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婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第9章 琥珀ランプと宵の霧編 〜霧の運河町ルミエラ〜

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077 白銀列車に、夜を置く場所を作りますわ

琥珀硝子が冷めるまで、白銀列車で待ちました。

透ける飴菓子と夜茶で過ごした夜のあと、いよいよ新しい灯りを受け取りに行きます。

「待てる客なら、いい灯りになる」


 硝子職人の言葉を思い出しながら、私は白銀列車の窓の外を見ていた。


 ルミエラの霧は、今日も運河の上に薄く残っている。

 昼の光の中では、昨夜ほど幻想的ではない。濡れた石畳は黒く、橋の欄干にはまだ灯っていない硝子灯りが並び、店先の布は湿りを払うように広げられていた。


 夜はあんなに綺麗だったのに、昼のルミエラはよく働く町だった。


 けれど私は、昼の町を見ても少し楽しかった。


 工房の奥の冷まし炉。

 その中でゆっくり冷めていた琥珀硝子。

 白い濁りを含んだ、光を急がせないための覆い。

 それが今夜、白銀列車へ来る。


「落ち着きませんね」


 ノアが窓際で笑った。


「誰がですの?」

「お嬢様が」

「落ち着いております」

「さっきから、窓と時計と毛布箱を順番に見ています」

「確認ですわ」

「楽しみにしている人の確認ですね」

「楽しみにするのは、悪いことではありません」


 低卓には、昨夜買った透け飴の箱があった。

 琥珀、乳白、薄赤、青みがかった透明、淡い緑、薄紫。

 昨日の夜、灯りにかざしてから食べた飴は、まだ半分ほど残っている。

 アベルが食べすぎないように、箱を途中で閉じたからである。


 正しい判断だった。

 少し不満ではあった。


「今日は食いすぎるなよ」


 厨房側から、アベルが言った。


「まだ何も言っておりません」

「顔に出てる」

「今日は灯りの日です」

「灯りの日でも菓子は減る」

「灯りにかざす必要がありますもの」

「かざす分だけにしろ」

「難しい注文ですわ」

「灯り屋より難しくはない」


 ルークは、外出用の外套を選んでいた。

 昨日より少し軽い。けれど、霧を弾きやすい肩掛けは残してある。靴は、当然のように滑りにくいものだった。


「お嬢様、工房へは灯り屋の方と一緒に向かう手筈でございます」

「灯り屋の方が?」

「はい。仕上がりの確認と、台座との合わせを行うそうです」

「工房で完成して、そのまま持ち帰るのではありませんの?」

「硝子の覆いは工房で。台座と魔石は灯り屋で。最後に白銀列車で置き場所の確認を、とのことです」

「灯り一つに、ずいぶん段階がありますわね」

「お嬢様の夜に置くものですので」

「その言い方をされると、文句が言えませんわ」


 宵より少し前、私たちは白銀列車を降りた。


 外へ出ると、やはり霧の湿りが袖へ触れる。

 もう驚きはしない。けれど、歓迎もしない。

 ルミエラの霧とは、ずいぶん長い付き合いのような気がしてきた。


「袖口、まだ大丈夫です」

 ルークが言う。

「まだ、という言葉がつくのですね」

「ルミエラですので」

「説得力がありますわ」


 灯り屋の店主は、昨日の店先で待っていた。

 厚手のショールを肩に掛け、手には布を巻いた小さな箱を持っている。


「来たね」

「待てる客として来ましたわ」

「よし。待てた客には、いい硝子が来る」

「割れておりませんのね」

「割れてたら呼ばないよ」

「安心しました」


 店主は箱を軽く叩いた。


「覆いは冷めた。歪みも少ない。爺さんが珍しく機嫌よく仕上げたよ」

「あの職人様が機嫌よく」

「口は悪いけど、灯りにうるさい客は嫌いじゃないんだ」

「私、うるさい客ですの?」

「かなり」

「まあ」

「でも、いい灯りになりそうだ」


 工房へ向かう道は、昨日より短く感じた。

 目的が分かっているからかもしれない。

 霧も石畳も運河の冷えも同じなのに、今日は足元より、箱の中の硝子が気になった。


 工房へ入ると、また冬が消えた。


 熱い。

 相変わらず熱い。

 外套を着ていた体が、一瞬で間違えた顔になる。


「やはり、この建物だけ季節を間違えておりますわ」

「硝子の夏だと言ったろう」


 老人の声が、炉の横から飛んできた。


「今日は夏を短めにお願いします」

「こっちの都合で夏は終わらん」


 老人は作業台の上に、布を一枚敷いていた。

 そこに、琥珀硝子の覆いが置かれている。


 私は、思わず息を止めた。


 昨日、炉の中で橙色に光っていた硝子は、もう火の色ではなかった。

 落ち着いた琥珀色になっている。

 蜂蜜のような色の奥に、白い霞が薄く入り、小さな泡がいくつか閉じ込められていた。光を通すための硝子なのに、見ているだけで、すでに少し光を抱えているように見える。


「これが、昨日の」

「そうだ」


 老人が短く言った。


「熱いうちは、どれも偉そうな顔をする。冷めてからが本性だ」

「この硝子の本性は?」

「急がない」

「よい本性ですわ」


 ノアが、硝子の縁を覗き込む。


「白い筋、すごく薄いですね。昨日より柔らかく見えます」

「昨日は火の色が勝っていたからな。冷めると、濁りの出方が分かる」

「これ、魔石の光を通したら、かなり柔らかくなりそうです」

「だから、魔石を強くするな」

「はい」

「返事が早い。近づくな」

「昨日も言われました」

「今日も言う」


 アベルは、硝子を見て腕を組んだ。


「飴みたいだな」

「食えんぞ」


 老人が即座に言った。


「食わん」

「昨日も聞いた」

「でも、似てる」

「砂と火で作るものは、たまに甘そうな顔をする」

「分かる」

「分かるのですか」


 私が思わず言うと、アベルと老人はまた少しだけ同じ顔をした。


 店主が硝子を持ち上げ、布で丁寧に包んだ。


「台座に合わせるよ。ここでは光を入れない」

「なぜですの?」

「この硝子の最初の夜は、置く場所で見た方がいい」

「最初の夜」

「灯りは、初めて置かれる場所を覚えるものだよ」

「本当ですの?」

「気分の話だ」

「でも、大事ですわ」

「だろう?」


 老人が鼻を鳴らした。


「灯り屋は、すぐそういうことを言う」

「爺さんだって、冷め方で性格を見るだろう」

「それは技術だ」

「こっちも技術だよ」


 私は二人のやり取りを聞きながら、少し笑ってしまった。

 どちらも、言い方は違う。

 けれど、灯りを雑に扱わないところは同じだった。


「ありがとうございました」


 私は老人へ頭を下げた。


「まだ灯ってない」

「でも、硝子は見えました」

「灯ってから文句を言え」

「文句があれば?」

「直す」

「頼もしいですわ」

「文句がなければ?」

「褒めます」

「いらん」

「では、心の中で」

「それでいい」


 工房を出ると、霧が涼しく感じた。

 昨日と同じことをしている。

 炉の熱から逃げた直後だけ、ルミエラの霧は少し優しい顔をする。


 店主の店へ戻り、台座との合わせが行われた。


 台座は、昨日見たものと同じ暗い木だった。

 背が低く、重心が安定している。持ち手の金具はくすんだ金色で、ぴかぴかしすぎない。中の魔石は、小さな乳白の石で、まだ眠っているように光を持たない。


 店主が硝子の覆いをそっと台座へ合わせた。


 ぴたり、という音はしなかった。

 けれど、そこに置かれるべきものが、そこへ置かれたように見えた。


「まあ」


 私は小さく声を漏らした。


「灯しておりませんのに、もう少し灯りですわ」

「いい言い方だね」


 店主が笑った。


「火の入っていない暖炉と同じです。まだ暖かくないのに、そこに火が入る場所だと分かる」

「その感覚で合ってるよ」

「早く灯したくなりますわ」

「ここでは我慢だ」

「待てる客ですもの」

「えらい」


 ノアは台座の裏を確認していた。


「魔石の調整口、ここですか」

「そう。強さは三段階。けれど、たぶん一番下で足りる」

「暖炉がありますからね」

「暖炉があるなら、勝たせちゃ駄目だ。横に置く灯りは、主役になると疲れる」

「配線というか、魔力の流れは安定してますね」

「列車で使うなら、揺れも見る必要がある」

「そこは僕が見ます」

「頼もしい技師だね」

「ありがとうございます」


 ルークは台座の安定を見ていた。


「倒れにくさは問題なさそうです。ただし、お嬢様のお手元に近すぎる位置は避けたいです」

「私は倒しません」

「お嬢様ではなく、毛布や本や茶器との距離でございます」

「信頼されていますわね」

「もちろんでございます」

「少し違う気がします」


 アベルは低卓の上を想像しているらしかった。


「これ、飯の皿の場所を取るな」

「まだ置いてもいないのに」

「低卓には限りがある」

「灯りも大事です」

「茶と菓子も大事だ」

「全部大事ですわ」

「だから置き場所を考えろ」


 店主は、布を敷いた箱に灯りを収めた。


「白銀列車へ運ぶよ。置く場所を見るまでは、魔石は起こさない」

「起こさない」

「そう言うと、少し生き物みたいだろう」

「眠っている灯りですわね」

「今はね」


 私はその箱を見つめた。


 中にあるのは、卓上灯だ。

 けれど、ただの道具を買った気がしなかった。

 ルミエラの霧と、灯り市の人混みと、硝子職人の炉と、透け飴の色と、夜茶の湯気が、少しずつその中に入っている。


 外へ出ると、宵の気配が近づいていた。

 まだ夜ではない。

 けれど、ルミエラの町はもう準備を始めている。運河沿いの灯り番の少年が、橋の向こうで小さな火を持って歩いていた。


 少年は、こちらに気づくと軽く頭を下げた。

 私も小さく手を振る。


「あの列車の灯り、今日は増えるんですか」

 少年が尋ねた。

「増えるというより、少し柔らかくなります」

「柔らかく」

「ええ。たぶん」

「じゃあ、後で見ます」

「外から?」

「灯り番なので」

「お仕事熱心ですわね」

「霧の日は、見ないと分からない灯りがあるんです」


 少年はそう言って、次の橋へ走っていった。

 棒の先の小さな火が、まだ明るい霧の中で揺れている。


 白銀列車へ戻ると、扉が開いた瞬間、私は少しだけほっとした。


 乾いた床。

 暖かい空気。

 いつもの席。

 灰緑の毛布。

 低卓。

 窓の外には、霧の運河町。


 灯り屋の店主が、箱を抱えてラウンジへ入った。

 彼女は周囲を見回し、すぐに頷いた。


「なるほどね」

「何がですの?」

「たしかに、ここは明るくしたい部屋じゃない」

「そうですわ」

「もう十分、居心地がいい」

「ええ」

「だから、灯りを増やすと失敗することもある」

「失敗」

「明るさを足すだけならね。ここに必要なのは、夜の置き場所だ」


 その言葉に、私は胸の奥が少し落ち着いた。


 夜の置き場所。


 今日の目的は、それだった。


 店主が箱から灯りを出した。

 琥珀硝子の覆いは、車内の昼の光を受けると、工房や店で見た時よりも静かに見えた。まだ魔石は眠っている。光はない。

 それでも、白銀列車の木の床や、低卓や、暖炉の火を受けて、そこに置かれる前から少しだけ馴染もうとしている。


「まず、候補を出しましょう」


 ノアが言った。


「候補」

「場所です。魔石の流れと、揺れと、視線の高さを見ます」


 最初に置かれたのは、窓際だった。


 窓の外には霧の運河町が見える。

 その手前に琥珀硝子の灯りがあると、確かに綺麗だった。

 灯っていないのに、窓の外の灯りと並ぶように見える。


 けれど私は、少し首を振った。


「遠いですわ」

「遠い?」


 ノアが聞く。


「これは窓の景色にはよいです。でも、帰ってきた夜には少し遠い」

「なるほど」

「外を見る灯りになってしまいます」


 店主が頷いた。


「窓際は、見せる灯りになりやすいね」


 次に置かれたのは、暖炉の近くだった。


 これは、見た目にはとてもよかった。

 暖炉の火と、琥珀硝子が並ぶ。

 炎の赤と、硝子の蜂蜜色が近づき、いかにも暖かそうに見える。


 けれど、アベルがすぐに言った。


「火が多い」

「火が多い」

「落ち着かない。飯の焼き目も強く見えすぎる」


 ルークも頷いた。


「お嬢様が暖炉をご覧になる際、灯りが視界に入りすぎるかと」


 私は少し眺めてから、言った。


「ここでは働き者すぎますわ」

「働き者」

「暖炉と一緒に、部屋を暖める側へ行ってしまいます。違いますわね」


 店主が灯りを持ち上げた。


「ここじゃないね」


 三つ目は、本棚の横だった。


 読書にはよさそうだった。

 ノアは少し嬉しそうに角度を見ている。

 ページが読みやすい位置。棚の背に影が落ちる位置。魔石の調整もしやすい位置。


 けれど、私はまた首を振った。


「これは本のための灯りになります」

「駄目ですか?」

「本も大事です。けれど、本だけではありません」

「夜茶も毛布もありますからね」

「はい」

「本棚横だと、読書灯に寄りすぎるか」

「そうです。読むためだけの灯りではないのです」


 四つ目は、低卓の中央だった。


 これはすぐに問題が出た。


「皿が置けない」


 アベルが言った。


「まだ皿を置いていません」

「置く」

「置きますわね」

「茶も置く。菓子も置く。肘は置くな」

「肘は置きません」

「たまに置きそうな顔をしてる」

「していません」


 ルークも確認する。


「低卓の中央は、お嬢様のお手元に近すぎます。茶器との距離も不安です」

「茶をこぼしたら?」


 店主が聞く。

 ルークが静かに答えた。


「避けたい事態でございます」

「顔が真剣だね」

「当然でございます」


 私も、低卓中央の灯りを見た。


 確かに近い。

 けれど、近すぎる。

 茶と透け飴と本と、時々アベルが置く小皿。

 そのすべての真ん中に灯りがあると、灯りが主張しすぎる。


「ここでは、主役になりすぎますわ」

「夜を柔らかくする灯りが、夜を仕切り始めますね」


 ノアが言う。


「それは困ります」


 五つ目は、いつもの席の右側だった。


 低卓からは少し外れる。

 毛布箱の上ではなく、その少し奥。

 手を伸ばせば届くが、膝の毛布にも茶器にも近すぎない。

 窓の外は見える。

 暖炉とも喧嘩しない。

 本を開けば、ページの端へ灯りが届く。

 顔を上げれば、視界の端に琥珀硝子が入る。


 私は、黙った。


 ルークがすぐに距離を見る。


「お嬢様のお手元からは安全です。毛布箱との距離も問題ありません」


 ノアが台座の向きを調整する。


「魔石の調整口も触れます。揺れにも強そうです」


 アベルが低卓を見る。


「皿は置ける」

「最重要ですの?」

「重要だ」


 店主は少し笑っていた。


「ここだね」


 私は、まだ灯っていない琥珀硝子を見つめた。


 そこに置かれた途端、灯りは急に道具ではなくなった。

 まだ光っていない。

 魔石も眠っている。

 けれど、その場所だけが、少しだけ夜を待つ顔になった。


「……ここですわ」


 私は言った。


 ルークが静かに頷く。


「承知いたしました」


 ノアが小さく笑う。


「置いただけで、かなり雰囲気がありますね」


 アベルが低卓に手を置いた。


「飯の邪魔にもならん」


 店主は、満足そうに息を吐いた。


「帰る場所の灯りは、場所が決まると半分できるんだよ」

「まだ灯していないのに?」

「灯していない時に落ち着かない灯りは、灯しても落ち着かない」

「なるほど」

「これは、灯していない時も悪くない」

「たいへんよい評価ですわ」


 私は、灰緑の毛布を膝へ引き寄せた。

 低卓には、まだ透け飴の黒い箱がある。

 夜茶の包みもある。

 窓の外では、ルミエラの霧が少しずつ濃くなっている。

 暖炉は静かに燃えている。


 あとは、灯すだけだった。


 けれど、店主が首を振った。


「今はまだ、起こさない」

「なぜですの?」

「宵の鐘を待ちな。霧が深くなって、外の灯りが窓に映り始めてからの方がいい」

「また待つのですか」

「いい灯りは、だいたい待たせる」

「硝子職人様と同じことを言いますのね」

「言い方は違うけどね」

「待てる客は、いい灯りになる」

「そういうことだ」


 私は少しだけ残念に思った。

 けれど、昨日の透け飴と夜茶を思い出す。


 待つ時間にも、正しい過ごし方がある。


「では、待ちますわ」

「えらい」

「私は待てる客ですので」

「そうだったね」


 ルークが、灯りの周囲をもう一度確認した。

 ノアが魔石の強さを確かめ、アベルが低卓の位置を少しだけずらす。

 店主は最後に、琥珀硝子の覆いを布で軽く拭いた。


 まだ灯りはついていない。

 それでも、そこにあるだけで、夜が来る場所が決まった気がした。


 私はいつもの席に沈み、灰緑の毛布を膝へ掛けた。

 指先で、透け飴の箱を少しだけ引き寄せる。

 窓の外では、灯り番の少年が一つ目の橋の灯りを点け始めていた。


 白銀列車の中では、新しい灯りが静かに置かれている。

 まだ眠っている。

 琥珀硝子の中に、夜を抱えたまま。


 新しい夜は、まだ硝子の中で眠っていた。

琥珀硝子の灯りを受け取り、白銀列車へ持ち帰りました。

窓際でも、暖炉のそばでも、低卓の真ん中でもなく、帰ってきた夜にちょうどよい場所が決まりました。


灯りは、まだ点けていません。

新しい夜は、硝子の中で眠っています。

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