079 霧の町を出ても、灯りは車内に残りますわ
琥珀硝子の灯りが、白銀列車の夜を柔らかくしました。
一夜明けたルミエラは、霧の灯りの町から、よく働く昼の町へ戻っています。
朝になっても、夜が全部消えるわけではなかった。
白銀列車のラウンジには、昨日の琥珀硝子の灯りが置かれている。
魔石は眠っている。
硝子の中に光はない。
それでも、いつもの席のそばにあるだけで、そこだけが少し夜を覚えていた。
「……灯っていない時も、いいですわね」
私は灰緑の毛布を膝に掛けたまま、琥珀硝子を見ていた。
朝の光を受けた硝子は、昨夜とはまるで違う顔をしている。
蜂蜜色は淡く、白い霞は静かで、小さな泡は眠っているようだった。
夜の間は光を迷わせていた硝子が、今は光を待っている。
「お嬢様、朝食の前から灯りをご覧になっております」
ルークが言った。
「朝食の前に見る価値がありますわ」
「硝子は逃げません」
「分かっています。でも、昨日初めて灯ったものが、朝にどんな顔をするかは、今日しか見られません」
「なるほど」
「納得しました?」
「お嬢様が大切にしておられることは、よく分かりました」
ノアは灯りの台座の下を確かめていた。
出発前に、列車の揺れで動かないようにするらしい。けれど、金具が目立たないよう、低い固定具を選んでいる。
「これなら走っても大丈夫です」
「見た目は変わりませんの?」
「変わりません。触らなければ分からないくらいにしてあります」
「よろしいです。工房の道具みたいになったら困ります」
「大丈夫です。夜を柔らかくする灯りであって、固定実験用の台ではないですから」
「分かっているなら安心ですわ」
アベルは低卓に朝の茶を置いた。
昨夜の眠り花の夜茶ではない。朝用の、少し香りの明るい茶だった。
「夜茶は?」
「夜だ」
「たいへん正しいですが、少し寂しいですわ」
「朝から眠り花を飲んでどうする」
「毛布に負けます」
「負けるな。朝飯を食え」
「現実が強いですわね」
朝食は軽かった。
薄く焼いたパンに、温かい卵。
昨日の透け飴は、黒い紙箱に入ったまま低卓の端にある。
私は少しだけ箱へ目を向けた。
「朝から飴は出さない」
アベルが即座に言った。
「まだ何も言っておりません」
「顔に出てる」
「朝の琥珀硝子にかざしたら、夜と違う顔が見えると思っただけです」
「食うだろ」
「少しは」
「だから駄目だ」
「厳しいですわ」
ルークが、窓の外へ目を向けた。
ルミエラの朝は、昨夜とは違っていた。
運河の上には霧が残っている。
けれど、夜のように灯りを抱いてはいない。
水面は灰色で、石畳は黒く濡れ、橋の欄干の硝子灯りは眠っている。
店先では布が干され、職人たちが木箱を運び、屋台の人々が昨夜の灯り皿を拭いていた。
夜のルミエラは、霧の中で夢を見る町だった。
朝のルミエラは、濡れた袖を払いながら働く町だった。
「夜ほど綺麗ではありませんわね」
ノアが少し遠慮がちに言った。
「いいえ」
私は首を振った。
「これはこれで、たいへん正しい姿ですわ」
「正しい姿」
「夜にあれだけ綺麗に光るためには、朝に誰かが灯りを拭いて、石畳を掃いて、屋台を直しているのですもの」
「なるほど」
「ただし、私は外に出ません」
「そこは変わらないんですね」
「朝でも袖は湿ります」
「はい」
「石畳も滑ります」
「はい」
「働いている町は美しいですが、働く町の湿りまで背負う必要はありません」
「完璧な線引きです」
白銀列車は、昼前にルミエラを発つ予定だった。
車内では、出発の支度が進んでいる。
荷物は大きく増えていない。
増えたのは、琥珀硝子の灯りと、眠り花の夜茶の包みと、透け飴の黒い紙箱。
それから、夜になるのを少し楽しみにする気持ちだった。
「お嬢様、灯りの周囲は固定済みです」
ルークが言った。
「出発しても倒れませんのね」
「はい。毛布、茶器、本、お菓子の箱との距離も確認いたしました」
「お菓子の箱まで」
「昨夜の状況から、必要と判断いたしました」
「たいへん正しいですわ」
「飴を硝子へ近づけすぎないようお願いいたします」
「ルークまで言いますのね」
「大切な灯りですので」
「分かっています。たぶん」
「たぶん、でございますか」
「努力しますわ」
アベルが短く言った。
「努力じゃなくて守れ」
「はい」
白銀列車の汽笛が、低く鳴った。
窓の外で、ルミエラの人々が顔を上げる。
霧の運河町に白い列車は目立つ。
昨夜、白銀列車の窓を見ていた者もいたのだろう。何人かが、手を止めてこちらを見ていた。
橋の上には、灯り番の少年がいた。
昼だから、火のついた棒は持っていない。
代わりに、細い布で橋の灯りを拭いている。
昨夜は小さな火を運んでいた少年が、朝は消えた灯りの手入れをしている。
少年はこちらに気づくと、布を持った手を上げた。
私も窓越しに手を上げる。
「開けますか?」
ルークが尋ねた。
「少しだけ」
「霧が入りますので、短くお願いいたします」
「はい」
窓を少しだけ開けると、冷たい湿りがすぐに入ってきた。
やはりルミエラの霧は勤勉だった。
「あの灯り、夜にまた点くんですか?」
少年が橋の上から声をかけてきた。
私は、席のそばの琥珀硝子を見た。
朝の光の中で、灯りはまだ眠っている。
「ええ。夜になったら起きますわ」
「昼は寝てるんですね」
「そうです。夜の灯りですから」
「うちの町の灯りは、朝になると仕事が終わります」
「白銀列車の灯りも、夜に仕事をします」
「どこで?」
「次の町でも、その次の町でも。私たちが帰ってきた場所で」
「列車なのに?」
「列車なのに、です」
少年は少し考えてから、笑った。
「やっぱり変です」
「ええ。そこがよいところですわ」
「夜になったら、また窓が柔らかくなるんですか」
「たぶん」
「じゃあ、見られないのは少し残念です」
「私たちが見ておきます」
「それならいいです」
少年は、橋の灯りをもう一度布で拭いた。
消えている硝子灯りが、朝の光を少しだけ返す。
「白い列車の灯り、忘れません」
その言葉が、霧の中で少し小さく聞こえた。
白銀列車が動き出す。
私は窓を閉めた。
外の湿りが切れる。
車内の暖かさが戻る。
ルークがすぐに窓枠を拭き、外から入った水気を取った。
「ほんの少し開けただけで、これですわ」
「ルミエラですので」
「その一言で、だいたい説明がつきますわね」
白銀列車は、ゆっくりと運河沿いを離れていった。
橋が後ろへ流れる。
灯り市の看板が遠ざかる。
昨日の夜茶の屋台が見えた。
透け飴の屋台はまだ閉まっている。
灯り屋の店先には、琥珀色の小さな卓上灯が一つ、昼の光の中で眠っていた。
それから、硝子職人の工房の煙突が見えた。
朝でも煙は少し上がっている。
炉の火は、町の夜と関係なく燃えているらしい。
「硝子の夏は、今日も続いていますわね」
私が言うと、ノアが笑った。
「一年中らしいですから」
「職人様は、やはり暑そうです」
「でも、いい硝子でした」
「はい」
アベルが窓の外を見ながら言った。
「あの火は悪くなかった」
「また火の評価ですの?」
「火は大事だ」
「ルミエラの思い出が、アベルは炉ですのね」
「菓子も悪くなかった」
「そこは同意します」
白銀列車が町を抜けるころ、霧は少し薄くなった。
運河が細くなり、石橋が少なくなり、濡れた石畳が土の道へ変わっていく。
硝子灯りの並ぶ欄干は見えなくなり、窓の外には冬の木々が増えた。
ルミエラの夜は、後ろへ流れていく。
そのはずだった。
けれど、いつもの席のそばには、琥珀硝子の灯りがあった。
灯っていない。
まだ朝だ。
けれど、そこにあるだけで、昨夜の光が少し残っている気がする。
霧の町を出ても、夜を置く場所だけは車内に残っていた。
「持ち帰れましたわね」
私は小さく言った。
「灯りをですか?」
ノアが尋ねる。
「灯りも。霧も。湯気も。透け飴の色も」
「全部ですか」
「全部ではありません。袖の湿りと足元の冷えは置いてきました」
「それは置いてきて正解ですね」
「人混みも置いてきました」
「完璧ですね」
「よいところだけ、白銀列車に残りましたわ」
「お嬢様らしい持ち帰り方です」
昼の間、琥珀硝子の灯りは眠っていた。
私は時々それを見た。
ルークは、揺れで動いていないか確認した。
ノアは、台座を直したくて少しうずうずしていたが、触らなかった。
アベルは、低卓の上に皿を置くたび、灯りとの距離を測っていた。
新しいものなのに、もう少しずつ白銀列車の手順に入っている。
茶を置く時。
本を置く時。
毛布を引き寄せる時。
透け飴の箱を開ける時。
誰もが、少しだけ灯りの場所を避ける。
けれど、邪魔だからではない。
そこに夜が来る場所だと、分かっているからだった。
夕方になるころ、窓の外に運河はなかった。
白銀列車は、ルミエラを離れ、冬枯れの林のそばを走っていた。
遠くには低い丘があり、枝の間に薄い夕日が沈みかけている。
霧の運河町の灯りは見えない。
硝子灯りの橋もない。
水面に滲む琥珀色もない。
それなのに、私は少しも寂しくなかった。
宵の気配が、車内へ降りてくる。
ルークが暖炉の火を整えた。
アベルが夜茶の湯を用意する。
ノアが、窓の映り込みを少し見て、灯りの向きをほんの少しだけ直した。
「点けますか?」
ノアが聞いた。
「はい」
私は台座の横に触れた。
二度目の点灯は、昨日ほど息を止めるものではなかった。
もっと自然だった。
琥珀硝子の中で、光がゆっくり起きる。
白い霞に触れ、小さな泡の周りで少し迷い、それから低卓の端へ落ちる。
灰緑の毛布に触れ、茶器の縁を柔らかくし、透け飴の箱を静かに浮かび上がらせる。
窓の外は、もうルミエラではない。
霧の運河も、橋の灯りもない。
けれど、白銀列車の中の夜は、ちゃんと柔らかかった。
「……残っていますわ」
私は言った。
「何がですか?」
ノアが尋ねる。
「霧の町の夜です。いいえ、違いますわね」
私は琥珀硝子の灯りを見た。
「霧の町から持ち帰った、うちの夜です」
アベルが夜茶を置いた。
湯気が、琥珀色の光を通って上がる。
「茶は今日もちゃんと見える」
「重要ですわ」
「飴は?」
「もちろん、かざします」
私は黒い紙箱を開け、乳白の透け飴を一つ取り出した。
灯りにかざすと、飴は昨日と同じように、けれど少し違うように白く膨らんだ。
窓の外にルミエラはないのに、灯りの中には、昨夜の霧が少しだけ残っている気がした。
ルークが静かに微笑む。
「お嬢様、外へ戻りたいとはおっしゃいませんね」
「もう戻れませんもの」
「戻りたいですか?」
「いいえ」
私は夜茶を一口飲んだ。
「持ち帰れましたから」
窓の外では、冬の林がゆっくり流れていく。
空は暗くなり、知らない道が続いている。
でも、席のそばには琥珀色の灯りがある。
ルミエラの灯り市は、もう後ろにある。
硝子職人の炉も、灯り屋の店先も、灯り番の少年の橋も、窓の外にはない。
それでも、夜は置いていかなかった。
霧の町を出ても、灯りは車内に残っている。
白銀列車は、霧の運河町ルミエラを出発しました。
夜の町は遠ざかりましたが、琥珀硝子の灯りは車内に残っています。
袖の湿りや足元の冷えは置いてきました。
でも、柔らかい夜は持ち帰れたようです。




