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婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第9章 琥珀ランプと宵の霧編 〜霧の運河町ルミエラ〜

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072 霧の運河町は、夕方から本気を出すようですわ

霧の向こうに、運河町ルミエラの灯りが見えてきました。

窓越しなら美しいのに、外へ出ると袖も足元も少し湿る町です。

「この町、夕方をずいぶん早めに始めていますわね」


 白銀列車の窓の外を見ながら、私はそう言った。


 まだ夜ではない。

 空には薄い明るさが残っている。けれど、窓の向こうでは霧がゆっくり流れ、町の輪郭をぼかしていた。冬枯れの木々の間から、低い石橋が見える。橋の下には細い運河があり、鈍い水面が、夕方の色を細く揺らしていた。


 その町は、最初からはっきり見えなかった。


 屋根も、橋も、塔も、看板も、どこか霧の向こうに半分隠れている。

 けれど灯りだけは、先にこちらへ届いていた。


 運河沿いの灯り。

 石橋のたもとの灯り。

 小さな店先に吊られた灯り。

 低い窓の奥で、ふわりとにじむ灯り。


 白でも青でもない。冬の昼のような冷たい色ではない。

 多くは、蜂蜜を薄く溶かしたような色だった。

 少し赤く、少し金色で、霧の中で輪郭をなくしている。


 私はいつもの席に座ったまま、灰緑の毛布を膝に掛け、しばらく黙って見ていた。

 ヴィンターで持ち帰った毛布は、膝の上で静かに重い。

 そばには蜜蝋の木箱がある。

 暖炉は穏やかに燃えている。


 白銀列車の中は、十分に暖かかった。


 だからこそ、窓の外の霧と灯りを、少し落ち着いて眺めることができた。


「運河町ですね」

 ノアが窓際に立ち、外を見ながら言った。

「水路が町の中へ入っています。橋も多い。霧はたぶん、この水面からですね」

「水の近くは冷えますわ」

「たぶん、足元も濡れます」

「外へ出る前から、あまり歓迎されていない気がしますわね」

「景色としては歓迎されてますよ。歩く人間には厳しいだけで」


 ルークはすでに、私の外套を選び始めていた。

 黒い厚手の外套に、霧を弾きやすい肩掛け。手袋は、指先が冷えにくいもの。靴も、底が滑りにくいものが用意されている。


「お嬢様、運河沿いは石畳が湿っている可能性がございます。足元には十分お気をつけください」

「まだ降りてもおりませんのに、もう危険が並んでいますわ」

「霧の町は、見た目より布を湿らせます」

「袖も?」

「はい。袖も裾も、髪先もでございます」

「綺麗な町ほど、服に厳しいですわね」


 厨房側から、アベルが顔を出した。


「運河町なら、魚と菓子があるかもな」

「魚と菓子」

「水路の町は、朝と夕方で売るものが変わる。灯りの町なら、夜に菓子を出す店もある」

「夜に菓子」


 私はすぐに反応した。

 ノアが小さく笑う。


「灯りより先に菓子ですね」

「違います。灯りの町で夜に出る菓子なら、灯りと関係があるはずです」

「まだ見てないのに?」

「霧の中の灯りを見てくださいませ。あれは絶対、何かを透かしたくなる光です」


 アベルが短く言った。


「透ける飴か」

「やはり」

「まだ決めるな」

「でも、ありそうですわ」

「あるだろうな」

「では、決定です」

「決めるなと言った」


 白銀列車は、ゆっくり速度を落とした。


 霧の向こうから、駅舎らしい灯りが近づいてくる。

 大きな駅ではない。運河沿いに作られた、低い石造りの停車場だった。屋根の下に吊られた灯りが、霧で丸く膨らんでいる。水辺に近いせいか、石の壁は少し湿って見えた。


 扉が開く前から、外の冷えが来る気がした。


「少しだけ見に行きますわ」

「承知いたしました」


 ルークが外套を私の肩へ掛ける。


「長居はなさいませんよう」

「綺麗だったら?」

「綺麗でも、袖が湿った時点で一度お戻りいただきます」

「厳しいですわ」

「霧は見た目より勤勉です。必ず布へ入り込みます」

「霧の仕事熱心さは、あまり歓迎できませんわね」


 私は立ち上がった。

 灰緑の毛布が膝から外れ、ルークの手で丁寧に畳まれる。毛布は毛布箱へ戻された。蓋が軽く閉まる音がする。

 その音を聞いてから、私は白銀列車の扉へ向かった。


 扉が開いた瞬間、霧の冷気が頬に触れた。


 ノースガルドの氷港都市のような、刺す寒さではない。

 ヴィンターの初霜の朝のような、足元から白くなる冷えでもない。

 ルミエラの冷えは、もっと静かだった。


 布へ入る。

 袖へ残る。

 首元へまとわりつく。

 濡れていないのに、少し湿った気がする冷えである。


「……これは、寒さというより、近いですわ」


 私が言うと、ノアが首をかしげた。


「近い?」

「空気が、近いのです。肌のそばまで来ます」

「ああ、霧ですからね。空気が水を連れてます」

「説明されると、余計に袖が湿った気がしますわ」

「お嬢様、袖を少し上げます」


 ルークがすぐに外套の端を直した。


 停車場から町へ続く道は、黒い石畳だった。

 霧でしっとり濡れている。灯りがその上に落ちると、石の一つ一つが薄く光った。

 美しい。

 けれど信用はできない。


 私は一歩目を慎重に置いた。


 革靴の底が、ほんの少しだけ石の上で滑った。

 すぐにルークの手が添えられる。


「お嬢様」

「今のは、町の挨拶ですわ」

「足元の挨拶は不要でございます」

「同感です」


 運河沿いへ出ると、ルミエラの町はさらにぼんやりと広がった。


 細い水路が、町の中を何本も走っている。

 低い石橋が水路をまたぎ、橋の欄干には小さな灯りがついていた。運河の水面には、灯りが細長く映っている。赤、琥珀、淡い金色。霧のせいで光はまっすぐ届かず、丸くにじんでから、ゆっくり水へ落ちていた。


 水辺の店は、まだ半分だけ開いている。

 昼の品を片づけながら、夜の品を並べているところだった。

 硝子の小瓶。

 細い蝋燭。

 色のついた薄い布。

 小さな吊り灯り。

 まだ火の入っていない卓上灯。


 町全体が、夕方から別の顔に着替えているようだった。


「綺麗ですわ」


 私は素直に言った。


 濡れた石畳。

 霧の橋。

 運河に揺れる灯り。

 薄い夕方の空。

 布の端を湿らせる空気。


 どれも、白銀列車の中にはないものだった。


 けれど、二歩進むと、足先が冷える。

 三歩進むと、外套の袖が少し湿る。

 橋の上へ出ると、運河から上がる冷たい気配が足元をなでた。


 私はすぐに、もう一つの結論も出した。


「綺麗ですわ。でも、外で見るには少し寒すぎますわね」


 ノアが、当然のような顔でこちらを見た。


「じゃあ、車内で見る方向ですか」

「ええ」


 私は運河の灯りを見たまま答える。


「夜を、持ち帰りますわ」


 ルークは驚かなかった。

 むしろ、最初からそのつもりだったように頷いた。


「では、お嬢様が濡れずに夜を楽しめるものを探しましょう」

「たいへん正しい理解ですわ」

「外の不便は、なるべく置いて帰ります」

「霧と滑る石畳は置いて帰ります」

「袖の湿りもでございます」

「それも必ず置いて帰ります」


 アベルが運河沿いの屋台を見ていた。

 まだ火が入っていない小さな鉄板と、白い紙に包まれた何か。甘い匂いはまだ薄い。代わりに、蝋と油と湿った木の匂いがする。


「灯りの市があるな」

「分かりますの?」

「店が昼の並べ方じゃない。夜に売る置き方だ」

「料理人は、灯りの並べ方も見るのですか」

「夜に食うものがあるかどうかを見る」

「結局そこですわね」


 ノアが、橋のたもとに立つ案内板を見つけた。

 湿った木の板に、金色の文字が塗られている。上には小さな硝子の覆いがついた灯りがあり、まだ薄暗い夕方の中で、文字だけを浮かせていた。


「お嬢様、これ」

「何ですの?」


 私は近づいた。

 足元が滑るので、かなり慎重に。


 案内板には、こう書かれていた。


 灯り市。

 宵の鐘より開市。

 霧の深い日は、硝子灯りがもっとも美しく見えます。


 その下には、少し小さな文字で、店の名前が並んでいる。

 吊り灯り。

 卓上灯。

 色硝子。

 蝋燭台。

 魔石灯。

 夜茶。

 透け飴。


「透け飴」


 私は思わず声に出した。


 ノアが笑った。


「ありましたね」

「ありましたわ」


 アベルも少しだけ得意そうに言った。


「だから言っただろ」

「まだ味は分かりません」

「灯りにかざす菓子なら、味より先に色だ」

「よい言葉ですわ」


 ルークは案内板よりも、私の袖を見ていた。


「お嬢様、外套の袖口が湿り始めております」

「もうですの?」

「はい」

「霧の働きが早すぎますわ」

「一度お戻りになりましょう」

「灯り市は?」

「宵の鐘より、とございます。今はまだ準備中です」

「では、一度戻って、温まり、袖を乾かし、出直すのが正しいですわね」

「はい。それがもっとも安全でございます」


 私は少しだけ名残惜しく運河沿いを見た。


 灯り市は、まだ始まっていない。

 店先の硝子灯りにも、火は入っていない。

 夜茶の湯気もまだ立っていない。

 透け飴も、紙箱の中に眠っている。


 けれど、霧の町はすでに準備を始めていた。


 昼の町は、水と石と霧でできている。

 夕方の町は、そこへ灯りを落とし始める。

 夜の町は、きっと別のものになる。


 私は、白銀列車へ戻る道を見た。

 すぐそこにある。暖かい扉。乾いた床。いつもの席。灰緑の毛布。毛布箱。夜茶を置ける低卓。


 外の灯りは綺麗だった。

 だが、外に長くいるには、袖が湿る。

 足元が冷える。

 石畳が滑る。


 だからこそ、私は確信した。


 この町で欲しいものは、外の夜そのものではない。

 外の夜の、よいところだけだった。


「戻りますわ」


 私が言うと、ルークがすぐに頷いた。


「承知いたしました」

「灯り市は、出直します」

「その前に、袖と靴を乾かしましょう」

「たいへん実用的な夜の始め方ですわ」


 ノアが案内板をもう一度見た。


「宵の鐘から開くなら、少し時間がありますね」

「車内で待つ時間も、灯り市の一部ですわ」

「お嬢様、待つの上手ですね」

「いつもの席があれば、たいていの待ち時間は上質になります」


 アベルが屋台の方を見た。


「夜茶と透け飴は見る。油の匂いが強すぎる店は避ける」

「もう食べ物の下見が始まっていますわ」

「夜に甘いものを食うなら、重すぎない方がいい」

「夜に食べるなら、軽くて、甘くて、眠くなるくらいがよいですわ」


 アベルが眉をひそめた。


「重すぎる菓子はやめろ。夜に腹が勝つ」

「では、透ける飴と夜茶は正しい組み合わせですわね」

「まだ見てないけどな」


 白銀列車へ戻ると、扉が閉まった瞬間に霧の冷えが切れた。

 外套の表面に残った湿り気だけが、外の町を証明している。

 ルークが外套を受け取り、袖口を丁寧に確かめた。


「やはり湿っております」

「霧の働き者ぶりを確認しましたわ」

「すぐ乾かします」

「お願いします」


 私はラウンジへ向かった。

 いつもの席へ座ると、体がすぐに沈む。灰緑の毛布が膝へ戻り、足先の冷えがゆっくりほどけた。

 窓の外では、ルミエラの灯りが一つずつ増えていく。

 白銀列車の中から見ると、運河沿いの霧は絵のようだった。

 外では袖を湿らせる霧も、窓越しならただ美しい。


 ノアが窓際に立つ。


「灯り市、かなり混みそうですね」

「困りますわ」

「でも行くんですよね」

「行きます。夜を持ち帰るためです」

「大きい買い物になりそうですね」

「夜は、少しだけでよいのです」

「少しだけ?」

「この席のそばに置ける分だけ」


 アベルが夜茶を置いた。

 まだルミエラの夜茶ではない。白銀列車のいつもの茶に、蜂蜜を少し落としたものだった。

 湯気が上がる。

 その湯気の向こうで、窓の外の灯りが丸くにじんだ。


「これでも、かなり良いですわ」


 私は言った。


「でも?」


 ノアが聞く。


 私はカップの縁に映った灯りを見た。

 その色は、さっき運河に揺れていた光に似ている。

 けれど、まだ少し遠い。


「でも、あの霧の灯りを、もう少し近くで見たいですわ」


 ルークが静かに頷いた。


「では、宵の鐘に合わせて参りましょう」

「はい。袖が湿る前に見て、足が冷える前に戻ります」

「その予定でまいります」

「そして、よい灯りがあれば」

「持ち帰ります」

「たいへんよく分かっておりますわ」


 窓の外で、灯り市の通りが少しずつ明るくなっていく。

 霧の中で、硝子の小さな光が丸くふくらむ。

 運河の水面が、琥珀色を細く揺らす。


 ルミエラは、夕方からようやく本当の顔を見せる町だった。

霧の運河町ルミエラに到着しました。

外の灯りは綺麗ですが、袖は湿り、足元は冷えます。


灯り市は宵の鐘から。

綺麗な夜の、持ち帰り方を探します。

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