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婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第9章 琥珀ランプと宵の霧編 〜霧の運河町ルミエラ〜

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075 硝子職人の工房は暑すぎますが、灯りは見たいですわ

灯り屋で受け取った木札を手に、運河の奥の硝子工房へ向かいます。

霧の町は寒いのに、工房の中だけは冬を忘れるほど暑いようです。

「外は寒いのに、暑い場所へ行くというのは、少し納得がいきませんわ」


 翌日のルミエラは、朝から霧が薄く残っていた。


 夜ほど濃くはない。

 けれど、運河の水面から白い息のようなものが立ち上がり、石橋の下をゆっくり流れている。濡れた石畳は、昼の光を受けても乾ききらず、黒くしっとりしていた。


 白銀列車の中は、いつも通り暖かい。

 いつもの席には灰緑の毛布があり、そばには蜜蝋の木箱があり、低卓には朝の茶が置かれている。

 窓越しに見るルミエラは、今日も美しい町だった。


 ただし、外へ出ると袖が湿る。


「お嬢様、工房までは運河沿いを少し歩きます」

 ルークが外套を整えながら言った。

「少し、とはどのくらいですの?」

「お嬢様のお足元を優先して歩く場合、十分から十五分ほどかと」

「霧の町の十五分は、普通の町の三十分くらい袖を湿らせそうですわね」

「そのため、外套は昨日より湿りを弾くものにしております」

「頼もしいですわ」

「工房に入れば、今度は暑くなるそうです」

「外套の存在が、急に迷子になりますわね」


 ノアは、灯り屋から渡された木札を見ていた。

 木札の端には、小さな硝子灯りの印が押されている。裏には、運河沿いの道順と、工房名が彫られていた。


「炉を使う工房なら、かなり面白いと思いますよ。硝子の濁りをどう作るのか見られるかもしれません」

「ノアは昨日から楽しそうですわね」

「光をまっすぐ出さないための硝子ですよ。普通は透明にしたがるのに、わざと濁らせるんです。面白いに決まってます」

「透明なものを、わざと透明にしない」

「はい」

「少し分かる気がしますわ。夜も、はっきり見えすぎると疲れますもの」


 アベルは厨房の方から、小さな水筒を二つ持ってきた。


「冷たい茶だ。工房でのぼせる前に飲め」

「まだ行く前から、のぼせる前提ですの?」

「炉は舐めるな」

「料理人の顔になりましたわ」

「火は火だ。鍋でも炉でも、近づけば暑い」

「硝子を見に行くのであって、火に焼かれに行くのではありません」

「近いところに立てば、だいたい同じだ」


 私は水筒を受け取った。

 冷たい茶が入っているらしい。ルークがすぐに、もう一本を自分の荷物へ入れた。

 準備が早い。

 そして、少し不安になるほど実用的だった。


 白銀列車の扉が開くと、霧の冷えが入ってきた。


 昨夜の灯り市ほど人は多くない。

 けれど、昼のルミエラは静かすぎるわけでもなかった。水路のそばでは魚の箱を運ぶ人がいて、橋の上では濡れた布を担いだ職人が歩いている。夜の硝子灯りはまだ火を落とし、店の軒下で眠っていた。


 夜に美しかった町は、昼にはよく働く町になるらしい。


「足元、気をつけてください」

 ノアが言った。

「昨日滑りかけたので、今日は慎重です」

「慎重なティア、珍しいな」

 アベルが言う。

「霧の石畳には、少しだけ敬意を払うことにしました」

「敬意というより警戒だな」

「似たようなものですわ」


 運河沿いの道を歩く。

 外套の裾が、わずかに湿った空気を撫でる。石畳の隙間には、細い水が残っていた。橋を一つ渡るたび、運河の冷たい気配が足首へ触れる。


 やがて、霧の奥から赤い光が見えてきた。


 灯り市の赤ではない。

 赤い硝子の灯りでもない。

 もっと奥から、熱そのものが漏れているような色だった。


「あれが工房ですか」

 ノアの声が明るくなる。

「光というより、炉ですわね」

「炉ですから」

「正論ですけれど、あまり近づきたくない赤です」

 アベルが工房の煙突を見上げた。

「いい火だ」

「料理人として言っていますの?」

「火を見る目として言っている」

「同じでは?」


 工房は運河から少し奥へ入った場所にあった。

 石造りの低い建物で、屋根には太い煙突が二本ある。扉の上には、硝子の覆いをかぶせた小さな灯りの印。壁際には、砂袋と木箱が積まれ、使い込まれた鉄の道具が立てかけられていた。


 扉を開ける前から、熱が分かった。


 ルミエラの霧は、布へ入る。

 工房の熱は、頬へ来る。


 ルークが扉の前で私を見る。

「お嬢様、暑さを感じられましたら、すぐにおっしゃってください」

「入る前から、もう少し感じております」

「では、長居は避けましょう」

「灯りは見たいです」

「承知しております。無理のない範囲で」

「白銀列車へ帰る前提の外出は、たいへん心強いですわね」


 扉を開けると、冬が一歩で消えた。


 熱い。


 思わず、私はその場で止まった。

 外では袖を湿らせていた霧が、工房の中では一瞬で遠いものになった。頬が熱い。鼻の奥も熱い。木と鉄と灰と、焼けた砂のような匂いがする。


 炉があった。


 奥の大きな炉の中で、橙色の火が揺れている。

 火というより、口を開けた太陽の欠片のようだった。周囲の空気がゆらゆら歪み、鉄の道具の縁が赤く照らされている。


「……冬を入れ忘れた建物ですわ」

 私が言うと、低い声が返ってきた。


「冬なんぞ入れたら、硝子が固まる」


 炉の横に、一人の老人がいた。


 背はあまり高くない。

 けれど肩と腕が太く、手の甲には細かな火傷の跡がある。白い髪は後ろで雑に束ねられ、眉は濃く、目は炉の火よりも鋭かった。

 革の前掛けをつけ、長い鉄の棒を片手に持っている。


 この人が、灯り屋の言っていた硝子職人らしい。


 私は木札を差し出した。

「灯り屋の方から、こちらへ伺うようにと言われました」

 老人は木札を見て、鼻を鳴らした。

「あの女が寄こしたのか」

「はい」

「面倒な客だと言っていたか」

「それに近いことは言われましたわ」

「なら、合っている」


 初対面から、ずいぶん遠慮のない人である。


 ノアはすでに炉と道具に目を奪われている。

「この炉で覆いを作るんですか?」

「見るだけなら、そこに立て。近づくな。硝子は綺麗な顔をして、触ると皮を持っていく」

「はい」

「返事が早いやつは、だいたい後で近づく」

「気をつけます」

「ルーク、ノアを捕まえておいてくださいませ」

「承知いたしました」


 アベルは炉を見て、短く言った。

「この火なら、肉も焼けるな」

 老人の眉が動いた。

「硝子を見に来たのか、肉を焼きに来たのか」

「火が良かった」

「火は良いに決まっている。悪い火で硝子は溶けん」

「料理もそうだ」

「ほう」


 なぜか、老人とアベルの目が少し合った。

 火を見る者同士、通じるものがあるのかもしれない。


「私は焼かれに来たわけではありませんわ」

 私が言うと、老人は私を一瞥した。

「なら、炉の正面に立つな」

「もう少し早く言ってほしかったですわ」

「言われる前に熱いと分かれ」

「分かりましたので、一歩下がります」


 ルークがすぐに私を炉の正面から少し外した。

 それだけで、熱の当たり方が違う。頬の熱は残るが、息が少ししやすくなった。


「お嬢様、水を」

「ありがとうございます」


 冷たい茶を少し飲む。

 喉を通る冷たさが、工房の熱の中でやけにありがたかった。


 老人は、作業台の上に小さな硝子片をいくつか並べた。


 透明なもの。

 琥珀色のもの。

 乳白色に濁ったもの。

 薄く蜂蜜色が流れたもの。

 細かな泡を含んだもの。


「灯り屋から聞いている。客に見せる灯りじゃない。席の横に置く灯りだそうだな」

「はい」

「部屋の真ん中に置く灯りは、客に見せる灯りだ」


 老人は、透明な硝子片を摘まみ上げた。


「よく光る。よく目立つ。店には向く。広い部屋にも向く」


 次に、琥珀色の硝子を取る。


「椅子の横に置く灯りは、帰ってきた者の灯りだ」


 私は、その言葉に息を止めた。


「帰ってきた者の灯り」

「そうだ。明るすぎると休まらん。暗すぎると役に立たん。目立ちすぎると邪魔だ。弱すぎると寂しい。面倒な場所だ」

「面倒ですわね」

「だから、面白い」


 老人は、硝子片を炉の光へかざした。

 琥珀色の中で、白い濁りがふわりと浮いた。


「お前さんが欲しいのは、これに近い」

「分かりますの?」

「灯り屋が書いて寄こした。茶の湯気、毛布、顔色、飯、本、眠気。注文が多い」

「やはり多いですのね」

「多い。だが、悪くない。使う場所を言えない客よりずっといい」


 老人は、作業台を指で叩いた。


「灯りは、光を作る仕事じゃない」

「違いますの?」

「影を作る仕事だ」


 ノアが目を輝かせた。


「影を?」

「そうだ。全部明るくしたら、ただの昼だ。夜の灯りは、見えるところと見えないところを決める。何を柔らかく見せて、何を夜に残すか。それで落ち着くかどうかが決まる」

「なるほど……」


 ノアが本気で聞き入っている。

 私も、かなり本気で聞いていた。


 何を照らすか。

 何を照らさないか。


 それは、白銀列車の夜にとても似合う考え方だった。


「では、硝子の濁りは、夜を残すためですの?」

「少し違う。濁りは、光を急がせないためだ」

「光を急がせない」

「透明な硝子は、光をそのまま出す。強い光なら強いままだ。濁りを入れると、光が中で少し迷う」

「迷子の湯気と似ていますわね」

「何だそれは」

「昨日、灯りのそばの湯気が綺麗でしたの」

「そうか。茶を飲む灯りか」

「はい」

「なら、光も少し迷った方がいい」


 老人は鉄の棒を炉へ差し入れた。


 炉の奥で、棒の先が赤くなる。

 やがて、先端にどろりとした硝子が巻き取られた。溶けた硝子は、橙色に光っている。蜜のようでもあり、火のしずくのようでもあり、小さな月を炉から取り出したようでもあった。


「……月が溶けていますわ」

 私が思わず言うと、老人がちらりと見た。

「詩を言う客は苦手だ」

「感想ですわ」

「なら短くしろ。硝子は冷める」


 老人は棒を回した。

 溶けた硝子が、棒の先で丸くなっていく。少し傾ければ垂れそうなのに、落ちない。火の色をしているのに、ゆっくり形を持ち始める。


 ノアが小声で言った。

「すごい……温度が下がる前に形を作ってる」

「当たり前だ」

 老人が言う。

「硝子は待たん。待たせるなら、こっちが手を早くする」

「でも、急ぎすぎると?」

「歪む」

「なるほど」

「分かった顔をするな。十年早い」

「はい」


 アベルが炉を見たまま呟いた。

「火が強いだけじゃ駄目なんだな」

「強いだけの火は、だいたい下手だ」

 老人が即答する。

「料理もそうだ」

「やっぱり同じではありませんの?」


 私が言うと、アベルと老人が同時にこちらを見た。

 少しだけ、似た顔だった。


 老人は溶けた硝子に、白い粉のようなものを少し加えた。

 それから、薄い琥珀色の硝子片を重ねる。

 棒を回すたびに、橙色の中へ白い筋がゆっくり入っていった。


「その白いものが、濁りですの?」

「そうだ。入れすぎると眠い灯りになる」

「眠い灯りは、悪くない気もします」

「寝るだけならな。読むなら駄目だ」

「確かに」

「薄すぎると、光が尖る。濃すぎると、茶の湯気が死ぬ」

「湯気が死ぬ」

「見えなくなるという意味だ」

「表現が強いですわ」

「職人は弱い言い方をしない」


 ルークが、私の顔を見た。

「お嬢様、頬が赤くなっております」

「炉のせいです」

「少し下がりましょう」

「ですが、今が」

「見えます。こちらへ」


 私は名残惜しく思いながら、一歩下がった。

 それでも、炉の光は十分に見える。熱も、十分すぎるほど届く。

 頬が熱い。額にも少し汗が浮いてきた。


「冬の町にいるはずなのに、顔だけ夏ですわ」

 私が言うと、老人が鼻で笑った。

「硝子の夏だ」

「季節を勝手に作らないでくださいまし」

「炉の前は一年中こうだ」


 ノアは目を離さない。

 老人の手元、棒の回し方、硝子の膨らみ、白い筋の入り方を追っている。

 アベルは火の色を見ている。

 ルークは私の体調を見ている。

 それぞれ、見る場所がまったく違った。


 老人は、棒の先の硝子を少し膨らませた。

 息を入れたわけではない。道具で押し、回し、支え、形を整えていく。

 丸く、低く、少し裾の広い覆い。

 卓上灯にかぶせた時、光が下へ落ちすぎず、横へ逃げすぎず、手元と湯気を包むような形。


「これくらいだ」

 老人が言った。

「もうできましたの?」

「まだだ。形が見えただけだ」

「灯りも、すぐには持ち帰れませんのね」

「熱い硝子を持ち帰りたいなら止めん」

「遠慮します」

「冷ます。歪みを抜く。合わせる。明日の夜だ」

「明日の夜」

「急がせるな。急がせた硝子は割れる」


 私は、まだ橙色に光る硝子を見た。


 今は熱くて、触れられない。

 光も強く、夜を柔らかくするどころではない。

 けれど、冷めて、色が落ち着き、白い濁りが静かになれば、きっと昨日の見本よりも白銀列車に合う覆いになる。


「では、これは待つ灯りですわね」

 私が言うと、老人は少しだけ口元を歪めた。

「待てる客なら、いい灯りになる」

「待つ場所なら、あります」

「白い列車か」

「はい」

「なら、そこで待て。ここで待つと干からびるぞ」

「その通りですわ」


 ルークがすぐに冷たい茶を差し出した。

 私はありがたく飲んだ。

 冷たさが喉を落ちていく。工房の熱の中では、ただの茶までごちそうになる。


 老人は、作りかけの硝子を慎重に別の炉へ入れた。

 先ほどの大きな炉よりも穏やかな光の箱だった。


「そこは?」

 ノアが尋ねる。

「冷まし炉だ。ゆっくり冷ます」

「一気に冷ますと?」

「割れる」

「やっぱり」

「硝子は急に変わるのが嫌いだ」

「人みたいですわね」

 私が言うと、老人がこちらを見た。

「人より正直だ。嫌ならすぐ割れる」

「分かりやすくて、怖いですわ」


 工房の奥から、別の職人が細い硝子管を運んでいった。

 壁際の棚には、作りかけの灯りの覆いが並んでいる。透明なもの、青いもの、赤いもの、乳白色のもの。どれも美しいが、昨日の店で見たように、置く場所によって合う合わないがあるのだろう。


 私は、冷まし炉の中の琥珀硝子をもう一度見た。

 まだ熱い色をしている。

 だが、その中に白い筋がゆっくり沈んでいるようだった。


「この硝子が冷めたら、夜を柔らかくできますのね」

「硝子だけでは駄目だ」

 老人が言った。

「台座も、魔石の強さも、置く場所もいる」

「分かっています」

「ならいい」

「けれど、硝子が一番大事に見えます」

「今回はな」

「今回は?」

「灯りは、誰がどこで何をしたいかで、主役が変わる」

「深いですわね」

「当たり前だ。浅い灯りはすぐ飽きる」


 ノアが感心したように息を吐いた。

「これ、客室用に応用できそうですね」

 私はすぐに首を振った。

「それは違いますわ」

「早いですね」

「この灯りは、たくさん並べる灯りではありません。帰ってきた場所のそばに、一つあるからよいのです」

「なるほど」

「客室全部に同じものを置いたら、たぶん急に宿の備品になります」

「それは嫌ですね」

「嫌です」


 老人が満足そうに頷いた。

「分かってるじゃないか」

「褒められました?」

「少しな」

「ありがとうございます」

「調子に乗るな。まだ硝子は冷めてない」

「厳しいですわ」


 アベルが工房の扉の方を見た。

「そろそろ出た方がいい。ティアの顔が赤い」

「そんなに?」

「焼き菓子みたいになってきた」

「人を菓子にしないでください」

 ルークがすぐに頷く。

「お嬢様、一度外へ出ましょう。急に冷えすぎないよう、外套は羽織ってからに」

「外は霧、中は炉。体が忙しいですわね」

「はい。白銀列車へ戻りましたら、すぐに休めるようにいたします」


 私は老人へ頭を下げた。

「ありがとうございました。明日の夜、また伺います」

「取りに来るのは灯り屋でもいい」

「自分で見たいです」

「暑いぞ」

「今日は分かりました」

「分かった上で来るなら、好きにしろ」


 老人はそれ以上、愛想のよいことは言わなかった。

 けれど、冷まし炉の中の硝子へ目を戻す手つきは、とても丁寧だった。


 工房の扉を出ると、今度は霧が冷たかった。


 外の空気が頬に触れる。

 さっきまで暑すぎたはずなのに、今度は首元がひやりとする。ルークがすぐに外套を直し、湿った風が入らないよう襟を整えた。


「生き返りますわ」

 私が言うと、ノアが笑った。

「でも、すぐ寒くなりますよ」

「ルミエラは加減を知りませんのね」

「霧と炉の町ですから」

「その二つを一日に味わうと、白銀列車のありがたみが増しますわ」


 運河沿いを戻る途中、私は何度か振り返った。

 工房の窓から、橙色の光が漏れている。

 あの中で、琥珀色の硝子がゆっくり冷めている。


 外の霧は冷たい。

 足元の石畳は濡れている。

 頬には、まだ炉の熱が残っている。


 白銀列車へ戻ったら、きっとその全部がほどける。


 そして明日の夜には、あの硝子が灯りになる。


「楽しみですわね」

 私が言うと、ルークが静かに答えた。

「はい。お嬢様の夜に、よい灯りになるかと」

「まだ灯っていないのに?」

「お嬢様が、すでに楽しみにしておられますので」

「それは、かなりよい兆しですわ」


 アベルが短く言った。

「戻ったら冷たい茶だな」

「さっき飲みました」

「今度は座って飲め」

「それは必要です」

「軽い菓子も出す」

「透け飴ですの?」

「まだ買ってない」

「では、別の軽い菓子」

「ある」

「帰ればすぐ座れる場所があるのは、たいへん頼もしいですわね」


 ノアは木札の裏を見ながら、まだ工房のことを考えているようだった。

「光を急がせない硝子、か……いい言い方でしたね」

「ええ」

「夜を硬くしないための濁り」

「ノア、好きそうですわ」

「好きです」

「私は、暑すぎない工房ならもっと好きでした」

「そこは無理ですね」


 白銀列車の扉が見えた。


 白い車体は、霧の中でもきれいに見える。

 灯りはまだ昼用の穏やかな明るさで、扉の向こうには乾いた床と、いつもの席と、灰緑の毛布が待っている。


 私は工房の熱を頬に残したまま、白銀列車へ戻った。


 扉が閉まる。

 霧の冷えが切れる。

 外套をルークへ預ける。

 靴の湿りを落とす。

 いつもの席へ沈む。


 灰緑の毛布が膝へ戻った瞬間、工房の熱も、外の霧も、どちらも少し遠くなった。


 低卓に置かれた冷たい茶の表面が、淡く揺れている。

 今はまだ、そこに琥珀色の灯りはない。


 けれど私は、そこに灯るはずの光を、もう想像していた。


 硝子職人の工房は暑すぎた。

 頬も熱くなった。

 冷たい茶がやたらとおいしかった。

 それでも、あの炉の奥で生まれる灯りは、見に行く価値があった。


 白銀列車の夜は、炉の奥でゆっくり冷めている。

硝子職人の工房で、琥珀硝子の覆いを作ってもらうことになりました。

外は霧で冷たく、工房は炉で暑すぎる町です。


琥珀硝子は、明日の夜までゆっくり冷まされます。

それまで、白銀列車で待つ時間です。

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