080 【閑話】 灯り番の少年は、白い列車の窓を忘れない
白銀列車は、霧の運河町ルミエラを出発しました。
けれど、その窓の灯りを見ていた少年が一人いました。
これは、町に残った灯り番の少年の話です。
白い列車がいなくなった夕方、リオは橋の灯りをいつもより長く磨いていた。
布で硝子を拭く。
曇りを取る。
灯り皿の煤を落とす。
細い金具を指で確かめる。
やることは、昨日までと同じだった。
けれど、運河沿いの線路の向こうには、もう白銀列車がいない。
昼前、あの白い列車は汽笛を鳴らして、霧の中からゆっくり出ていった。
橋の灯りを拭いていたリオは、布を持ったまま手を振った。
窓の向こうから、あの綺麗な人も手を振り返してくれた。
夜になったら、またあの灯りは点くのか。
そう聞いたら、彼女は言った。
夜になったら起きますわ、と。
列車なのに。
動いていくのに。
場所が変わるのに。
それでも、あの灯りは帰る場所で点くらしい。
「やっぱり変だよなあ」
リオは小さく呟いた。
ルミエラの灯りは、町に根を下ろしている。
橋の欄干。
店の軒先。
運河沿いの案内板。
宿の入口。
夜茶の屋台。
透け飴の屋台。
それぞれ、そこにあるから意味がある。
親方はいつも、橋の灯りは足元を見せろ、店の灯りは品物を見せろ、宿の灯りは入口を迷わせるな、と言っていた。
灯りには役目がある。
火をつければいいわけではない。
強すぎても駄目。
暗すぎても駄目。
水面に映りすぎると足元を間違えるし、低すぎると荷車の影で消える。
色硝子は綺麗だが、濃すぎると人の顔が変になる。
リオはそれを、何度も教わってきた。
けれど、あの白い列車の窓の灯りは、そのどれとも少し違っていた。
人を呼ぶために、外へ向かって光っている感じではなかった。
店の品物をよく見せるためでもない。
道を示すためでもない。
霧の中に停まっていた白い列車。
その窓は、外の誰かへ「来い」と言っていなかった。
中に戻ってくる誰かを、待っているように見えた。
「家の灯りだからですわ」
あの人は、そう言った。
列車なのに、家。
動くのに、帰る場所。
やっぱり変だ。
でも、リオはその変さが少し好きだった。
「リオ、そこはもう十分だろう。磨きすぎると日が暮れるぞ」
背後から声がした。
灯り番の親方である。
親方は、濡れた灰色の帽子をかぶり、太い指で灯り棒を担いでいた。
白い髭には、霧の水気が少しついている。
若い頃からルミエラの灯りを見てきた人で、どの橋の灯りが風に弱いか、どの屋台の灯り皿が傾きやすいか、全部覚えている。
「この橋、少し曇ってたから」
リオは答えた。
「霧の町で硝子が曇るのは当たり前だ」
「でも、曇りすぎると光がぼやける」
「ぼやけすぎるとな」
親方はリオの手元を見た。
そして、少し眉を上げる。
「その灯り、向きが違うぞ」
「少しだけ変えた」
「店の通りへ向けるんだ。そこは客の流れがある」
「うん。でも、こっちの階段が暗い」
リオは橋の脇を指さした。
運河へ降りる小さな石段がある。
昼は荷物を積んだ小舟へ向かう人が使う。
夜は、近道として何人かが通る。
けれど、その石段はいつも灯りの端にしか入らなかった。
店の通りは明るい。
客を呼ぶための灯りはたくさんある。
でも、買い物を終えた人が家へ戻る方は、少し暗い。
「そこは通る人が少ない」
親方が言った。
「でも、通る人は帰る人だ」
「帰る人?」
「うん」
リオは、灯りの角度をもう少しだけ下げた。
灯り皿の火はまだ入っていない。
けれど、硝子の向きが変わると、夕方の白い光の返り方も少し変わった。
「店へ来る人は、明るい方へ勝手に行く。屋台もあるし、看板もある。でも帰る人は、荷物を持ってたり、足元を見てたりする」
「それで?」
「この灯り、少しだけ帰る人の方にも向けたい」
「……昨日の白い列車か」
親方が言うと、リオは少し驚いて顔を上げた。
「見てたの?」
「町中が見てたよ。あんなものが運河沿いに停まっていたら、見ない方が難しい」
「窓、変だったよね」
「変だったな」
「店の灯りじゃなかった」
「宿の灯りでもなかった」
「でも、あったかそうだった」
「そうだな」
親方は、しばらく白い列車が停まっていた方を見た。
もう線路の向こうには、霧と空っぽの場所しかない。
白い車体も、柔らかい窓の灯りも、そこにはない。
「灯りを覚えるなら、ああいう変な灯りも覚えておけ」
親方が言った。
「いいの?」
「灯り番は、町の灯りだけ知っていればいいわけじゃない」
「じゃあ、この向きでもいい?」
「やりすぎるな。店の道が暗くなる」
「うん。少しだけ」
「少しだけなら、試せ」
リオは頷いた。
宵の鐘が鳴る前に、灯り番は町を回る。
風が強い日は早めに。
霧が濃い日は、硝子の曇りをよく拭く。
水面が明るすぎる日は、橋の灯りを少し絞る。
灯り市が混む日は、人の流れを見ながら、通りの端まで火を入れる。
今日のルミエラは、霧がいつもより少し白かった。
リオは細い棒の先に小さな火をつけ、最初の灯りへ移した。
一つ目。
橋の欄干の硝子灯りが、淡く光る。
二つ目。
運河の水面に、細い琥珀色が伸びる。
三つ目。
屋台の布に、薄い影が落ちる。
灯りは、火を入れた瞬間に町の顔を変える。
昼のルミエラは、濡れた石と荷物と仕事の匂いがする。
夜のルミエラは、霧と硝子と甘い湯気の匂いがする。
その境目を作るのが、リオたち灯り番の仕事だった。
透け飴の屋台の主人が、箱を並べながら声をかけてきた。
「白い列車、行っちまったね」
「うん」
「昨日のお嬢さん、飴をずいぶん真剣に見てたよ」
「灯りにかざすって言ってた」
「正しい客だ」
「店主さんも同じこと言ってた」
「食べ物なのに、食べる前に見てもらえるのは悪くない」
主人は黒い紙箱を一つ持ち上げ、灯りのそばへ置いた。
中の飴は、まだ蓋が開いていないのに、少し光を抱えているように見えた。
「あの列車の中で、今夜もかざすのかな」
リオが言うと、主人は笑った。
「かざすだろうね。ああいう客は、好きなことを二回やる」
「二回?」
「一回目は驚くため。二回目は、確かめるためだ」
「ふうん」
リオは少し考えた。
今夜、白い列車はもうルミエラにはいない。
次の町か、その途中か、知らない場所で夜になる。
でも、あの琥珀色の灯りは起きる。
そして、あの人はきっと透け飴をかざす。
リオには見えない。
それでも、そうなる気がした。
夜茶の屋台の横を通ると、眠り花の香りがした。
屋台の女が鉄瓶の湯気を見ながら、少しだけ灯りの覆いを直している。
「リオ、今日、橋の灯りの色が少し柔らかくないかい?」
「まだ火を入れたばかりだよ」
「そうだけどね。水面の光が昨日より落ち着いてる」
「向きを少し変えた」
「親方に怒られなかった?」
「少しだけならいいって」
「へえ。珍しい」
リオは灯り棒を肩に乗せ直した。
「帰る人の方にも、少し明るくしたかった」
「帰る人」
「うん」
「いいじゃないか」
屋台の女は、湯気越しに橋の方を見た。
「灯り市は、人を呼ぶ灯りばかりになるからね」
「呼ばないと商売にならないんじゃないの?」
「それはそう。でも、呼んだ人は帰るんだよ」
「帰る」
「そう。買った茶を持って、飴を持って、濡れた袖を抱えてね」
リオは、自分の袖口を見た。
今日も少し濡れていた。
霧の町では、誰の袖も少し湿る。
店の人も。
客も。
灯り番も。
あの白い列車の綺麗な人も、たぶん少し湿っていた。
でも、彼女には帰る場所があった。
濡れた袖を外に置いていける場所が。
そう思うと、橋の灯りの向きを少し変えたくなったのだ。
宵の鐘が鳴った。
低く、ゆっくりとした音が、霧の運河町を渡っていく。
リオは灯り棒を握り直し、残りの橋へ向かった。
いつもの順番で火を入れる。
けれど、今日は少しだけ見る場所が違った。
店の看板だけではない。
屋台の品物だけではない。
橋を渡る人の靴の先。
石段を降りる人の手元。
買ったものを抱えて歩く子どもの足元。
水面ではなく、濡れた石に落ちる光。
それを少しずつ見ながら、灯りを調整した。
「今日は足元が見やすいね」
魚屋の女将が、木箱を抱えて橋を渡りながら言った。
「そう?」
「いつもより、石がてらてらしない」
「眩しくない?」
「うん。帰る時には、これくらいがいい」
リオは何も言わずに頷いた。
別の橋では、小さな女の子が母親の手を引いて歩いていた。
母親の腕には、夜茶の包みがある。
女の子は橋の途中で足を止め、灯りを見上げた。
「お母さん、今日の灯り、ちょっと眠そう」
「眠そう?」
「うん。帰る灯りみたい」
リオは思わず振り返った。
女の子は、もう母親に手を引かれて歩いていくところだった。
眠そうな灯り。
帰る灯り。
子どもは、時々大人より早く言葉を見つける。
リオは少し笑った。
白い列車の綺麗な人も、似たようなことを言っていた。
夜になったら起きる灯り。
家の灯り。
動いても、帰る場所。
あの人が言ったことは、やっぱり変だった。
でも、少しだけ分かる気がしてきた。
灯り市が本格的に賑わい始めたころ、リオは運河沿いの端まで来ていた。
そこは、昨日まで白銀列車が見えていた場所だった。
白い車体も、暖かそうな窓も、もうない。
霧の向こうには、線路と、濡れた石と、遠くの灯りだけがある。
リオは灯り棒を下ろし、しばらくそこに立った。
もし白い列車がまだいたら。
今ごろ、あの琥珀色の新しい灯りが窓に映っていたのだろうか。
透け飴がかざされて、夜茶の湯気が金色になって、灰緑の毛布が眠そうに見えていたのだろうか。
リオには分からない。
けれど、白い列車の中では、きっと誰かが「戻らなくていい」と言っている。
外は綺麗だけれど、ここで十分だと。
そう思える灯りは、たぶん強い。
「見えない灯りを見てるのか?」
親方の声がした。
リオは振り返った。
親方が、少し離れたところで腕を組んでいた。
「見えないけど、点いてる気がする」
「白い列車か」
「うん」
「そりゃ、点いてるだろうな」
「どうして分かるの?」
「灯りを大事にする客は、一日で飽きたりしない」
「そういうもの?」
「そういうものだ」
親方は、リオが少し向きを変えた橋の灯りを見た。
水面への映り込みは少し弱くなり、かわりに橋の端と石段が見やすくなっている。
「悪くない」
「本当?」
「客を呼ぶ力は少し弱い」
「うん」
「でも、帰る人の足元は見える」
「うん」
「全部をそうするなよ」
「しない」
「場所を選べ」
「分かった」
親方は鼻を鳴らした。
「一つの灯りで全部やろうとするな。店には店の灯りがいる。橋には橋の灯りがいる。帰る道には、帰る道の灯りがいる」
「白い列車には?」
「白い列車には、白い列車の灯りがあるんだろう」
「琥珀色だった」
「なら、琥珀色の白い列車の灯りだ」
「混ざってる」
「灯りは混ざるもんだ」
リオは、少しだけ納得した。
霧に、硝子に、火に、影に、水面に。
灯りはいつも何かと混ざっている。
混ざって、その場所の色になる。
白い列車の灯りも、きっとそうだ。
霧の運河町で買った琥珀色の硝子が、列車の中の毛布や茶器や窓と混ざって、あの人たちの夜の色になる。
その夜は、もうルミエラからは見えない。
でも、灯りは見えない場所でも点く。
リオは、最後の灯りへ火を移した。
小さな火が硝子の中で丸くなる。
霧がその光を少しぼかす。
橋の石段に、やわらかい色が落ちる。
誰かが店へ向かう。
誰かが家へ帰る。
誰かが屋台の前で足を止める。
誰かが買った夜茶を胸に抱える。
その全部が、同じ町の夜だった。
リオは灯り棒を肩に担ぎ直した。
今日の仕事はまだ終わっていない。
夜が深くなれば、風で揺れる灯りを見に行かなければならない。
霧が濃くなれば、硝子を拭く。
火が弱れば、また灯す。
灯り番は、夜が終わるまで歩く。
でも今日は、少しだけ足が軽かった。
白い列車は、ルミエラからいなくなった。
けれど、リオの中には、その窓が残っている。
それを一度見てしまったから、リオはもう、橋の灯りを昨日とまったく同じには見られなかった。
夜が深くなるころ、ルミエラの灯りはいつも通り霧ににじんだ。
運河の水面には、琥珀色や青白い色や、薄い赤が揺れている。
灯り市は賑わい、屋台からは湯気が上がり、透け飴は硝子片のように光った。
その中で、いくつかの橋の灯りだけが、昨日より少し低く、少し柔らかく、帰る人の足元へ落ちていた。
誰も大きな変化とは思わなかった。
町が変わったと騒ぐ者もいなかった。
ただ、夜茶を買った女が「今日は帰り道が楽だね」と言い、魚屋の女将が「石段が見やすい」と言い、親方が「悪くない」とだけ言った。
リオには、それで十分だった。
白い列車の窓を、リオは忘れなかった。
その冬から、リオの灯すいくつかの橋の灯りは、少しだけ、人を呼ぶためではなく、人を帰すための色を混ぜるようになった。
白銀列車が去ったあと、ルミエラに残った灯り番の少年の話でした。
白い列車の窓は、リオの灯りの見方を少しだけ変えたようです。
霧の運河町ルミエラで見つけた夜は、白銀列車と町の灯りの両方に少し残りました。




