
細い白い線路。
どれも、王都の屋敷にはなかったものだ。
王都にいた頃、国境という言葉はもっと硬いものだと思っていた。
分厚い門。
槍を持った兵士。
許可証を調べる役人。
王国の外へ出る者を問いただす声。
けれど、実際に近づいてみると、そこにあったのは低い石だった。
草に半分埋もれた境界杭。
古くなった王国の紋章。
隣の石には、聞いたことのない国の印が浅く刻まれている。
それだけだった。
「……あれが、国境ですの?」
私は思わず尋ねた。
ノアが地図を見て頷く。
「この辺りのはずです。正確な線は、あの境界杭をつないだあたりですね」
「門は?」
「ここにはありません」
「兵士は?」
「見当たりません」
「手続きは?」
「少なくとも、この場所にはないです」
私はしばらく、草に埋もれた石を見た。
王都があれほど大きな顔をしていた国境は、目の前では、冬草に少し隠れている。
誰かが磨いているわけでもない。
花が飾られているわけでもない。
ただ、ここから先は別の国だと、古い石が小さく言っているだけだ。
「思っていたより、地味ですわ」
「国境に失礼だぞ」
アベルが言った。
「でも、本当に地味ですもの」
「まあ、派手な国境って何だって話だが」
ノアが少し考えてから言う。
「王都の書類の中では、もっと大きいものなんでしょうね」
「書類の中では、何でも大きくなりますわ」
私は銀の盆に置かれていた帰還許可証を思い出した。
王国重要魔導資産。
国外移動は許可制。
運行記録。
滞在地。
乗車者。
紙の上では、白銀列車はもう王都のものになったつもりだったのだろう。
けれど、現実には違う。
白銀列車は、ここにいる。
王都ではなく、冬草の向こうにいる。
私は窓に近づいた。
境界杭の前で、白い線路が一度、静かに細くなる。
止まったわけではない。
私が、少しだけ息を整えただけだ。
国境を越える。
そう思うと、ほんの少しだけ手元が慎重になる。
怖いというほどではない。
けれど、知らない場所へ最初の線を伸ばすのは、やはり少し特別だった。
「お嬢様」
ルークが声をかけた。
「はい」
「お望みであれば、一度ここで停まります」
私は境界杭を見た。
古い石。
冬草。
丘の向こう。
まだ見えない隣国の森。
停まる理由は、あるかもしれない。
考える時間。
確認する時間。
王都からの返事を待つ時間。
けれど、それは全部、王都の都合だ。
「いいえ」
私は首を横に振った。
「白銀列車は、ここで誰かの許可を待つために止まる列車ではありませんわ」
指先を動かす。
細い白い光が、境界杭の横を通った。
王国の石にも、隣国の石にも触れず、その間を静かに抜けていく。
白い線路は、国境線で止まらなかった。
白銀列車が、ゆっくり進む。
窓の外で、王国の境界杭が横へ流れた。
一つ。
二つ。
三つ。
最後の石が後ろへ消えた時、私は思っていたより小さな声で言った。
「越えましたわね」
「はい」
ルークが答えた。
「国境を越えました」
何かが鳴るわけではない。
空の色が急に変わるわけでもない。
車内の暖かさも、ソファの柔らかさも、紅茶の香りも変わらない。
けれど、窓の外に広がる丘の色は、少しだけ違って見えた。
王国側の草地より、木の間隔が広い。
低い枝に、淡い銀色の実がついている。
遠くに見える森は、黒ではなく、青みを帯びた緑だった。
「こちらの森、色が少し違いますわね」
ノアがすぐにメモを取る。
「土壌が違うのかもしれません。魔力の流れも、王国内とは少し違います」
「白銀列車に影響は?」
「今のところありません。むしろ、空気の流れは安定しています」
「たいへんよろしいですわ」
アベルは窓の外を見ながら、別のことを考えている顔をしていた。
「実があるな」
「見ましたわ」
「食えると思うか?」
「まずそこですの?」
「国が変わったら、食い物も変わるだろ」
「やはり重要ですわね」
ルークが静かに止めた。
「毒見を済ませるまでは、採取禁止です」
「分かってる」
「アベル様は、分かっていても手が伸びることがあります」
「信用がないな」
「経験です」
私は少し笑った。
国境を越えても、車内の会話は変わらない。
アベルは食材を見ている。
ノアは地形と魔力を見ている。
ルークは安全を見ている。
私は、その全部を乗せた白銀列車の線路を伸ばしている。
王都の屋敷へ戻れば、また誰かが私の名前を決める。
令嬢。
元婚約者。
再審理の対象。
けれど、この列車の中では違う。
白い線路を伸ばす人。
白銀列車で暮らす人。
朝食を温かいうちに食べたい人。
今は、それで十分だった。
「ノア」
「はい」
「この先に、町はありますの?」
「地図では、森を抜けたあたりに小さな集落があるはずです。ただ、王国側の地図なので、名前も規模も当てになりません」
「たいへん楽しみですわね」
「不確定要素を楽しみにできるの、すごいですね」
「白銀列車がありますもの」
私は窓の外へ視線を戻した。
「寒ければ毛布があります。雨なら窓辺があります。お腹が空けば食堂車があります。夜になれば琥珀ランプがありますわ」
ノアは少しだけ笑った。
「それだけ揃っていれば、たしかに強いです」
「でしょう?」
ルークが静かに言った。
「お嬢様。ここで引き返されますか」
私は境界杭が消えた方を見た。
もう見えない。
王国と隣国を分ける石は、窓の後ろに流れていった。
こちら側に残っているのは、白い線路と、まだ知らない森だけだ。
「いいえ」
私は答えた。
「朝食を冷ます書状のために、引き返すつもりはありませんわ」
「承知いたしました」
ルークはいつものように頭を下げた。
けれど、その横顔は、少しだけ穏やかだった。
アベルが食堂車へ戻る。
「なら、昼は少し早めにするか」
「なぜですの?」
「知らない国で腹が減ると、判断が雑になる」
「それは困りますわね」
「だろ」
「では、昼食は大切ですわ」
「ずっと大切だ」
ノアが地図の余白に、新しい線を描いた。
王国の地図にはなかった線。
白銀列車が、今作っている進路。
王都の許可証には書かれていない、私たちの行き先。
私は窓辺に手を置き、白い線路をさらに先へ伸ばした。
森の手前で、風が少し変わる。
知らない葉の匂いが、ほんの少しだけ車窓の向こうに混じった。
白銀列車は、その匂いの方へ進んでいく。
国境を越えるのは、もっと大げさなことだと思っていた。
でも実際には、白い線路を少しだけ先へ伸ばすだけだった。
それで十分だった。
私の家は、止まらなかった。




