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婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
最終章 白銀列車

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084 【最終話】どこへでも行けますわ

 国境を越えた翌朝、白銀列車の窓には、知らない森が映っていた。


 王国の森より、色が淡い。

 幹は細く、葉は青みがかっている。

 低い枝には、昨日アベルが気にしていた銀色の実が、朝の光を受けて小さく光っていた。


 私はいつものソファに座り、琥珀ランプの横で紅茶を飲んでいた。


 琥珀ランプは、まだ眠っている。

 灰緑の毛布は膝の上にある。

 窓辺には、港町の分厚いガラス器。

 棚には、夜間停車駅の眠り草茶。

 食堂車の方からは、焼いたパンと、知らない香草の匂いがしている。


 国境を越えても、朝はちゃんと来た。


「お嬢様」


 ルークがラウンジに入ってきた。


「王都からの書状一式は、小包棚の奥へ収めました」


「燃やさなくてよろしかったの?」


「お望みであれば、いつでも」


「では、まだ置いておきましょう。あとで笑えるかもしれませんわ」


「承知いたしました」


 王都から届いた帰還許可証。

 白銀列車を王国重要魔導資産として登録するための書類。

 国外移動を許可制にするための別紙。


 それらは今、白銀列車の小包棚の奥にある。


 王都の赤い封蝋も、立派な筆跡も、もう朝食の匂いには勝てない。


 アベルが食堂車から顔を出した。


「朝にノアが確認した香草、焼いてみた」


「もう焼いたのですか」


「毒見は済ませた」


 ルークがすぐに振り向く。


「誰がですか」


「俺が」


「それを毒見とは呼びません」


 そこへ、ノアが地図を抱えてラウンジに入ってきた。

 香草の葉を少し潰し、匂いを確かめる。


「強い毒性の反応はなさそうです。ただ、食べすぎはやめてください」


「ほらな」


「ほらな、ではありません」


 アベルは皿を持ったまま、視線をそらした。


「苦くはなかった」


「答えになっておりません」


 私は皿を見た。


 薄く焼いたパンの上に、緑がかった香草が散らしてある。

 王国でよく使う香草より香りが軽く、甘い。

 まだ名前も知らない。


「いただきますわ」


「お嬢様」


「少しだけですわ」


 私は小さく切ったパンを口に運んだ。


 香草の匂いが、思ったより柔らかい。

 青くて、甘い。

 焼いたパンの温かさと合っていた。


「これは、よいですわ」


 アベルが満足そうに頷く。


「だろ」


「名前は?」

「知らん」

「まあ」


 私はもう一口食べた。


「知らないまま美味しいものもあるのですわね」


「名前はあとでノアに調べさせる」


「僕は植物図鑑じゃないんですけど」


 ノアはそう言いながらも、すでに香草を見ていた。


 腕の下には、王国の地図と、昨日から書き足している新しい紙がある。

 地図の余白には、昨日越えた国境線と、白銀列車が進んだ白い線が薄く描かれていた。


 王国の地図にはなかった線。

 王都の許可証には書かれていない線。


 私が伸ばした線だ。


「この先はどうなっていますの?」


 私が尋ねると、ノアは地図の新しい紙を広げた。


「森を抜けると、小さな集落があります。王国側の資料だと名前が曖昧でしたが、現地の標識らしきものが見えました」


「読めましたの?」


「半分くらいです。文字が少し違います」


「まあ」


 私は窓の外を見た。


 知らない森。

 知らない文字。

 知らない香草。


 昨日まで王都の紙は、私を戻そうとしていた。

 けれど、今朝の私の前にあるのは、戻るための道ではない。

 これから覚えるものばかりだ。


「町へ寄れそうですの?」


「町の手前で白銀列車を止めるなら問題ありません。白い線路も、今の地形なら安定して伸ばせます。ただ、相手の国の人がどう反応するかは分かりません」


「白い列車が急に来たら、驚くでしょうね」


「かなり」


「では、驚かせすぎないようにしましょう」


 アベルが腕を組む。


「無理じゃないか」


「なぜですの?」


「白い列車が森から出てくる時点で、だいぶ無理だろ」


「それはそうですわね」


 私は頷いた。


「では、せめて窓を綺麗にしておきますわ」


「見た目の話か」


「第一印象は大切ですわ」


 ルークはすでに窓の方を確認していた。


「外装は整っております。昨夜の走行でついた葉も、朝のうちに落としてあります」


「さすがですわ」


「当然です」


 白銀列車は、今日も白い。


 王都の屋敷にあった白とは違う。

 壁やドレスや手袋の、汚してはいけない白ではない。

 走って、雨を受けて、霧を抜けて、国境を越えて、それでも朝になるとまた輝く白だ。


 私はその白が好きだった。


 食堂車から、香草パンの追加が運ばれてくる。

 ラウンジには、湯気と焼き目の匂いが広がった。


 知らない国の朝食が、ひとつ増えた。


「王都に戻っていたら」


 私はぽつりと言った。


 三人の視線がこちらを向く。


「この香草パンは食べられませんでしたわね」


 アベルが少し笑った。


「そこか」


「大切ですわ」


「まあ、そうだな」


 ノアが地図を畳みながら言う。


「王都に戻っていたら、この森も見られませんでした」


「この白い線も伸びませんでしたわ」


 ルークが静かに続けた。


「お嬢様が望まれた朝では、なかったでしょう」


「ええ」


 私は紅茶を置いた。


 王都へ戻れば、きっとたくさんのものが戻ってくる。

 名前、身分、屋敷、衣装、手順、予定表。

 そして、誰かが決めた私の立ち位置。


 でも、そこにはこの朝がない。


 知らない森を見ながら、知らない香草のパンを食べる朝。

 ノアが地図の余白を見て、アベルが食材を疑いながら焼いて、ルークが窓と安全を整えてくれる朝。

 私が白い線路を伸ばせば、そのまま家ごと進める朝。


 私は、こちらの朝を選ぶ。


「お嬢様」


 ルークが言った。


「王都から再度の書状が来た場合、どのように扱いましょう」


「内容によりますわね」


「帰還命令であれば?」


「小包棚へ」


「白銀列車の登録命令であれば?」


「小包棚の、さらに奥へ」


「承知いたしました」


 ノアが少し笑い、地図の端を指で押さえた。


「では、王都の書状は棚の奥。こちらの地図は前へ進める。そういう扱いで」


「分かりやすいですわ」


 私は窓辺に立った。


 森の向こうに、煙が見える。

 細く、薄く、朝の空へ上がっている。


「ノア。あれは?」


「集落だと思います。煙の数からすると、十数軒くらいかもしれません」


「市場はありますの?」

「そこまではまだ」

「パン屋は?」

「まだです」

「牛乳は?」

「まだ分かりません」

「香草はありますわね」

「それはあります」


 私は満足して頷いた。


「では、十分ですわ」


 アベルが皿を持ち上げる。


「昼までに寄るなら、何か買えるかもしれないな」


「買いましょう」


「まだ何があるか知らないだろ」


「だから買うのですわ」


「無敵だな」


「白銀列車がありますもの」


 私は窓の外へ手を向けた。


 森の手前で、白い線路が輝きを増す。

 草の間を抜け、浅い斜面を越え、朝の煙が見える方へ伸びていく。


 誰かが許した道を進むのではない。


 私が線路を伸ばし、白銀列車が進む。

 その中で、私たちは朝食を食べ、毛布を畳み、夜になればランプを灯す。


 それでいい。


 それがいい。


「お嬢様」


 ルークが、いつものように静かに聞いた。


「次の町へ向かいますか」


「ええ」


 私は頷いた。


「まずは、その集落で朝の市場を探しましょう」


「朝食の後に朝の市場か」


 アベルが言った。


「朝は何度あってもよいものですわ」


「名言みたいに言うな」


 ノアが笑いながら、地図に新しい印をつける。


「では、森の手前で速度を落とします。ティアさん、線路はこのまま少し右へ。あの大きな青い木を避ける形が良さそうです」


「分かりましたわ」


 私は指先を動かした。


 白い線路が、青い葉の大木を避けて、やわらかく右へ曲がる。

 白銀列車も、それに合わせて静かに進路を変えた。


 車内は揺れない。

 紅茶の水面も、ほとんど動かない。

 灰緑の毛布が、膝の上で温かい。


 王都の許可証には、この曲線は書かれていない。

 王都の地図にも、この朝は載っていない。


 でも、たしかにここにある。


 ルークが外套を整える。

 アベルが香草パンを紙に包む。

 ノアが新しい地図を押さえる。


 私は琥珀ランプを見た。


 夜になれば、またこの灯りが起きる。

 知らない国の夜を、きっと柔らかくしてくれる。


 白銀列車は森へ近づいていく。


 窓の向こうで、青い葉が朝の光を受けて揺れた。

 その奥に、まだ見ぬ集落の屋根が見える。


 私は紅茶を飲み干し、空になったカップを置いた。


「では、行きましょう」


 白い線路が、国境の向こうでさらに先へ伸びる。


 王都へ戻る予定はありませんわ。


 だって、私の家はもう、国境の向こうまで走れますもの。

ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。

ティアは王都へ戻らず、白銀列車ごと国境の向こうへ進みました。


白銀列車は、彼女の家です。

そしてその家は、これからも知らない町と、知らない朝食と、柔らかい夜の灯りを探して走っていきます。

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