072 霧の運河町は、夕方から本気を出すようですわ
霧の向こうに、運河町ルミエラの灯りが見えてきました。
窓越しなら美しいのに、外へ出ると袖も足元も少し湿る町です。
「この町、夕方をずいぶん早めに始めていますわね」
白銀列車の窓の外を見ながら、私はそう言った。
まだ夜ではない。
空には薄い明るさが残っている。けれど、窓の向こうでは霧がゆっくり流れ、町の輪郭をぼかしていた。冬枯れの木々の間から、低い石橋が見える。橋の下には細い運河があり、鈍い水面が、夕方の色を細く揺らしていた。
その町は、最初からはっきり見えなかった。
屋根も、橋も、塔も、看板も、どこか霧の向こうに半分隠れている。
けれど灯りだけは、先にこちらへ届いていた。
運河沿いの灯り。
石橋のたもとの灯り。
小さな店先に吊られた灯り。
低い窓の奥で、ふわりとにじむ灯り。
白でも青でもない。冬の昼のような冷たい色ではない。
多くは、蜂蜜を薄く溶かしたような色だった。
少し赤く、少し金色で、霧の中で輪郭をなくしている。
私はいつもの席に座ったまま、灰緑の毛布を膝に掛け、しばらく黙って見ていた。
ヴィンターで持ち帰った毛布は、膝の上で静かに重い。
そばには蜜蝋の木箱がある。
暖炉は穏やかに燃えている。
白銀列車の中は、十分に暖かかった。
だからこそ、窓の外の霧と灯りを、少し落ち着いて眺めることができた。
「運河町ですね」
ノアが窓際に立ち、外を見ながら言った。
「水路が町の中へ入っています。橋も多い。霧はたぶん、この水面からですね」
「水の近くは冷えますわ」
「たぶん、足元も濡れます」
「外へ出る前から、あまり歓迎されていない気がしますわね」
「景色としては歓迎されてますよ。歩く人間には厳しいだけで」
ルークはすでに、私の外套を選び始めていた。
黒い厚手の外套に、霧を弾きやすい肩掛け。手袋は、指先が冷えにくいもの。靴も、底が滑りにくいものが用意されている。
「お嬢様、運河沿いは石畳が湿っている可能性がございます。足元には十分お気をつけください」
「まだ降りてもおりませんのに、もう危険が並んでいますわ」
「霧の町は、見た目より布を湿らせます」
「袖も?」
「はい。袖も裾も、髪先もでございます」
「綺麗な町ほど、服に厳しいですわね」
厨房側から、アベルが顔を出した。
「運河町なら、魚と菓子があるかもな」
「魚と菓子」
「水路の町は、朝と夕方で売るものが変わる。灯りの町なら、夜に菓子を出す店もある」
「夜に菓子」
私はすぐに反応した。
ノアが小さく笑う。
「灯りより先に菓子ですね」
「違います。灯りの町で夜に出る菓子なら、灯りと関係があるはずです」
「まだ見てないのに?」
「霧の中の灯りを見てくださいませ。あれは絶対、何かを透かしたくなる光です」
アベルが短く言った。
「透ける飴か」
「やはり」
「まだ決めるな」
「でも、ありそうですわ」
「あるだろうな」
「では、決定です」
「決めるなと言った」
白銀列車は、ゆっくり速度を落とした。
霧の向こうから、駅舎らしい灯りが近づいてくる。
大きな駅ではない。運河沿いに作られた、低い石造りの停車場だった。屋根の下に吊られた灯りが、霧で丸く膨らんでいる。水辺に近いせいか、石の壁は少し湿って見えた。
扉が開く前から、外の冷えが来る気がした。
「少しだけ見に行きますわ」
「承知いたしました」
ルークが外套を私の肩へ掛ける。
「長居はなさいませんよう」
「綺麗だったら?」
「綺麗でも、袖が湿った時点で一度お戻りいただきます」
「厳しいですわ」
「霧は見た目より勤勉です。必ず布へ入り込みます」
「霧の仕事熱心さは、あまり歓迎できませんわね」
私は立ち上がった。
灰緑の毛布が膝から外れ、ルークの手で丁寧に畳まれる。毛布は毛布箱へ戻された。蓋が軽く閉まる音がする。
その音を聞いてから、私は白銀列車の扉へ向かった。
扉が開いた瞬間、霧の冷気が頬に触れた。
ノースガルドの氷港都市のような、刺す寒さではない。
ヴィンターの初霜の朝のような、足元から白くなる冷えでもない。
ルミエラの冷えは、もっと静かだった。
布へ入る。
袖へ残る。
首元へまとわりつく。
濡れていないのに、少し湿った気がする冷えである。
「……これは、寒さというより、近いですわ」
私が言うと、ノアが首をかしげた。
「近い?」
「空気が、近いのです。肌のそばまで来ます」
「ああ、霧ですからね。空気が水を連れてます」
「説明されると、余計に袖が湿った気がしますわ」
「お嬢様、袖を少し上げます」
ルークがすぐに外套の端を直した。
停車場から町へ続く道は、黒い石畳だった。
霧でしっとり濡れている。灯りがその上に落ちると、石の一つ一つが薄く光った。
美しい。
けれど信用はできない。
私は一歩目を慎重に置いた。
革靴の底が、ほんの少しだけ石の上で滑った。
すぐにルークの手が添えられる。
「お嬢様」
「今のは、町の挨拶ですわ」
「足元の挨拶は不要でございます」
「同感です」
運河沿いへ出ると、ルミエラの町はさらにぼんやりと広がった。
細い水路が、町の中を何本も走っている。
低い石橋が水路をまたぎ、橋の欄干には小さな灯りがついていた。運河の水面には、灯りが細長く映っている。赤、琥珀、淡い金色。霧のせいで光はまっすぐ届かず、丸くにじんでから、ゆっくり水へ落ちていた。
水辺の店は、まだ半分だけ開いている。
昼の品を片づけながら、夜の品を並べているところだった。
硝子の小瓶。
細い蝋燭。
色のついた薄い布。
小さな吊り灯り。
まだ火の入っていない卓上灯。
町全体が、夕方から別の顔に着替えているようだった。
「綺麗ですわ」
私は素直に言った。
濡れた石畳。
霧の橋。
運河に揺れる灯り。
薄い夕方の空。
布の端を湿らせる空気。
どれも、白銀列車の中にはないものだった。
けれど、二歩進むと、足先が冷える。
三歩進むと、外套の袖が少し湿る。
橋の上へ出ると、運河から上がる冷たい気配が足元をなでた。
私はすぐに、もう一つの結論も出した。
「綺麗ですわ。でも、外で見るには少し寒すぎますわね」
ノアが、当然のような顔でこちらを見た。
「じゃあ、車内で見る方向ですか」
「ええ」
私は運河の灯りを見たまま答える。
「夜を、持ち帰りますわ」
ルークは驚かなかった。
むしろ、最初からそのつもりだったように頷いた。
「では、お嬢様が濡れずに夜を楽しめるものを探しましょう」
「たいへん正しい理解ですわ」
「外の不便は、なるべく置いて帰ります」
「霧と滑る石畳は置いて帰ります」
「袖の湿りもでございます」
「それも必ず置いて帰ります」
アベルが運河沿いの屋台を見ていた。
まだ火が入っていない小さな鉄板と、白い紙に包まれた何か。甘い匂いはまだ薄い。代わりに、蝋と油と湿った木の匂いがする。
「灯りの市があるな」
「分かりますの?」
「店が昼の並べ方じゃない。夜に売る置き方だ」
「料理人は、灯りの並べ方も見るのですか」
「夜に食うものがあるかどうかを見る」
「結局そこですわね」
ノアが、橋のたもとに立つ案内板を見つけた。
湿った木の板に、金色の文字が塗られている。上には小さな硝子の覆いがついた灯りがあり、まだ薄暗い夕方の中で、文字だけを浮かせていた。
「お嬢様、これ」
「何ですの?」
私は近づいた。
足元が滑るので、かなり慎重に。
案内板には、こう書かれていた。
灯り市。
宵の鐘より開市。
霧の深い日は、硝子灯りがもっとも美しく見えます。
その下には、少し小さな文字で、店の名前が並んでいる。
吊り灯り。
卓上灯。
色硝子。
蝋燭台。
魔石灯。
夜茶。
透け飴。
「透け飴」
私は思わず声に出した。
ノアが笑った。
「ありましたね」
「ありましたわ」
アベルも少しだけ得意そうに言った。
「だから言っただろ」
「まだ味は分かりません」
「灯りにかざす菓子なら、味より先に色だ」
「よい言葉ですわ」
ルークは案内板よりも、私の袖を見ていた。
「お嬢様、外套の袖口が湿り始めております」
「もうですの?」
「はい」
「霧の働きが早すぎますわ」
「一度お戻りになりましょう」
「灯り市は?」
「宵の鐘より、とございます。今はまだ準備中です」
「では、一度戻って、温まり、袖を乾かし、出直すのが正しいですわね」
「はい。それがもっとも安全でございます」
私は少しだけ名残惜しく運河沿いを見た。
灯り市は、まだ始まっていない。
店先の硝子灯りにも、火は入っていない。
夜茶の湯気もまだ立っていない。
透け飴も、紙箱の中に眠っている。
けれど、霧の町はすでに準備を始めていた。
昼の町は、水と石と霧でできている。
夕方の町は、そこへ灯りを落とし始める。
夜の町は、きっと別のものになる。
私は、白銀列車へ戻る道を見た。
すぐそこにある。暖かい扉。乾いた床。いつもの席。灰緑の毛布。毛布箱。夜茶を置ける低卓。
外の灯りは綺麗だった。
だが、外に長くいるには、袖が湿る。
足元が冷える。
石畳が滑る。
だからこそ、私は確信した。
この町で欲しいものは、外の夜そのものではない。
外の夜の、よいところだけだった。
「戻りますわ」
私が言うと、ルークがすぐに頷いた。
「承知いたしました」
「灯り市は、出直します」
「その前に、袖と靴を乾かしましょう」
「たいへん実用的な夜の始め方ですわ」
ノアが案内板をもう一度見た。
「宵の鐘から開くなら、少し時間がありますね」
「車内で待つ時間も、灯り市の一部ですわ」
「お嬢様、待つの上手ですね」
「いつもの席があれば、たいていの待ち時間は上質になります」
アベルが屋台の方を見た。
「夜茶と透け飴は見る。油の匂いが強すぎる店は避ける」
「もう食べ物の下見が始まっていますわ」
「夜に甘いものを食うなら、重すぎない方がいい」
「夜に食べるなら、軽くて、甘くて、眠くなるくらいがよいですわ」
アベルが眉をひそめた。
「重すぎる菓子はやめろ。夜に腹が勝つ」
「では、透ける飴と夜茶は正しい組み合わせですわね」
「まだ見てないけどな」
白銀列車へ戻ると、扉が閉まった瞬間に霧の冷えが切れた。
外套の表面に残った湿り気だけが、外の町を証明している。
ルークが外套を受け取り、袖口を丁寧に確かめた。
「やはり湿っております」
「霧の働き者ぶりを確認しましたわ」
「すぐ乾かします」
「お願いします」
私はラウンジへ向かった。
いつもの席へ座ると、体がすぐに沈む。灰緑の毛布が膝へ戻り、足先の冷えがゆっくりほどけた。
窓の外では、ルミエラの灯りが一つずつ増えていく。
白銀列車の中から見ると、運河沿いの霧は絵のようだった。
外では袖を湿らせる霧も、窓越しならただ美しい。
ノアが窓際に立つ。
「灯り市、かなり混みそうですね」
「困りますわ」
「でも行くんですよね」
「行きます。夜を持ち帰るためです」
「大きい買い物になりそうですね」
「夜は、少しだけでよいのです」
「少しだけ?」
「この席のそばに置ける分だけ」
アベルが夜茶を置いた。
まだルミエラの夜茶ではない。白銀列車のいつもの茶に、蜂蜜を少し落としたものだった。
湯気が上がる。
その湯気の向こうで、窓の外の灯りが丸くにじんだ。
「これでも、かなり良いですわ」
私は言った。
「でも?」
ノアが聞く。
私はカップの縁に映った灯りを見た。
その色は、さっき運河に揺れていた光に似ている。
けれど、まだ少し遠い。
「でも、あの霧の灯りを、もう少し近くで見たいですわ」
ルークが静かに頷いた。
「では、宵の鐘に合わせて参りましょう」
「はい。袖が湿る前に見て、足が冷える前に戻ります」
「その予定でまいります」
「そして、よい灯りがあれば」
「持ち帰ります」
「たいへんよく分かっておりますわ」
窓の外で、灯り市の通りが少しずつ明るくなっていく。
霧の中で、硝子の小さな光が丸くふくらむ。
運河の水面が、琥珀色を細く揺らす。
ルミエラは、夕方からようやく本当の顔を見せる町だった。
霧の運河町ルミエラに到着しました。
外の灯りは綺麗ですが、袖は湿り、足元は冷えます。
灯り市は宵の鐘から。
綺麗な夜の、持ち帰り方を探します。




