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婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第9章 琥珀ランプと宵の霧編 〜霧の運河町ルミエラ〜

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076 透ける飴菓子は、灯りにかざすためにありますわ

琥珀硝子は、明日の夜までゆっくり冷まされます。

その待ち時間に、灯り市で夜茶と透ける飴菓子を探します。

「待つ時間にも、正しい過ごし方がありますわ」


 硝子職人の工房から戻ったあと、私は白銀列車のいつもの席で、しばらく静かにしていた。


 頬にはまだ、炉の熱が少し残っている。

 袖にはもう、霧の湿りはない。

 足元も冷えていない。

 灰緑の毛布は膝にあり、低卓には冷たい茶が置かれている。


 白銀列車へ戻ると、外で受け取った温度が順番にほどけていく。


 霧の冷え。

 炉の熱。

 濡れた石畳の緊張。

 工房の焼けた砂の匂い。


 それらが少しずつ遠くなって、最後に残ったのは、冷まし炉の中でゆっくり眠る琥珀硝子のことだった。


「明日の夜まで待つのですわね」


 私は小さく言った。


「硝子は急に冷ますと割れるそうですから」

 ノアが、まだ工房の余韻を抱えた顔で答えた。

「人より正直だ、と職人様が言っていましたわね」

「嫌ならすぐ割れる、でしたっけ」

「分かりやすいのはよいですが、怖いですわ」


 ルークが、私の外套を確認している。

 霧の湿りは落とされ、袖口も乾いていた。白銀列車の中では、外の不快がいつまでも残らない。

 それだけで、たいへんありがたい。


 アベルは、厨房側から顔を出した。


「今夜は重いものは出さない」

「たいへんよい判断ですわ」

「炉でのぼせた後に、腹まで重くする必要はない」

「では、軽く、甘く、眠くなるものですわね」

「夜茶と菓子だな」

「透け飴」

「買ってくるなら、今夜だ」


 私は、ゆっくり顔を上げた。


「今夜」

「灯り市は今夜も出てる。硝子を待ってる間に、菓子と茶を見ればいい」

「たいへん正しい待ち時間ですわ」

「ただし、食いすぎるな」

「透ける飴は、食べるだけではありません」

「飾るのか」

「灯りにかざすのです」


 アベルは少しだけ考えて、頷いた。


「それなら、食う前に少し時間が稼げるな」

「食べすぎ防止策のように言わないでくださいまし」

「違うのか」

「違います。優雅な鑑賞です」

「最後は食うだろ」

「食べます」


 そこは否定できなかった。


 宵の鐘が近づくころ、ルミエラの霧はまた少し濃くなった。

 窓の外で、運河沿いの灯りが一つずつ増えていく。昨日より見慣れたはずなのに、やはり霧の中の灯りは、見飽きるということがなかった。


 ただし、外へ出ると袖が湿る。

 足元が冷える。

 人が多い。


 私はその三つを、きちんと覚えていた。


「少しだけ行きます」


 私が言うと、ルークがすぐに外套を用意した。


「承知いたしました。灯り市の中心までは参りません。夜茶と菓子の屋台を確認し、早めにお戻りいただきます」

「たいへん分かっておりますわ」

「工房のあとですので、長時間の外出は避けます」

「はい」

「足元が湿っておりますので、昨日と同じく滑りにくい靴を」

「はい」

「人混みに近づきすぎないよう、通りの端を歩きます」

「はい」


 ノアが笑った。


「お嬢様、今日は素直ですね」

「ルミエラの石畳とは、昨日すでに話し合いを済ませました」

「話し合い?」

「向こうが滑らせようとしてきたので、こちらが慎重になることにしました」

「負けてません?」

「譲歩ですわ」


 白銀列車の扉が開く。


 霧の冷えが、頬を撫でた。

 昨夜ほどの驚きはない。だが、布へ入り込む湿りは相変わらず勤勉だった。

 ルミエラの夜は、外に出た者を必ず少しだけ濡らすらしい。


 運河沿いの灯り市は、昨夜よりも少し落ち着いて見えた。

 いいえ、たぶん私が少し慣れただけだ。


 人は多い。

 灯りも多い。

 屋台の湯気も、蝋の匂いも、甘い香りも、霧の中で混ざっている。


 けれど今日は、目的がはっきりしていた。


「夜茶と透け飴ですわ」

「灯りではなく?」


 ノアが聞く。


「灯りは冷まし炉の中です」

「確かに」

「今夜は、灯りを待つための菓子です」

「待つための菓子」

「待ち時間には、味が必要ですわ」


 アベルが短く言った。


「名言みたいに言うな」

「事実です」


 昨日の案内板の近くに、夜茶の屋台が出ていた。

 小さな鉄瓶がいくつも並び、それぞれ違う香りの湯気を上げている。蜂蜜、香草、柑橘、薄い花の香り。屋台の上には、硝子の覆いをかぶせた小さな灯りがあり、湯気を淡く照らしていた。


 湯気は、ただ白いだけではなかった。

 灯りを通るたびに、少し金色を含み、霧へ混ざる前にふわりとほどける。


「湯気が、ちゃんと夜に見えますわ」


 私は足を止めた。


「茶を飲む前から、湯気を見てるな」

 アベルが言う。

「夜茶ですもの。湯気も味のうちです」

「それは分かる」

「分かるのですか」

「温かいものは、口に入る前から仕事をしてる」

「料理人の言葉ですわね」


 屋台の女が、小さな陶杯を差し出してくれた。


「試し飲みです。蜂蜜夜茶と、柑橘夜茶と、眠り花の夜茶がございます」

「眠り花」


 私は少し警戒した。


「飲んだら寝てしまうものではありませんよ。香りが穏やかなだけです」

「それなら安心ですわ」


 ルークが一応、屋台の女へ確認した。


「薬効が強いものではございませんか」

「いいえ。香りづけです。小さなお子様でも飲める程度でございます」

「では、お嬢様、一口だけ」

「一口だけですわね」


 まず、蜂蜜夜茶。

 甘すぎない。湯気の方が甘いくらいで、飲むと喉の奥にやわらかい温かさが残る。


 次に、柑橘夜茶。

 霧の湿りで重くなった空気を、少しだけ明るくする香りだった。


 最後に、眠り花。

 花の香りは薄く、口の中へ長く残らない。飲んだ後、まぶたが少し落ち着く気がした。


「これは、眠り花がよいですわ」


 私は陶杯を見つめた。


「意外ですね。蜂蜜かと思いました」

 ノアが言う。

「蜂蜜は好きです。でも、今夜は灯りを待つ夜ですもの。甘さより、ほどける方がよいです」

「なるほど」


 アベルも頷いた。


「菓子と合わせるなら、茶は甘すぎない方がいい」

「透け飴のためですわね」

「そうだ」

「料理人の判断と一致しました」


 夜茶を包んでもらい、次は透け飴の屋台へ向かった。


 その屋台は、灯り市の中でも少し不思議な場所だった。

 派手な売り声はない。大きな看板もない。

 ただ、屋台の前に吊られた六つの小さな灯りが、紙箱の中の飴を順番に照らしている。


 淡い琥珀。

 薄い赤。

 青みがかった透明。

 乳白色。

 淡い緑。

 夜の水面のような薄紫。


 飴はどれも、小さな硝子片のようだった。

 四角いもの、丸いもの、星形のもの、薄い板のようなもの。

 中には小さな泡があり、ものによっては、細い金色の筋が入っている。


 私は、思わず息を止めた。


「これは……食べ物として売られておりますの?」


 屋台の主人が笑った。


「いちおう、食べ物です」

「いちおう」

「最初からすぐ食べる方もいらっしゃいますが、ルミエラでは、まず灯りにかざす方が多いですね」

「正しいですわ」

「お嬢様、まだ何も食べておりません」

 ルークが静かに言った。

「食べる前から、正しさが分かります」


 屋台の主人は、細い銀の挟みで、琥珀色の飴を一つ持ち上げた。

 灯りにかざす。


 琥珀の中で、小さな泡が浮いた。

 泡の周りだけ、光が濃くなる。

 飴の縁は蜂蜜色で、真ん中は少し薄い。向こう側の灯りが、飴の中で一度迷ってから、こちらへ来る。


「光が、飴の中で遅くなっていますわ」


 私が言うと、ノアが少し笑った。


「工房の話を引きずってますね」

「だって、似ていますもの。透明なのに、すぐ通さない。中で少し遊ばせています」

「光で遊ぶ飴ですね」

「食べる前から楽しいですわ」


 アベルが主人へ尋ねた。


「味は?」

「琥珀は蜂蜜と柑橘。薄赤は林檎。青みがかったものは薄荷。乳白はミルク砂糖。緑は香草。紫は葡萄と夜茶です」

「夜茶味の飴」

「夜茶と一緒に食べると、少し香りが重なります」

「重くは?」

「軽いです。噛むより、ゆっくり溶かす飴ですから」

「よし」


 アベルが頷いた。


「候補から昇格だ」

「昇格しましたわ」

「まだ買う数は決めてない」

「全部を少しずつです」

「そう言うと思った」


 私は、薄赤の飴を灯りにかざした。

 林檎色の光が指先に落ちる。


 次に、青みがかった透明の飴。

 冷たい色なのに、飴の中では少し柔らかい。


 乳白の飴は、光を通しすぎず、ふんわり白く膨らむ。

 緑の飴は、香草の葉を薄く透かしたようだった。

 紫の飴は、運河の夜に似ている。暗くはないのに、底がある。


「これは危険ですわ」


 私は小さく言った。


「また危険ですか」

 ノアが聞く。

「色を見ているだけで、時間が過ぎます」

「それは危険ですね」

「食べる前に満足しそうです」

「それなら食べすぎなくて済むな」

 アベルが言う。

「食べます」

「だろうな」


 屋台の主人が、小さな黒い紙箱を出した。

 内側に薄い白紙が敷かれている。そこへ、六色の透け飴が少しずつ並べられていく。

 飴が箱の中へ置かれるたび、灯りを受けて淡く光った。

 まるで、夜を小さく切って詰めているようだった。


「白銀列車で灯りにかざすなら、琥珀と乳白を少し多めにするといいですよ」

 主人が言った。

「なぜ分かりますの?」

「白い列車のお客様でしょう? 昨夜から、市の人間が少し噂しております」

「噂」

「霧の中に停まっているのに、窓だけずいぶん暖かそうだと」


 私は少しだけ窓の方角を見た。

 ここから白銀列車は見えない。

 けれど、運河沿いの霧の向こうに、あの白い車体がある。


「白銀列車の窓は、外から見ても暖かそうですのね」

「ええ。町の灯りとは違いますね」


 その時、屋台の後ろから、細い棒を持った少年が歩いてきた。


 棒の先には、小さな火がついている。

 少年は運河沿いの灯りを一つずつ点けて回っているようだった。年は十歳ほどだろうか。厚手の帽子をかぶり、首には毛糸の巻き物。袖口は少し濡れている。


 彼は屋台の灯りを確かめると、こちらをちらりと見た。

 それから、霧の向こうへ目を向ける。


「あの白い列車のお客さん?」

「はい」


 私が答えると、少年は少しだけ近づいた。


「あれ、町の灯りじゃないのに、あれだけ暖かそうなのは変です」

「変ですの?」

「変です。町の灯りは、人を呼んだり、道を見せたり、お店のものをきれいに見せたりするんです。でも、あの列車の窓は、外の人に見せてる感じじゃないです」


 少年は少し考えて、言った。


「中の人が帰ってくるためについてる感じがします」


 私は、その言葉に思わず微笑んだ。


 灯り屋も、硝子職人も、似たようなことを言っていた。

 見せる灯りではない。

 帰ってきた者の灯り。

 帰る場所の夜。


 そして今、灯りを点けて回る少年も、同じものを見ている。


「家の灯りだからですわ」


 私は答えた。


 少年は目を丸くした。


「列車なのに?」

「列車なのに、です」

「動くのに?」

「動いても、帰る場所です」

「変ですね」

「ええ。そこがよいところですわ」


 少年は少しだけ笑った。

 それから、棒の先の火を小さく揺らした。


「じゃあ、あの窓の灯りは、消さない方がいいです」

「なぜですの?」

「霧の中で、ああいう灯りがあると、町の灯りも少し柔らかく見えます」

「灯り番らしい言葉ですわね」

「灯り番なので」


 彼はそう言って、運河沿いの次の灯りへ向かった。

 細い棒の先の火が、霧の中で小さく揺れる。

 一つ、また一つ。

 少年が灯りを点けるたび、運河の水面に細い光が増えていった。


 私は、しばらくその背中を見送った。


「お嬢様、袖口が少し湿っております」

 ルークの声で、私は我に返った。

「ルミエラの霧は、よい場面にも容赦がありませんわね」

「はい。一度戻りましょう」

「夜茶と透け飴は?」

「包んでいただいております」

「完璧です」


 アベルが紙箱を受け取り、重さを確かめた。


「軽いな」

「軽い菓子ですもの」

「数は軽くない」

「色は必要です」

「食べきるなよ」

「眺めます」

「食うだろ」

「食べます」


 白銀列車へ戻る道で、私は紙箱を何度か見た。

 箱の蓋は閉まっているのに、中に色が入っていると思うだけで、少し楽しい。

 夜茶の包みからは、眠り花の香りが薄く漂っていた。


 霧の通りは、相変わらず美しい。

 そして、相変わらず外に長くいるには不便だった。


 足先が少し冷える。

 袖口が湿る。

 人の流れを避けるたび、灯りをゆっくり見る時間が削られる。


 けれど今夜は、それほど惜しくなかった。


 白銀列車へ戻れば、灯りにかざすものがある。

 まだ新しい琥珀硝子のランプはない。

 けれど、いつもの灯りでも、窓の外の霧灯りでも、透け飴はきっと光を受ける。


 扉が開き、白銀列車へ戻る。


 霧の冷えが切れた。

 床は乾いている。

 外套はルークの手へ渡り、靴の湿りが落とされる。

 私はいつもの席へ座った。


 灰緑の毛布が膝へ戻る。

 低卓に夜茶が置かれる。

 アベルが黒い紙箱を開ける。


 六色の透け飴が、白い紙の上に並んでいた。


「まあ」


 思わず声が出た。


 外の灯り市で見るよりも、白銀列車の中で見る方が、飴は静かだった。

 派手ではない。

 けれど、低卓の灯りを受けて、小さく息をしているように見える。


 私は琥珀色の飴を一つ、指でつまんだ。


「灯りに」

「かざすんですね」

 ノアが言う。

「もちろんです」


 私は、低卓の灯りの前に飴を持ち上げた。

 琥珀色が、指先へ落ちる。

 飴の中の泡が、さっき見た冷まし炉の硝子を思い出させる。

 まだ完成していないランプも、きっとこんなふうに、光を少しだけ迷わせるのだろう。


「これは、食べる前にしばらく見たいですわ」

「溶けるぞ」

 アベルが言った。

「では、少しだけ」

「少しだけだ」

「光を見る時間です」

「飴は時間で溶ける」

「現実を言わないでくださいまし」


 私は琥珀色の飴を口へ入れた。


 蜂蜜と柑橘が、ゆっくりほどける。

 甘い。

 けれど重くない。

 夜茶を一口飲むと、眠り花の香りが飴の甘さを少しだけ遠くへ運んだ。


「これは、正しい夜ですわ」


 私は深く頷いた。


 ノアは青みがかった薄荷の飴を灯りにかざしている。


「これ、灯りにかざすと冷たく見えるのに、口に入れるとすっきりしますね」

「青は肉には向きませんが、飴ならよいですわね」


 アベルが薄赤の林檎飴を見て言った。


「これは茶に合う」

「食べましたの?」

「確認だ」

「早いですわ」

「溶けるからな」


 ルークは、乳白色の飴を一つ、灯りのそばへ置いた。

 その飴は、強く透けない。

 けれど、光を柔らかく受けて、白い花の蕾のように見えた。


「これ、明日の灯りに合いそうですわ」


 私が言うと、ルークは静かに頷いた。


「はい。お嬢様のお顔にも、強すぎる色を落とさないかと」

「まだ顔色審査が続いております」

「大切でございます」

「頼もしいですわ」


 窓の外では、ルミエラの灯りが霧ににじんでいる。

 運河沿いのどこかで、あの灯り番の少年が、まだ小さな火を持って歩いているのかもしれない。


 町の灯りは、外へ向かって開いている。

 白銀列車の灯りは、中へ帰ってきた人を受け止める。


 私は、薄紫の透け飴を灯りにかざした。

 飴の向こうに、窓の外の霧灯りが小さく重なる。


 まだ新しいランプはない。

 けれど、待つ夜は退屈ではなかった。


 透ける飴菓子は、灯りにかざすためにある。

 そして、少し眺めてから食べるためにもある。


 私はその両方を、たいへん正しいと思った。

琥珀硝子を待つ夜に、透ける飴菓子と眠り花の夜茶を買いました。

灯りにかざしてから食べる飴は、白銀列車の待ち時間によく合います。


灯り番の少年の目にも、白銀列車の窓は少し残ったようです。

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