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婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第9章 琥珀ランプと宵の霧編 〜霧の運河町ルミエラ〜

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073 灯り市は綺麗ですが、人が多いのは困りますわ

宵の鐘が鳴り、ルミエラの灯り市が始まりました。

霧ににじむ灯りは美しいのですが、運河沿いの石畳には、人も湿気も集まります。

 宵の鐘は、霧の中で鳴った。


 からん、と乾いた音がしたのに、霧に包まれた途端、輪郭が柔らかくなった。

 一つ目の鐘は運河の水面を滑り、二つ目の鐘は石橋の下へ沈み、三つ目の鐘は白銀列車の窓硝子を薄く震わせた。


「始まりましたわね」


 私はいつもの席から立ち上がった。

 灰緑の毛布は、ルークの手で畳まれて、蜜蝋の木箱へ戻される。外套はすでに乾かされ、袖口も整えられていた。靴底も、湿った石畳用に拭き直されている。


「お嬢様、外套を」

「お願いします」


 ルークが肩に外套を掛ける。

 先ほどよりも、少しだけ重い。湿りに備えて、肩掛けを一枚増やしたのだろう。


「重くありませんか」

「安心の重さですわ」

「では、そのままで」

「ただし、長時間は困ります」

「長時間にはいたしません」


 ノアは窓際で、灯り市の通りを見ていた。


「かなり人が出てますね」

「昼間はあんなに静かでしたのに」

「夕方から本気を出す町ですから」

「本気を出しすぎではありませんこと?」


 窓の外では、運河沿いの通りが昼とは別の場所になっていた。


 橋の欄干に吊られた小さな硝子灯り。

 店先から張られた細い紐に並ぶ丸い灯り。

 水辺の低い台に置かれた卓上灯。

 屋台の軒下で揺れる赤い灯り。

 霧の中で淡く浮く青白い灯り。


 光はまっすぐ進まない。

 霧に触れ、ほどけ、丸くなり、水面へ落ちる。

 運河には、灯りが縦に長く伸びていた。赤は細い帯になり、琥珀は蜂蜜を落としたように揺れ、淡い青は冷たい硝子の欠片のように水へ沈んでいる。


「綺麗ですわ」


 私は素直に言った。


「ええ」

 ルークが頷く。

「ですが、混んでおります」

「綺麗の次に、すぐ現実を置かないでくださいまし」

「現実は足元にございます」

「足元に現実がある町は困りますわね」


 アベルは外の屋台を見ていた。


「湯気も出てきたな」

「夜茶ですの?」

「茶もある。甘いものもある。油の匂いも少し強い」

「油は避けます」

「そうしろ。灯りを見る前に腹が重くなる」

「今夜は軽く、甘く、眠くなるものですわ」

「なら透け飴だな」

「まだ見ていないのに、もう正解の気がします」


 白銀列車の扉が開くと、霧の冷気が再び頬に触れた。


 さきほどより町は明るい。

 けれど、寒さは減っていない。

 むしろ人の熱と灯りの熱がある分、霧が近く感じられた。温かいものと冷たいものが混ざり、袖の表面にじわりと乗る。


「お嬢様、右側に段差がございます」

「はい」

「左から人が来ます」

「はい」

「前方、石畳が濡れております」

「ルミエラの夜は、ずいぶん忙しいですわね」

「お嬢様の周囲だけでも、情報量が多うございます」


 ルークの手が、私の肘の少し後ろにある。

 触れすぎず、離れすぎず、足元が滑ったらすぐ支えられる位置だった。


 私は一歩ずつ、灯り市へ入った。


 最初に感じたのは、光ではなかった。

 匂いだった。


 蝋の甘い匂い。

 油の重い匂い。

 湿った木の匂い。

 熱を持った硝子の匂い。

 夜茶らしい香草の匂い。

 どこかで焼かれている薄い菓子の匂い。


 それが霧と混ざって、鼻の奥へゆっくり入ってくる。


「……綺麗ですが、濃い町ですわ」

 私が言うと、ノアが笑った。

「光も匂いも霧で逃げにくいんでしょうね」

「逃げない灯り市」

「聞こえはいいですね」

「人も逃げてくれませんわ」


 通りは、思っていたより混んでいた。


 観光客らしい人々。

 地元の親子。

 肩から灯りを提げた職人。

 箱に硝子球を詰めて運ぶ少年。

 夜茶の屋台に並ぶ老人たち。

 恋人らしい二人組。

 灯りを買うのではなく、灯りに照らされるためだけに歩いているような人々。


 白銀列車の窓から見た時、灯り市は静かな絵のようだった。

 外へ出ると、絵の中には肘があり、荷物があり、濡れた靴があり、急に立ち止まる人がいた。


「人が多いですわ」

「灯り市ですからね」

「灯りを見るには、人が邪魔ですわ」

「人も灯りを見に来ていますから」

「理屈は分かります。納得は別です」


 目の前を、大きな箱を抱えた男が通った。

 箱の中には、小さな硝子灯りがいくつも入っている。まだ火は入っていないのに、周囲の灯りを受けて、箱の中で淡く光っていた。


 私は思わず足を止めた。


「これは、足を止めますわね」

「お嬢様、止まるならこちらへ」


 ルークがすぐに私を通りの端へ誘導した。

 直後に、後ろから来た人の流れが通り過ぎる。


「立ち止まるにも技術が必要ですのね」

「灯り市では、特に必要かと」

「優雅ではありませんわ」

「安全ではございます」


 ノアは、店先の魔石灯を覗き込んでいた。

 小さな台座の上に、透明な石が収まっている。石の奥で淡い光が揺れ、薄い硝子の覆いが光をぼかしていた。


「これ、魔力をそのまま出してないですね」

「分かりますの?」

「硝子で一度散らしてます。だから眩しくないんです。光源自体は小さいのに、霧に当たると大きく見える」

「つまり、霧に働かせているのですわね」

「言い方としては、そうです」

「霧は袖も湿らせますが、灯りも綺麗にする。働きすぎですわ」

「過労気味ですね」


 別の店では、色硝子の吊り灯りが並んでいた。


 赤。

 琥珀。

 薄い緑。

 淡い青。

 乳白色。

 葡萄酒のような紫。


 灯りの下を通る人の顔が、一瞬ずつ色を変える。

 赤い灯りの下では頬が温かく見え、青い灯りの下では唇まで冷えて見える。琥珀色の下では、誰もが少しだけ帰り道に近い顔になった。


「青い灯りは、やはり難しいですわね」

 私は小さく言った。

「肉が冷えて見える」

 アベルが言う。

「人も少し冷えて見えます」

「夜に腹を減らす色じゃない」

「灯りを見ても、食べ物へ戻りますのね」

「灯りは食卓に影響する」

「それは大切ですわ」


 アベルの視線は、すでに屋台へ向いていた。


 薄い紙箱に入った飴。

 星の形をした砂糖菓子。

 透明な板のような蜜菓子。

 湯気の立つ夜茶。

 黒い小鍋で温められている蜂蜜。

 小さな匙で掬われる白いクリーム。


 私は紙箱の前で足を止めた。


「透けていますわ」

「まだ買うな」

 アベルが即座に言った。

「見ているだけです」

「目がもう買ってる」

「灯りにかざす必要があります」

「必要はあるな」

「ありますわよね」

「味を見てからだ」


 店の娘が、薄い琥珀色の飴を一つ、小さな銀の挟みで持ち上げた。

 後ろの灯りにかざすと、飴の中に小さな泡が見えた。泡は星のようで、光は飴の端で濃くなり、真ん中では蜂蜜のように透けた。


「……これは、危険ですわ」

 私は息をひそめた。

「何がですか」

 ノアが聞く。

「見るだけで、買った後のことを考えてしまいます」

「食べるところ?」

「いいえ。白銀列車の窓辺で、灯りにかざすところです」

「食べる前に飾るんですね」

「そして少し眺めてから食べます」

「結局食べますね」


 アベルが店の娘へ短く尋ねた。


「甘さは?」

「蜂蜜と柑橘です。夜茶と一緒にどうぞ」

「重くないか」

「夜の菓子ですから。舌に残りすぎないようにしています」

「よし」

「よし、とは?」


 私が見ると、アベルは当然のように言った。


「候補だ」

「買わないのでは?」

「まだ買うなと言った。候補にするなとは言ってない」

「料理人の審査が入りましたわ」


 しかし、今夜の目的は菓子だけではない。


 私は灯り市の奥へ目を向けた。

 人の流れは、運河に沿ってゆっくり進んでいる。橋の向こうには、さらに明るい通りがあった。硝子の灯りが何十も吊られ、霧の中で丸く、丸く、膨らんでいる。


 美しい。

 だが、遠い。


 人が多いせいで、一つの灯りをゆっくり見ようとしても、すぐ誰かの肩が入る。

 石畳の冷えは靴底から上がってくる。

 袖口はまた少し湿り始めている。

 夜茶の湯気は魅力的だが、屋台の前には列がある。

 硝子灯りの店には、すでに人だかりができていた。


「灯り市は綺麗ですが、人が多いのは困りますわ」

 私は正直に言った。


 ノアが苦笑する。


「綺麗なものには、人が集まりますからね」

「では、綺麗なものだけ白銀列車に来て、人は来ない仕組みにしたいですわ」

「この列車、そういう仕組みに向いてますよね」

「正しい仕組みです」


 ルークが周囲を見た。


「お嬢様、あちらの店なら、少し人が少ないようです」

「灯りの店ですの?」

「卓上灯がございます」

「見ます」


 案内されたのは、運河から少し奥へ入った小さな店だった。

 表通りほど派手ではない。吊り灯りも少ない。看板も控えめで、扉の横に小さな琥珀色の灯りが一つ置かれているだけだった。


 けれど、その灯りは不思議と目に残った。


 強くない。

 明るすぎない。

 遠くから客を呼ぶというより、近づいた人だけを受け止めるような光だった。


 店先には、卓上灯が並んでいる。

 背の低いもの。

 細い脚のもの。

 丸い硝子をかぶせたもの。

 乳白色の覆いを持つもの。

 琥珀色の硝子に、小さな泡が閉じ込められているもの。


 私は、その前で足を止めた。


「ここは、少し静かですわね」

「表の灯りは、目立つための灯りですから」


 奥から、女の声がした。


 店主らしい女性だった。

 年はよく分からない。髪はゆるくまとめられ、肩に厚手のショールを掛けている。指先には、蝋と硝子を扱う人の細かな跡があった。

 彼女は私たちを見て、すぐに売り込むことはしなかった。


 ただ、私の顔と、外套の袖と、ルークの立ち位置と、ノアが覗き込んでいる魔石灯と、アベルが飴の紙箱を気にしているところを順番に見た。


「表通りの灯りが合わなかったかい」

「まだ合うかどうかも分かっておりませんわ」

「でも、あそこに長くいる顔じゃない」

「人が多いのです」

「だろうね。あっちは、人に見せる灯りが多いから」

「人に見せる灯り」

「店を明るく見せる。商品を綺麗に見せる。通りを華やかに見せる。そういう灯りだよ」


 女性は、店先の小さな卓上灯に指を添えた。

 琥珀色の硝子の内側で、光が少しだけ揺れる。

 灯りは広がりすぎず、すぐそばの木の台と、女性の指先だけを柔らかく照らした。


「あなたが探してるのは、そういうのじゃないね」


 私は少しだけ目を細めた。


「分かりますの?」

「灯りを買いに来る客の顔は、だいたい見る。部屋を明るくしたい顔。客に見せたい顔。店を目立たせたい顔。寝る前に本を読みたい顔。怖いから暗くしたくない顔」


 女性はそこで、少し笑った。


「お嬢さん、部屋に飾る灯りを探してる顔じゃないね」

「では、どんな顔ですの?」

「帰る場所の夜を変えたい顔だ」


 霧の向こうで、宵の鐘の余韻がまだ少しだけ残っていた。

灯り市に入りました。

霧ににじむ灯りは美しく、けれど人も多く、袖も足元も休まりません。


卓上灯の店で、持ち帰りたい夜の形が少しずつ見えてきます。

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