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婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第9章 琥珀ランプと宵の霧編 〜霧の運河町ルミエラ〜

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78/84

078 同じ夜でも、うちの夜のほうが綺麗ですわ

琥珀硝子の灯りは、白銀列車の中に置かれました。

けれど、まだ眠ったままです。

宵の鐘を待って、初めての夜を灯します。

 宵の鐘を待つ時間は、思ったより長かった。


 白銀列車のラウンジには、新しい灯りが置かれている。

 琥珀硝子の覆いをかぶった、小さな卓上灯。

 いつもの席のそばで、まだ魔石を眠らせたまま、静かに夜を抱えている。


 灯っていないのに、そこにあるだけで気になる。


 私は灰緑の毛布を膝へ掛けたまま、何度もその灯りを見た。

 低卓には、眠り花の夜茶。

 黒い紙箱には、昨日買った透け飴。

 窓の外には、霧の運河町ルミエラ。


 準備はできている。


 ただ、まだ鐘が鳴らない。


「お嬢様、先ほどから灯りをご覧になりすぎです」

 ルークが静かに言った。

「灯りを見るために置いたのですから、正しい使い方ですわ」

「まだ灯っておりません」

「だから見ていますの。灯っていない時間は、今だけですもの」

「なるほど」

「納得しました?」

「お嬢様が楽しみにしておられることは、よく分かりました」


 ノアが灯りの台座を覗き込み、魔石の強さをもう一度確かめている。

 台座の裏にある小さな調整口へ、細い工具を当てていた。


「最初は一番弱いところからですね」

「一番弱くて足りますの?」

「たぶん足ります。ここはもう暖炉もありますし、車内の灯りも完全に落とすわけじゃないですから」

「強くしたら?」

「明るくはなります」

「それは駄目ですわ」

「まだ最後まで言ってません」

「明るくなります、の時点で少し危険です」

「分かりました。夜を硬くしないようにします」


 アベルは低卓の上を見ていた。

 透け飴の箱、夜茶の器、小さな焼き菓子の皿。

 どれをどこに置けば、灯りの邪魔にならず、食べる時にも困らないかを見ているらしい。


「この位置なら皿は置ける」

「最重要事項が守られましたわね」

「灯りで飯が追いやられるのは違う」

「飯ではなく、今日は軽いお菓子です」

「皿は皿だ」

「厳密ですわ」

「灯りが来ても、食う場所はいる」


 灯り屋の店主は、窓の外を見ていた。

 霧は少しずつ濃くなっている。運河沿いの灯りは、まだすべて点いていない。

 橋の向こうで、灯り番の少年が小さな火を持って歩く姿が見えた。


「もう少しだね」

 店主が言った。

「まだですの?」

「外の灯りが窓に映るまで待ちな。新しい灯りは、外の夜と中の夜の間で点けるのがいい」

「たいへん凝っていますわね」

「最初の一回くらい、凝ってもいいだろう」

「それはそうです」

「これから何度も使う灯りだ。最初の夜を雑にすると、もったいない」


 私は、灯りに目を戻した。


 琥珀硝子は、昼の光を受けていた時より、ずっと静かになっている。

 外の霧が濃くなるにつれて、硝子の色も少し深く見えた。

 蜂蜜色の奥にある白い霞が、まだ眠っている光を包んでいるようだった。


 窓の外で、一つ、灯りが点いた。


 水面に細い光が伸びる。

 霧の中で、それはすぐに滲んだ。


 また一つ。

 橋の欄干に、硝子灯りが増える。

 灯り番の少年が、棒の先の火を次の灯りへ移していく。


 ルミエラは、昼から夜へ入る時、急に黙る。

 人の声が消えるわけではない。

 屋台の音も、運河の水音も、遠くの馬車の車輪もある。

 けれど、霧と灯りが増えるにつれて、町全体が少し声を小さくするのだ。


「綺麗ですわ」

 私は窓の外を見て言った。

「外へ見に行きますか?」

 ノアが聞く。

「行きません」

「即答ですね」

「外は袖が湿ります」

「はい」

「足元も冷えます」

「はい」

「人もいます」

「いますね」

「ですから、ここで見ます」

「完璧な判断です」


 その時、遠くから鐘の音がした。


 低く、ゆっくりとした音が、霧の町を渡ってくる。

 一つ。

 二つ。

 三つ。


 宵の鐘だった。


 店主が小さく頷く。


「いいよ。起こしてやりな」


 私は、思わず灯りを見た。


「私が?」

「誰の夜に置く灯りだい」

「私の……いいえ、白銀列車の夜ですわ」

「なら、あんたが起こせばいい」


 ルークがすぐに灯りの周囲を確認した。

 低卓の茶器との距離。毛布との距離。本の置き場所。私の袖。

 ノアは台座の調整口から手を離し、頷いた。


「いちばん弱い光で起きるようにしてあります。台座の横に触れてください」

「横ですのね」

「硝子には触らないでください。力はいりません」

「壊しませんわよ」

「念のためです」

「全員、私を何だと思っていますの?」

 アベルが即答した。

「灯りを楽しみにしすぎている人」

「否定しにくいですわ」


 私はそっと手を伸ばした。


 台座の横に指先を触れる。

 暗い木は、思ったより冷たくなかった。

 中で眠っている魔石に、ほんの少しだけ魔力が通る感触がした。


 次の瞬間、灯りが点いた。


 いいえ、点いた、というより。


 琥珀硝子の内側で、夜がゆっくり目を開けた。


 強い光ではなかった。

 ぱっと部屋を照らすのではない。

 まず硝子の底に小さな蜂蜜色が生まれ、それが白い霞へ触れ、細かな泡の周りで少しだけ迷い、それから外へ滲んだ。


 光は、急がなかった。


 硝子の中で一度ほどけてから、低卓の端へ落ちる。

 灰緑の毛布の起毛に触れ、茶器の白い縁を撫で、透け飴の黒い箱を淡く浮かび上がらせる。

 暖炉の火とは喧嘩しない。

 窓の外の霧灯りとも張り合わない。


 ただ、そこにある夜を、少し柔らかくした。


「……まあ」


 私は、それ以上すぐに言葉が出なかった。


 灯りは、明るくない。

 けれど暗くもない。


 低卓の上のものが、全部少しだけ大切そうに見える。

 いつも使っている茶器なのに、縁が優しく見える。

 昨日からある透け飴の箱なのに、開ける前から楽しみになる。

 灰緑の毛布は、昼よりも深く、暖炉の近くで眠そうに見えた。


 夜茶の湯気が立つ。


 琥珀色の光を通った湯気は、ただ白く消えなかった。

 細い金色を抱えて、ゆっくり上がる。

 上がって、ほどけて、窓の霧と似た薄さになっていく。


「湯気が」

 私は小さく言った。

「迷子になっていませんわ」


 店主が笑った。

「よかったね」

「はい。とても」


 ノアは灯りの影を見ていた。

「すごいですね。いちばん弱い光なのに、端まで届いてます。まっすぐ照らしてないから、逆に馴染むのか」

「ノア」

「はい」

「今は分解しないでください」

「しません。見るだけにします」

「見るだけなら許します」

「ありがとうございます」


 ルークは私の顔を見ていた。

 それから、灯りを見て、また私を見る。


「お嬢様のお顔色も問題ございません」

「まだ顔色審査が続いておりますのね」

「はい。青すぎず、赤すぎず、影も強すぎません」

「合格ですか」

「合格でございます」

「たいへん重要な審査でしたわね」

「当然でございます」


 アベルは、焼き菓子の皿を灯りの端へ置いた。

 薄く焼いた生地の縁に、琥珀色が落ちる。

 焦げ目は強く見えすぎない。

 冷めても見えない。

 皿の白さも硬くならない。


「飯はまずく見えない」

「お菓子です」

「菓子もまずく見えない」

「そこも合格ですわね」

「かなり大事だ」

「この灯りの審査、思ったより項目が多いですわ」

「注文した時点で多かっただろ」

「そうでした」


 店主は少し離れたところから、灯りとラウンジ全体を見ていた。

 彼女の表情は、灯り市の店先で見せたものよりも柔らかい。


「いいね」

「いいですの?」

「ここに来て、売り物の顔じゃなくなった」

「売り物の顔」

「店にある間は、どうしても客を待つ顔をする。ここに置いたら、帰ってきた人を待つ顔になった」

「それは、とてもよい変化ですわ」

「うん。これはここだ」


 私は、ゆっくり息を吐いた。


 灯りが一つ増えただけなら、私はここまで黙らなかったと思う。

 けれど、膝の毛布も、茶器の縁も、窓に映る霧も、さっきより少し近く見えた。


 白銀列車のラウンジは、もともと暖かい。

 暖炉も、毛布も、茶もある。

 外の霧に戻りたい理由など、最初から一つもなかった。


 それでも、この灯りが点いてから、夜の居場所が少しはっきりした。


 どこで茶を飲むのか。

 どこで本を閉じるのか。

 どこへ飴の箱を置くのか。

 どこに膝を沈めるのか。

 どこで、外の霧灯りを窓越しに見るのか。


 その全部に、琥珀色の端ができた。


「ティア、飴」

 アベルが黒い紙箱を開けた。

「待っていました」

「やっぱりな」

「この灯りで見ないと、昨日の続きになりません」

「食べる前の言い訳が増えたな」

「鑑賞ですわ」


 紙箱の中には、六色の透け飴が並んでいる。

 昨日も見た。

 外の灯り市でも見た。

 白銀列車のいつもの灯りでも見た。


 けれど、琥珀硝子の灯りのそばでは、まるで違った。


 琥珀色の飴は、灯りに溶けそうだった。

 どこからが飴で、どこからが光なのか、一瞬分からなくなる。

 中の小さな泡が、硝子の覆いの泡と呼び合うように光る。


 乳白の飴は、白い花の蕾のように膨らんだ。

 強く透けない。

 けれど、光を受け止めて、少しだけ内側から柔らかくなる。


 薄赤の林檎飴は、昨日よりも落ち着いて見えた。

 事件現場の赤ではない。

 夕方の林檎の皮のような、食べてもよい赤だった。


 青みがかった薄荷飴は、冷たすぎなかった。

 琥珀の光の中で、少しだけ緑を含み、霧の向こうの水面に似ていた。


 淡い緑の香草飴は、毛布の灰緑と静かに並ぶ。

 薄紫の夜茶飴は、窓の外の霧灯りを小さく閉じ込めたようだった。


「同じ飴ですのに」

 私は、琥珀色の飴を指でつまんだ。

「昨日と違いますわ」

「灯りが変わると、色も変わりますからね」

 ノアが言う。

「色だけではありません。食べる前の気持ちも違います」

「それは大事ですね」

「たいへん大事です」


 私は飴を灯りにかざした。


 飴の中で、光が一度止まる。

 泡の周りで迷う。

 それから指先へ落ちる。


 硝子職人の言ったことが、少し分かった気がした。

 光を急がせない。

 急がない光は、見ているこちらまで急がせない。


「これは、食べるのが惜しいですわ」

「溶けるぞ」

 アベルが言った。

「昨日も言いましたね」

「今日も溶ける」

「現実は毎日強いですわね」

「飴だからな」

「では、少し眺めてから食べます」


 琥珀色の飴を口に入れる。

 蜂蜜と柑橘がゆっくりほどけた。

 昨日より甘い気がした。

 たぶん、気のせいだ。

 けれど、気のせいも夜の味のうちである。


 夜茶を飲む。

 眠り花の香りが、灯りの色と一緒に喉の奥へ降りていく。


「これは」

 私は深く頷いた。

「正しいですわ」

「何がですか?」

 ノアが聞く。

「灯りと飴と夜茶と毛布の順番です」

「順番?」

「まず灯りを見る。飴をかざす。少し食べる。夜茶を飲む。毛布に負ける」

「最後が負けるんですね」

「はい。たいへん大事です」


 ルークが、毛布の位置をそっと整えた。

 琥珀色の灯りが、その手袋の縫い目にも落ちる。

 いつもなら黒く見える手袋の端が、今日は少しだけ柔らかい。

 護衛の手なのに、暖炉のそばにあるもののように見えた。


「ルークの手袋まで、少し優しく見えますわ」

「手袋が、でございますか」

「はい」

「護衛としては、少し複雑でございます」

「怖く見える必要は、白銀列車の中ではありません」

「外では必要です」

「外ではお願いします」

「承知いたしました」


 ノアは本を一冊、低卓の端へ置いた。

 灯りの端が、ページの角へ届く。

 字は読める。

 けれど、昼のようにはっきりしすぎない。

 読み続けることもできるし、途中で閉じることもできる明るさだった。


「これ、ちょうどいいですね」

「読みたくなりすぎませんか?」

「なりすぎないです」

「そこが重要ですわ」

「はい。作業灯じゃなくて、読み終われる灯りです」

「読み終われる灯り」

「閉じる気になれる明るさです」

「たいへんよいです」


 アベルは、小さな皿の位置を少し動かした。

 灯りの端へ、薄い焼き菓子を置く。


「ここなら菓子も茶も邪魔にならない」

「完璧ですわ」

「肉は?」

「今日は肉を出しません」

「例としてだ」

「肉も冷えて見えないと思います」

「ならいい」

「本当に重要なのですね」

「食べ物がまずそうに見える灯りは、信用できない」

「分かってきました」


 店主が、声を立てずに笑った。


「いい客だね」

「全員、見るところが違いますのに?」

「だからいいんだよ。顔色も、魔石も、菓子も、毛布も、それぞれ違うところを見てる。どれか一つだけに合う灯りより、ずっと長く使えるよ」

「長く」

「これは、一晩のための灯りじゃないだろう?」

「はい」

「なら、それでいい」


 私は琥珀硝子の灯りを見た。


 一晩のためではない。

 それは、とても自然に胸へ落ちた。


 この灯りは、今日だけ綺麗ならよいものではない。

 明日の夜も、次の町の夜も、雨の日も、雪の日も、窓の外が知らない景色の日も。

 白銀列車へ帰ってきた時、そこにあるものになる。


 もしかしたら、旅が進んでいくほど、この灯りの色は白銀列車の夜の色になっていくのかもしれない。


 窓の外では、ルミエラの灯りが霧ににじんでいた。

 運河の水面は、町の灯りを細く揺らしている。

 外の夜は、今日も美しかった。


 けれど、窓に映る琥珀色の灯りは、その外の夜を少しだけこちら側へ引き寄せていた。

 外へ出なくても、濡れた石畳を歩かなくても、袖を湿らせなくても。

 霧の灯りを、白銀列車の中で見ていられる。


 私は、窓の外と、灯りと、膝の毛布を順番に見た。


「同じ夜でも」

 私は言った。


 ルークがこちらを見る。

 ノアも本から顔を上げる。

 アベルは夜茶を注ぐ手を止めた。

 店主は黙って聞いている。


 私は琥珀硝子の灯りを見て、はっきり言った。


「うちの夜のほうが綺麗ですわ」


 少しの間、誰も何も言わなかった。


 それから、アベルが短く言った。


「だろうな」

「当然みたいに言いますのね」

「ここで飲む茶の方がうまい」

「たいへん分かりやすい評価ですわ」


 ノアは窓に映る灯りを見て、頷いた。


「外の灯りも綺麗ですけど、こっちは座ってから見る夜ですね」

「そうです」

「持ち帰れましたね、夜」

「はい」


 ルークは静かに微笑んだ。


「お嬢様が、外へ戻りたいとおっしゃらない灯りで何よりです」

「戻りません」

「承知しております」

「外は綺麗ですが、ここで十分です」

「はい」


 店主は、灯りの覆いを最後にもう一度見た。


「爺さんに伝えておくよ」

「何をですの?」

「うちの夜の方が綺麗だって」

「そのまま伝えたら、怒りません?」

「たぶん鼻で笑うね」

「それは怒っておりますの?」

「照れてるんだよ」

「分かりにくい方ですわ」

「職人はだいたい分かりにくい」


 店主は帰り支度を始めた。

 ルークが扉まで送る。

 彼女は出る前に、もう一度ラウンジを振り返った。


「消す時は、急に落とさない方がいい。弱くしてから眠らせる」

「灯りも眠るのですね」

「そう思って扱った方が、長持ちする」

「分かりました」

「それと、飴を硝子に近づけすぎるなよ」

「私はいたしませんわ」

「顔が少し怪しい」

「灯り屋様まで」

「大事な灯りだからね」


 店主が白銀列車を降りていく。

 扉の向こうから、霧の冷えが少しだけ入った。

 すぐに扉が閉まり、暖かさが戻る。


 窓の外で、灯り番の少年が橋の上に立っていた。

 彼はこちらを見ているようだった。

 琥珀色の灯りが、窓に映っている。

 少年は小さく手を上げた。


 私も、飴を持っていない方の手を少しだけ上げた。


 少年は笑ったように見えた。

 それから、次の灯りへ走っていった。


 白銀列車の中では、琥珀色の灯りが静かに続いている。

 夜茶の湯気が上がる。

 透け飴が光る。

 灰緑の毛布が膝を甘やかす。

 暖炉は、いつも通りに燃えている。


 茶器も、毛布も、窓も、夜も、さっきまでと同じものだ。

 それなのに、茶器の縁を指でなぞりたくなり、毛布をもう少し引き寄せたくなり、窓の霧をもう一度見たくなる。

 同じものなのに、少しずつ手放しにくくなっていた。


 私は夜茶をもう一口飲んだ。

 眠り花の香りと、蜂蜜の飴の余韻と、琥珀色の灯りが、ゆっくり混ざる。


 窓の外のルミエラは、今日も綺麗だった。


 でも、眠くなる夜は、もうこちら側にあった。

琥珀硝子の灯りが、白銀列車で初めて灯りました。

明るくなったのではなく、夜が柔らかくなったようです。


透け飴も、夜茶の湯気も、灰緑の毛布も。

同じものが、少し違って見える夜になりました。

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