073 灯り市は綺麗ですが、人が多いのは困りますわ
宵の鐘が鳴り、ルミエラの灯り市が始まりました。
霧ににじむ灯りは美しいのですが、運河沿いの石畳には、人も湿気も集まります。
宵の鐘は、霧の中で鳴った。
からん、と乾いた音がしたのに、霧に包まれた途端、輪郭が柔らかくなった。
一つ目の鐘は運河の水面を滑り、二つ目の鐘は石橋の下へ沈み、三つ目の鐘は白銀列車の窓硝子を薄く震わせた。
「始まりましたわね」
私はいつもの席から立ち上がった。
灰緑の毛布は、ルークの手で畳まれて、蜜蝋の木箱へ戻される。外套はすでに乾かされ、袖口も整えられていた。靴底も、湿った石畳用に拭き直されている。
「お嬢様、外套を」
「お願いします」
ルークが肩に外套を掛ける。
先ほどよりも、少しだけ重い。湿りに備えて、肩掛けを一枚増やしたのだろう。
「重くありませんか」
「安心の重さですわ」
「では、そのままで」
「ただし、長時間は困ります」
「長時間にはいたしません」
ノアは窓際で、灯り市の通りを見ていた。
「かなり人が出てますね」
「昼間はあんなに静かでしたのに」
「夕方から本気を出す町ですから」
「本気を出しすぎではありませんこと?」
窓の外では、運河沿いの通りが昼とは別の場所になっていた。
橋の欄干に吊られた小さな硝子灯り。
店先から張られた細い紐に並ぶ丸い灯り。
水辺の低い台に置かれた卓上灯。
屋台の軒下で揺れる赤い灯り。
霧の中で淡く浮く青白い灯り。
光はまっすぐ進まない。
霧に触れ、ほどけ、丸くなり、水面へ落ちる。
運河には、灯りが縦に長く伸びていた。赤は細い帯になり、琥珀は蜂蜜を落としたように揺れ、淡い青は冷たい硝子の欠片のように水へ沈んでいる。
「綺麗ですわ」
私は素直に言った。
「ええ」
ルークが頷く。
「ですが、混んでおります」
「綺麗の次に、すぐ現実を置かないでくださいまし」
「現実は足元にございます」
「足元に現実がある町は困りますわね」
アベルは外の屋台を見ていた。
「湯気も出てきたな」
「夜茶ですの?」
「茶もある。甘いものもある。油の匂いも少し強い」
「油は避けます」
「そうしろ。灯りを見る前に腹が重くなる」
「今夜は軽く、甘く、眠くなるものですわ」
「なら透け飴だな」
「まだ見ていないのに、もう正解の気がします」
白銀列車の扉が開くと、霧の冷気が再び頬に触れた。
さきほどより町は明るい。
けれど、寒さは減っていない。
むしろ人の熱と灯りの熱がある分、霧が近く感じられた。温かいものと冷たいものが混ざり、袖の表面にじわりと乗る。
「お嬢様、右側に段差がございます」
「はい」
「左から人が来ます」
「はい」
「前方、石畳が濡れております」
「ルミエラの夜は、ずいぶん忙しいですわね」
「お嬢様の周囲だけでも、情報量が多うございます」
ルークの手が、私の肘の少し後ろにある。
触れすぎず、離れすぎず、足元が滑ったらすぐ支えられる位置だった。
私は一歩ずつ、灯り市へ入った。
最初に感じたのは、光ではなかった。
匂いだった。
蝋の甘い匂い。
油の重い匂い。
湿った木の匂い。
熱を持った硝子の匂い。
夜茶らしい香草の匂い。
どこかで焼かれている薄い菓子の匂い。
それが霧と混ざって、鼻の奥へゆっくり入ってくる。
「……綺麗ですが、濃い町ですわ」
私が言うと、ノアが笑った。
「光も匂いも霧で逃げにくいんでしょうね」
「逃げない灯り市」
「聞こえはいいですね」
「人も逃げてくれませんわ」
通りは、思っていたより混んでいた。
観光客らしい人々。
地元の親子。
肩から灯りを提げた職人。
箱に硝子球を詰めて運ぶ少年。
夜茶の屋台に並ぶ老人たち。
恋人らしい二人組。
灯りを買うのではなく、灯りに照らされるためだけに歩いているような人々。
白銀列車の窓から見た時、灯り市は静かな絵のようだった。
外へ出ると、絵の中には肘があり、荷物があり、濡れた靴があり、急に立ち止まる人がいた。
「人が多いですわ」
「灯り市ですからね」
「灯りを見るには、人が邪魔ですわ」
「人も灯りを見に来ていますから」
「理屈は分かります。納得は別です」
目の前を、大きな箱を抱えた男が通った。
箱の中には、小さな硝子灯りがいくつも入っている。まだ火は入っていないのに、周囲の灯りを受けて、箱の中で淡く光っていた。
私は思わず足を止めた。
「これは、足を止めますわね」
「お嬢様、止まるならこちらへ」
ルークがすぐに私を通りの端へ誘導した。
直後に、後ろから来た人の流れが通り過ぎる。
「立ち止まるにも技術が必要ですのね」
「灯り市では、特に必要かと」
「優雅ではありませんわ」
「安全ではございます」
ノアは、店先の魔石灯を覗き込んでいた。
小さな台座の上に、透明な石が収まっている。石の奥で淡い光が揺れ、薄い硝子の覆いが光をぼかしていた。
「これ、魔力をそのまま出してないですね」
「分かりますの?」
「硝子で一度散らしてます。だから眩しくないんです。光源自体は小さいのに、霧に当たると大きく見える」
「つまり、霧に働かせているのですわね」
「言い方としては、そうです」
「霧は袖も湿らせますが、灯りも綺麗にする。働きすぎですわ」
「過労気味ですね」
別の店では、色硝子の吊り灯りが並んでいた。
赤。
琥珀。
薄い緑。
淡い青。
乳白色。
葡萄酒のような紫。
灯りの下を通る人の顔が、一瞬ずつ色を変える。
赤い灯りの下では頬が温かく見え、青い灯りの下では唇まで冷えて見える。琥珀色の下では、誰もが少しだけ帰り道に近い顔になった。
「青い灯りは、やはり難しいですわね」
私は小さく言った。
「肉が冷えて見える」
アベルが言う。
「人も少し冷えて見えます」
「夜に腹を減らす色じゃない」
「灯りを見ても、食べ物へ戻りますのね」
「灯りは食卓に影響する」
「それは大切ですわ」
アベルの視線は、すでに屋台へ向いていた。
薄い紙箱に入った飴。
星の形をした砂糖菓子。
透明な板のような蜜菓子。
湯気の立つ夜茶。
黒い小鍋で温められている蜂蜜。
小さな匙で掬われる白いクリーム。
私は紙箱の前で足を止めた。
「透けていますわ」
「まだ買うな」
アベルが即座に言った。
「見ているだけです」
「目がもう買ってる」
「灯りにかざす必要があります」
「必要はあるな」
「ありますわよね」
「味を見てからだ」
店の娘が、薄い琥珀色の飴を一つ、小さな銀の挟みで持ち上げた。
後ろの灯りにかざすと、飴の中に小さな泡が見えた。泡は星のようで、光は飴の端で濃くなり、真ん中では蜂蜜のように透けた。
「……これは、危険ですわ」
私は息をひそめた。
「何がですか」
ノアが聞く。
「見るだけで、買った後のことを考えてしまいます」
「食べるところ?」
「いいえ。白銀列車の窓辺で、灯りにかざすところです」
「食べる前に飾るんですね」
「そして少し眺めてから食べます」
「結局食べますね」
アベルが店の娘へ短く尋ねた。
「甘さは?」
「蜂蜜と柑橘です。夜茶と一緒にどうぞ」
「重くないか」
「夜の菓子ですから。舌に残りすぎないようにしています」
「よし」
「よし、とは?」
私が見ると、アベルは当然のように言った。
「候補だ」
「買わないのでは?」
「まだ買うなと言った。候補にするなとは言ってない」
「料理人の審査が入りましたわ」
しかし、今夜の目的は菓子だけではない。
私は灯り市の奥へ目を向けた。
人の流れは、運河に沿ってゆっくり進んでいる。橋の向こうには、さらに明るい通りがあった。硝子の灯りが何十も吊られ、霧の中で丸く、丸く、膨らんでいる。
美しい。
だが、遠い。
人が多いせいで、一つの灯りをゆっくり見ようとしても、すぐ誰かの肩が入る。
石畳の冷えは靴底から上がってくる。
袖口はまた少し湿り始めている。
夜茶の湯気は魅力的だが、屋台の前には列がある。
硝子灯りの店には、すでに人だかりができていた。
「灯り市は綺麗ですが、人が多いのは困りますわ」
私は正直に言った。
ノアが苦笑する。
「綺麗なものには、人が集まりますからね」
「では、綺麗なものだけ白銀列車に来て、人は来ない仕組みにしたいですわ」
「この列車、そういう仕組みに向いてますよね」
「正しい仕組みです」
ルークが周囲を見た。
「お嬢様、あちらの店なら、少し人が少ないようです」
「灯りの店ですの?」
「卓上灯がございます」
「見ます」
案内されたのは、運河から少し奥へ入った小さな店だった。
表通りほど派手ではない。吊り灯りも少ない。看板も控えめで、扉の横に小さな琥珀色の灯りが一つ置かれているだけだった。
けれど、その灯りは不思議と目に残った。
強くない。
明るすぎない。
遠くから客を呼ぶというより、近づいた人だけを受け止めるような光だった。
店先には、卓上灯が並んでいる。
背の低いもの。
細い脚のもの。
丸い硝子をかぶせたもの。
乳白色の覆いを持つもの。
琥珀色の硝子に、小さな泡が閉じ込められているもの。
私は、その前で足を止めた。
「ここは、少し静かですわね」
「表の灯りは、目立つための灯りですから」
奥から、女の声がした。
店主らしい女性だった。
年はよく分からない。髪はゆるくまとめられ、肩に厚手のショールを掛けている。指先には、蝋と硝子を扱う人の細かな跡があった。
彼女は私たちを見て、すぐに売り込むことはしなかった。
ただ、私の顔と、外套の袖と、ルークの立ち位置と、ノアが覗き込んでいる魔石灯と、アベルが飴の紙箱を気にしているところを順番に見た。
「表通りの灯りが合わなかったかい」
「まだ合うかどうかも分かっておりませんわ」
「でも、あそこに長くいる顔じゃない」
「人が多いのです」
「だろうね。あっちは、人に見せる灯りが多いから」
「人に見せる灯り」
「店を明るく見せる。商品を綺麗に見せる。通りを華やかに見せる。そういう灯りだよ」
女性は、店先の小さな卓上灯に指を添えた。
琥珀色の硝子の内側で、光が少しだけ揺れる。
灯りは広がりすぎず、すぐそばの木の台と、女性の指先だけを柔らかく照らした。
「あなたが探してるのは、そういうのじゃないね」
私は少しだけ目を細めた。
「分かりますの?」
「灯りを買いに来る客の顔は、だいたい見る。部屋を明るくしたい顔。客に見せたい顔。店を目立たせたい顔。寝る前に本を読みたい顔。怖いから暗くしたくない顔」
女性はそこで、少し笑った。
「お嬢さん、部屋に飾る灯りを探してる顔じゃないね」
「では、どんな顔ですの?」
「帰る場所の夜を変えたい顔だ」
霧の向こうで、宵の鐘の余韻がまだ少しだけ残っていた。
灯り市に入りました。
霧ににじむ灯りは美しく、けれど人も多く、袖も足元も休まりません。
卓上灯の店で、持ち帰りたい夜の形が少しずつ見えてきます。




