082 戻れると言われましても、欲しいものはもうありますわ
朝食は、きちんと温め直された。
アベルが出し直したパンは、さっきより少しだけ表面が香ばしい。
薄く塗られたバターは、また柔らかくなっている。
紅茶も新しく淹れ直され、王都の書状で冷えた朝を、ようやく食堂車らしい温度へ戻してくれた。
「やはり、朝食は温かいうちに食べるべきですわね」
「王都の紙よりは大事だな」
アベルが当然のように言った。
私は頷いた。
「比べるまでもありませんわ」
銀の盆の上には、帰還許可証と、細かい条件が書かれた別紙が置かれている。
立派な紙。
立派な封蝋。
立派な文面。
けれど、その横にある焼きたてのパンの方が、今の私にはずっと正しく見えた。
王都の使者は、まだ外で待っている。
街道脇の低い屋根の下で、外套の襟を押さえながら、白銀列車の窓を見ていた。
こちらが返答を考えていると思っているのだろう。
間違ってはいない。
ただし、王都が望む返答にはならない。
「お嬢様」
ルークが静かに言った。
「返書を用意いたしましょうか」
「ええ。でも、その前に少し歩きますわ」
「車内を、ですか?」
「はい」
私は椅子から立ち上がった。
外へ出る必要はない。
王都へ戻るかどうかを考えるなら、王都の使者を見るより、白銀列車の中を見た方がよい。
ここが、今の私の暮らしなのだから。
食堂車を出ると、廊下はいつも通り静かだった。
床は冷えていない。
窓の外には冬枯れの草地が広がっているけれど、車内の空気は柔らかい。
最初に目に入ったのは、棚に置かれたパン籠だった。
麦町で選んだ、丸パン用の籠。
内側には麦色の布が敷かれていて、朝食のパンを入れると、それだけで旅支度のように見える。
あの町では、石窯の前で並んだ。
焼きたての匂いに負けそうになりながら、アベルが真剣に小麦を見ていた。
「これは、もう毎朝使っていますわね」
「パンを入れるものだからな」
後ろからアベルが答えた。
なぜか当然のようについてきている。
「厨房に戻らなくてよろしいの?」
「王都の返事より、こっちの方が面白い」
「それはそうですわね」
次にラウンジへ入る。
右ソファには、冬支度の市場で選んだ灰緑の毛布が掛けられていた。
重すぎず、軽すぎず、膝に置くと眠気まで連れてくる毛布。
最初はただの買い物だったはずなのに、今ではもう、そこにないと少し落ち着かない。
その横には、ルミエラで持ち帰った琥珀ランプがある。
朝なので、灯りは眠っている。
けれど、そこにあるだけで、夜の準備ができているように見えた。
「これも、王都の屋敷にはありませんわ」
「持っていけばよろしいのでは?」
ルークが言った。
私は首を横に振った。
「物だけを持っていっても、同じにはなりませんわ」
毛布も。
ランプも。
パン籠も。
それぞれは物だ。
けれど、白銀列車の中にあるから、今の暮らしになっている。
王都の屋敷に灰緑の毛布を置いても、そこには朝五時の予定表がある。
琥珀ランプを灯しても、扉の向こうには礼儀作法の教師がいる。
パン籠に丸パンを入れても、食べる前に姿勢を直される。
それは、違う。
「王都へ戻れば、物はもっと増えるでしょうね」
私は言った。
「屋敷も、部屋も、衣装も、使用人も。けれど、欲しいものが増えるとは限りませんわ」
ルークは静かに目を伏せた。
「お嬢様に必要なものは、ここにあります」
「ええ」
私は右ソファの背に指を置いた。
「少なくとも、昼寝には困りませんわ」
「それは最重要ですね」
ノアが真面目な顔で言ったので、私は少し笑った。
ラウンジの棚には、港町で選んだ分厚いガラス器が置かれている。
夜間停車駅で買った眠り草茶の缶もある。
高原の風干しシーツは、寝台車の奥で今日も草の匂いを少しだけ残している。
ひとつずつ思い出そうとすると、思い出ではなく、今の生活の場所として浮かんでくる。
この国で見つけたものは、もう白銀列車の中にある。
「戻れると言われましても」
私は、ラウンジの窓から外を見た。
冬枯れの草地の先に、王都の黒い馬車が小さく見える。
馬車は動かない。
使者も待っている。
けれど、白銀列車の中はもう次の場所へ向かう話をしている。
「この国で欲しかったものは、だいたい見つけましたわ」
アベルが短く笑った。
「雑なまとめだな」
「でも、本当でしょう?」
「まあな。食ったものも増えた」
「持ち帰ったものも増えましたわ」
ノアが地図を抱え直した。
「王国の外側は、今の地図だと本当に情報が少ないです。町の場所も、食材も、気候も、魔力の流れも、ほとんど推測になります」
「つまり、行ってみないと分からないのですわね」
「はい」
「たいへんよろしいですわ」
「よろしいんですか?」
「次は、分からない場所を見てみたいですわ」
ノアは一瞬だけ困った顔をした。
けれど、すぐに地図の余白へ視線を戻す。
「では、外側の地形を見ます。白い線路を伸ばすなら、傾斜と魔力の流れが重要です。あと、白銀列車が気持ちよく走れる進路を選びます」
「お願いしますわ。線路は、私が伸ばしますわ」
「そこは疑っていません」
私は地図の余白へ視線を戻した。
ノアはもう、私が止まる前提では話していない。
白銀列車が走る前提で、その先を見ている。
王都の紙は、白銀列車を登録しようとした。
記録しようとした。
許可制にしようとした。
でも、ノアは違う。
止めるためではなく、気持ちよく走るために考えている。
私は銀の盆のところへ戻った。
帰還許可証は、まだそこにある。
朝食が終わっても、偉そうな顔は変わっていない。
「返書を書きますわ」
ルークがすぐに便箋を用意した。
白銀列車の中で使う、厚すぎず、書きやすい紙だ。
王都の羊皮紙ほど重くない。
けれど、私にはこちらの方がよほど上等に思えた。
私はペンを取った。
「長く書かれますか?」
ルークが尋ねる。
「いいえ。短くしますわ」
「よろしいのですか」
「長く書くと、また返事が来ますわ」
アベルが笑った。
「正しい」
私は便箋に、ゆっくり文字を書いた。
帰還はいたしません。
白銀列車は、私の家です。
しばらく国外を見て参りますわ。
書いてみると、思ったより短かった。
けれど、それで十分だった。
王都へ戻らない理由を長々と説明する必要はない。
白銀列車を王都に渡さない理由を、細かく並べる必要もない。
私の家です。
それだけで、本当は全部足りている。
「短いな」
アベルが言った。
「ええ」
「向こう、怒るぞ」
「怒るでしょうね」
「いいのか」
「朝食を冷ましたのは向こうですわ」
「それは怒られても仕方ないな」
私は封をした。
王都の赤い封蝋ではない。
白銀列車で使っている、白い封蝋だ。
小さな列車の印が、紙の端に押される。
ルークがそれを受け取った。
「お渡ししてまいります」
「お願いしますわ」
ルークは外へ出ていった。
窓の向こうで、王都の使者が背筋を伸ばすのが見えた。
彼は、私が長い謝罪か、帰還の承諾を書いたと思っているのかもしれない。
ルークが封書を渡す。
使者が受け取る。
宛名と封蝋を確かめたところで、白い列車の印に気づき、一瞬だけ動きを止めた。
私は窓から顔を離した。
「ノア」
「はい」
「地図の外側は、どちらがよさそうですの?」
ノアはすでに紙の余白へ、薄い線をいくつも引いていた。
「北西へ行くと、丘陵の先に森があります。南西は湿地が多そうです。どちらも未確認ですが、北西の方が白銀列車には走りやすいと思います」
「森」
「はい。隣国側の名前は、まだ正確には分かりません」
「知らない森」
私は少し考えた。
知らない森。
知らない町。
知らない朝食。
悪くない。
「では、北西へ」
「分かりました」
ノアが地図へ印をつける。
アベルは食堂車へ戻りながら言った。
「知らない国なら、知らない飯もあるだろうな」
「それは期待できますわね」
「期待しすぎるなよ」
「無理ですわ」
ルークが戻ってきた。
外の使者は、封書を握ったまま、まだこちらを見ている。
「返書は渡しました」
「何か言っていました?」
「王都へ確認を取る、と」
「そうですか」
私は紅茶を飲んだ。
今度は、まだ温かかった。
「では、確認が終わる前に進みましょう」
ルークの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「承知いたしました」
私は窓の外へ視線を向けた。
冬枯れの草地の先に、細い白い光が伸びる。
王都の馬車へ戻る道ではなく、北西の丘陵へ向かう線。
白銀列車が、ゆっくり動き始めた。
王都の馬車が後ろへ流れていく。
街道脇の広場も、低い屋根も、白い息を吐く馬も、窓の外で小さくなる。
王都から届いた紙は、私を王都へ戻そうとした。
けれど、白銀列車の中を一度歩けば、答えは簡単だった。
戻れると言われても、今さら困る。
私の帰る場所は、もうここにある。




