081 王都から、帰還許可証が届きましたわ
霧の運河町を出てから、白銀列車の朝は少しだけ静かになった。
琥珀ランプは、右ソファの横で眠っている。夜になれば、あの柔らかい灯りがまた起きる。けれど朝の光の中では、ただの綺麗な硝子のように、おとなしく丸くなっていた。
私はその横で、温かい紅茶を飲んでいた。窓の外には、薄い霧がまだ残っている。
運河町の濡れた石畳は、もう見えない。代わりに、冬枯れの草地と、遠くの林がゆっくり流れていた。
テーブルの上には、昨夜の透け飴が入った小さな箱がある。
黒い紙箱を開けると、琥珀色と薄桃色の飴が、朝の光を少しだけ抱えていた。
「夜に見た時とは、また違いますわね」
「朝は朝で、悪くないな」
アベルが食堂車から顔を出した。
手には、焼きたての薄いパンが入った籠を持っている。
「甘いもんばっかり眺めてないで、先に食え」
「眺める時間も、味の一部ですわ」
「腹には入らない」
「心には入りますわ」
「心で朝食を済ませるな」
私はパンを一つ取った。
薄く塗られたバターが、まだ表面で柔らかい。
白銀列車の朝食は、旅先を出たあとでもきちんと温かい。
それだけで、今日もだいたい勝っている。
ルークは窓際で外を見ていた。
朝の見張りというより、列車の周囲に不自然なものがないか確かめている顔だ。
ノアは別のテーブルで、地図を広げていた。
指先で王国の北西あたりを追いながら、時々何かを書き込んでいる。
「次は、どちらへ向かっていますの?」
「まだ確定ではありません。今のまま進むなら、北西の丘陵地帯へ抜けます。町は少なめですね」
「町が少ない」
「はい。大きな名産は期待しにくいですが、街道沿いの焼き菓子くらいはあるかもしれません」
「焼き菓子」
私はパンを持ったまま、少し考えた。
焼き菓子はよい。
たいへんよい。
ただ、朝食の最中に次の焼き菓子を考えると、ルークが少し心配そうな顔をする。
「お嬢様、昼食前に甘いものを予定へ入れすぎないようお願いいたします」
「予定に入れているだけですわ。まだ食べてはおりません」
「予定に入った時点で、八割ほど実行されます」
「信頼が厚いですわね」
「経験です」
その時、白銀列車がわずかに速度を落とした。揺れはない。けれど、車窓の流れがゆっくりになる。
外の林の向こうに、小さな街道脇の広場が見えてきた。
石造りの古い水場。凍った水桶。荷馬車を休ませるための低い屋根。白い息を吐く馬。
そして、王都の紋章が入った黒い馬車。
ルークの目が、すぐに細くなった。
「お嬢様。王都の使いです」
私はパンを皿に戻した。
「朝食中にですの?」
「はい」
「王都の方々は、昔から朝の時間を大切にしませんわね」
王妃教育もそうだった。
朝五時から始まる礼儀作法。朝食前の発声練習。朝食後の笑顔の訓練。
私の眠気など、王都では誰も予定に入れてくれなかった。
白銀列車が、街道脇の広場から少し離れた場所で静かに止まる。
すぐに車内の扉が開くことはない。
白銀列車の居住区は、外から勝手に入れる場所ではない。
ルークがまず外へ出て、相手を確認する。
それが、この列車の決まりだった。
「私が対応いたします」
「お願いしますわ」
ルークは黒い外套を整え、音を立てずに出ていった。
私は窓から外を見る。
王都の使者らしき男が、分厚い外套を着て、低い屋根の下に立っていた。
手には長い筒を持っている。
筒には、赤い封蝋と金の紐がついていた。
ノアが地図を畳んだ。
「正式な書状ですね」
「正式なものほど、面倒なことが書いてありますわ」
「否定できません」
アベルはパン籠を置いたまま、厨房へ戻らなかった。
腕を組んで、窓の方を見ている。
「飯が冷める前に終わる話か?」
「王都の書状ですもの。冷めますわね」
「最悪だな」
「ええ。朝食に向いておりませんわ」
しばらくして、ルークが戻ってきた。
使者は外に残っている。車内へ入れなかったようだ。
たいへん正しい判断ですわ。
ルークの手には、封蝋のついた筒がある。
彼はそれを直接テーブルには置かず、銀の盆の上に乗せた。
「王都より、正式な通達です」
「使者の方は?」
「街道脇の屋根の下に控えさせました。車内へ入る許可は出しておりません」
「よろしいですわ」
私は銀の盆の上の筒を見た。
王都の封蝋。金の紐。綺麗に整った筆跡。紙の端まできちんと揃えられた、偉そうな気配。
紙というものは不思議だ。
薄いのに、時々とても重い顔をする。
「開けますわ」
ルークが小さな封切りを差し出した。
私は封蝋を割る。
ぱきり、と乾いた音がした。
中から出てきたのは、一枚ではなかった。
厚い羊皮紙が数枚。
それから、細かな文字で書かれた別紙。
最後に、王都の紋章が入った小さな許可証。
私は一番上の紙を広げた。
最初の文章は、やけに丁寧だった。
婚約破棄手続きについて、王宮内で再確認が行われたこと。
追放処分について、手続き上の不備が認められたこと。
私の身分と屋敷について、再審理の対象となること。
王都への帰還が、特別に認められること。
特別に。
その言葉を見て、私は紅茶のカップを持ち直した。
「まあ」
「何と?」
「私、王都へ戻ってよいそうですわ」
アベルが眉をひそめた。
「よい?」
「ええ。許可が出ましたの」
「追い出したのは向こうだろ」
「そのように記憶しておりますわ」
「戻っていい、じゃないだろ」
「王都では、追い出した相手に戻ってよいと言う時も、上から紙を出すようですわ」
ノアが別紙を覗き込んだ。
彼は一枚目ではなく、細かな条件が書かれた紙を手に取る。
「ティアさん。こちらも読んだ方がいいです」
「面倒そうですわね」
「面倒です」
その言い方が、少し硬かった。
私は別紙を受け取った。
文字は細かい。
王都の官吏が好む、息の詰まるような文体だった。
なるべく一文を長くして、読む人間の気力を削ろうとしている。
昔の私なら、こういう文章を朝から読まされても、表情を変えずにいなければならなかった。
今は違う。
「ノア、読みにくいですわ」
「要点だけ言います」
「お願いしますわ」
ノアは、紙の下の方を指さした。
「帰還後、身分は再審理。屋敷と財産も一部返還の可能性あり」
そこで一度、ノアは紙を持ち替えた。
「ただし、白銀列車は王国重要魔導資産として登録。運行記録、滞在地、乗車者、積載物、魔導炉の構造を王都へ提出。国外移動は王都の許可制」
私は紅茶を一口飲んだ。少し冷めていた。
「もう一度、最後のところをお願いしますわ」
ノアは紙を持ったまま、はっきり言った。
「白銀列車は、王国重要魔導資産として登録されるものとする」
車内が静かになった。
暖炉の小さな音が聞こえる。
食堂車から、焼いたパンの匂いがまだ来ている。
琥珀ランプは、右ソファの横で静かに眠っている。
その全部を、王都は一行でまとめた。
王国重要魔導資産。
私は紙を見た。
「つまり」
「はい」
ノアは、もう一枚の紙を広げた。
「ティアさんを戻すというより、白銀列車を王都の管理下に置く内容です。身分回復は餌ですね」
「餌」
アベルが低く言った。
「ずいぶんまずそうな餌だな」
「ええ」
私は頷いた。
「王都らしい味ですわ」
ルークは黙っていた。
けれど、その黙り方で分かる。
今すぐ外の使者を冬の街道へ置いてきたい顔だ。
「ルーク」
「はい」
「まだ斬らなくてよろしいですわ」
「承知しております」
「本当に?」
「お嬢様の許可なく、王都の使者を斬ることはいたしません」
「許可があれば?」
「必要であれば」
「必要ありませんわ。朝食中ですもの」
ルークは一拍置いて、頭を下げた。
「失礼いたしました」
私は別紙をもう一度見た。
運行記録。
滞在地。
乗車者。
積載物。
魔導炉の構造。
国外移動の許可制。
王都は、まだ分かっていない。
白銀列車は、王都へ提出する設備ではない。
旅先の品を積んだ倉庫でもない。
魔導炉を調べるための発明品でもない。
ここは、私の朝食が冷める場所ではない。
私が安心して眠る場所だ。
「帰還許可証、ですのね」
私は小さな許可証を指で持ち上げた。
厚い紙。立派な印。王都の紋章。私の名前。
そして、王都への帰還を認めるという文言。
「まだ私に、許可を出すおつもりなのですわ」
誰もすぐには答えなかった。
アベルがパン籠から一つ取り、私の皿に戻した。
「食え。紙で腹は膨れない」
「そうですわね」
私はパンをちぎった。
温かい。
外の街道脇は寒そうなのに、パンはきちんと温かい。
この温かさを、王都の紙は何も分かっていない。
ルークが静かに言った。
「お嬢様。王都へ戻られる必要はありません」
「ええ」
「どこへ向かわれるとしても、お供いたします」
「分かっていますわ」
ノアが書状を見ながら続ける。
「この条件を受けると、白銀列車の自由な運行はかなり制限されます。立ち寄るたびに許可が必要になる可能性がありますし、車両の改造にも届出がいるかもしれません」
「まあ」
「琥珀ランプの位置を変えるだけでも、記録しろと言われるかもしれません」
「それは困りますわ」
私は本気で言った。
夜の灯りの位置など、その日の気分で少し変えたい。
毛布の場所も、パン籠の置き方も、窓辺の茶器も、誰かの許可を待つようなものではない。
アベルが顔をしかめた。
「厨房も見せろとか言うのか」
「条件次第では」
ノアが答えると、アベルははっきり嫌そうな顔をした。
「論外だ」
「私もそう思いますわ」
「鍋の位置まで口を出されたら、飯が死ぬ」
「たいへん重大ですわね」
「重大だ」
その時、窓の外で王都の使者がこちらを見た。
低い屋根の下に立ち、寒そうに外套の襟を押さえている。
彼は、私たちが書状を読んで感激していると思っているのだろうか。
王都へ戻れる。
身分が戻る。
屋敷が戻る。
だから喜ぶはずだ、と。
私は窓越しに、その姿を見た。
王都の人間は、いつも王都を中心に考える。
戻れることを褒美だと思う。
認められることを救いだと思う。
許可されることを、幸せだと思う。
昔の私は、それを疑うこともできなかった。
でも、今は違う。
私はもう、温泉街で湯上がり牛乳を飲み、雨の停留所で雨音を聞き、港町で冷たいスープをすすった。
夜間停車駅の眠り草茶も、麦町の丸パンも、高原の風干しシーツも、冬支度の市場の灰緑の毛布も、霧の運河町の琥珀ランプも、ぜんぶ白銀列車に持ち帰った。
その全部が、ここにある。
王都の屋敷には戻れるかもしれない。
けれど、そこにはこの窓も、この暖炉も、この食堂車もない。
ルークが整える外套も、アベルの焼くパンも、ノアが考える空気の流れもない。
あるのは、朝五時の予定表と、硬い椅子と、笑顔の訓練だ。
「王都へ戻れば、屋敷が返るそうですわ」
私は言った。
「必要であれば、別の屋敷を用意いたします」
「いりませんわ」
アベルが言う。
「屋敷の厨房がどれだけ立派でも、走らないだろ」
「そうですわね」
ノアが紙を畳みながら言った。
「王都の屋敷は、この国の外へは行けませんしね」
私は顔を上げた。
「この国の外」
ノアは、先ほど畳んだ地図をもう一度開いた。
今度は王国の端まで広げる。
北西の丘陵。
その先に、紙の余白があった。
「王国の外は、地図が粗いです。こちらでは細かい道も町も分かりません」
「分からないのですか」
「はい」
「まあ」
私は、その余白を見た。
王都の地図は、王国の中だけを細かく描いている。町の名前、街道、領地、境界、税の区分、誰がどこを治めているか。
けれど、その外は急に雑になる。
山らしい線と、森らしい緑と、いくつかの聞いたことのない地名だけ。
王都にとって大切なのは、王都から見える範囲だけなのだろう。
「つまり、知らない朝食があるかもしれないということですわね」
ノアは少しだけ瞬いた。
「そこですか」
「大切ですわ」
「否定はしません」
私は、地図の余白を指でなぞった。
王都の地図が描くのは、この国の中だけ。
でも、白銀列車は王都の地図に描かれた道を走っているわけではない。
私が敷く。
白銀列車が進む。
必要な場所に、白い線路は伸びる。
「この国の外にも、線路は伸ばせますわ」
私が言うと、ノアの顔が少し技師の顔になった。
「はい。ティアさんの魔導なら可能です。僕は、その先の地形と魔力の流れを見ます」
「問題はありますの?」
「知らない土地です。地形も、気候も、魔力の流れも、食材も、行ってみないと分かりません」
「まあ」
私は思わず笑った。
「旅行らしくなってきましたわね」
ルークが静かにこちらを見る。
「お嬢様」
「はい」
「国外へ出る場合、王都からの干渉は増える可能性があります」
「そうでしょうね」
「危険もあります」
「あるでしょうね」
「それでも、行かれますか」
私は、銀の盆に置かれた帰還許可証を見た。
王都へ戻ってよい。
ただし、白銀列車は登録。
国外移動は許可制。
運行記録を提出。
構造を報告。
なんて分かりやすいのだろう。
「王都は、私を帰したいのではありませんわね」
私は許可証を盆へ戻した。
「白銀列車を、王都へ持ち帰りたいのですわ」
アベルが短く笑った。
「持てると思ってるのか」
「紙には、そう書いてありますわ」
「紙は重いものを知らないからな」
ルークが窓の外の使者を見たまま言った。
「返答はいかがなさいますか」
私はパンをもう一口食べた。
温かい。
バターが溶けている。
紙よりずっと正直な味がする。
「すぐには返しませんわ」
「よろしいのですか」
「ええ。朝食が先です」
アベルが満足そうに頷いた。
「正しい」
「それに」
私は地図の端を指で押さえた。
王国の外。
細かく描かれていない場所。
王都の紙が、急に自信をなくす余白。
「考えることができましたわ」
ノアが私を見る。
「国外ですか?」
「ええ」
私は紅茶を飲み直した。少し冷めていたけれど、まだ飲める。
王都の書状で冷えた朝を、白銀列車の紅茶がぎりぎり支えてくれている。
「この国は、だいたい見ましたわ」
ルークがわずかに目を細めた。
アベルがパン籠を持ち直した。
ノアの指が、地図の余白の上で止まる。
「温泉も、雨も、港も、夜市も、麦町も、高原も、冬支度の市場も、霧の運河町も。ぜんぶ白銀列車に持ち帰りましたわ」
私は窓の外を見た。
王都の使者は、まだ待っている。
自分たちの紙が、私を王都へ向かわせると思っている。
残念ですわね。
王都の紙は、私に帰る場所を思い出させた。
そして同時に、この国の外にも行けることを教えてくれた。
「ノア」
「はい」
「地図の外側を見てくださいませ。線路は、私が伸ばしますわ」
ノアは、ほんの少しだけ笑った。
「分かりました。では僕は、白銀列車が気持ちよく走れる進路を探します」
「お願いしますわ」
私は銀の盆の上の許可証を見た。
帰還許可証。
私を王都へ帰すための紙。
白銀列車を王都へ戻すための紙。
そして、私に別の国へ行く理由をくれた紙。
「ルーク」
「はい」
「使者の方には、待っていただいて」
「承知いたしました」
「アベル」
「何だ」
「朝食を温め直してくださいな。王都のせいで、少し冷めましたわ」
アベルは、にやりと笑った。
「それが一番許せないな」
「ええ」
私は椅子に座り直した。
「王都へ戻るかどうかは、温かい朝食をいただいてから考えますわ」
もちろん、もう答えは出ていた。




