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婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第9章 琥珀ランプと宵の霧編 〜霧の運河町ルミエラ〜

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071 霧の向こうに、持ち帰りたい夜が見えましたわ

ヴィンターを離れた白銀列車には、灰緑の毛布と煮込みの匂いが残っていました。

窓の向こうには、霧ににじむ灯りが見えてきます。

「冬支度は、きちんと持ち帰れましたわね」


 白銀列車がヴィンターを離れてから、しばらく経った。

 窓の外では、冬支度市場の屋根も、布の山も、黒パンの屋台も、もう小さくなっている。初霜の白さは昼の光に溶け、町はいつもの冬前の顔へ戻っていた。


 けれど、車内にはヴィンターが残っている。


 右ソファの横には、蜜蝋を薄く入れた毛布箱。

 その中には、灰緑の毛布。

 食堂車には、燻製肉と豆と黒パン。

 棚の奥には、蜂蜜バターの小さな壺。


 ラウンジには、まだほんの少しだけ、煮込みと燻製の匂いが残っていた。

 外の冬は遠ざかっていくのに、白銀列車の中では、冬支度市場が少しだけ暮らしになっている。


「お嬢様、毛布の位置はいかがでしょう」


 ルークが、右ソファ横の箱を見ながら尋ねた。


「とてもよいです。近すぎず、遠すぎず、眠くなる前に手が届きます」

「それは何よりでございます」

「毛布にも家があると、落ち着きますわね」

「はい。畳んだ際にも形が崩れません」


 ノアは窓側で、通り過ぎていく冬枯れの森を見ていた。


「ヴィンター、かなり車内に残りましたね。毛布も箱も食材も」

「町へ住む必要はありませんもの。よいところだけ持ち帰ればいいのです」

「この列車、そういうところありますよね」

「正しい結論ですわ」


 アベルが厨房側から、蓋つきの小鍋を持って顔を出した。


「燻製肉の切れ端、少し残してある。夜に小皿で出す」

「夜に肉ですの?」

「少しだ。腹が減ってから騒がれる前に出す」

「先回りが上手ですわ」

「ティアは食い物と毛布の前で、だいたい顔に出る」


 失礼である。

 だが、反論するほど外れてはいない。


 私は右ソファに沈み、灰緑の毛布を膝に掛けた。


 毛布は昨日よりも白銀列車の匂いがする。ヴィンターの倉の匂いは薄くなり、代わりに暖炉と茶葉と蜜蝋の匂いが少し移っていた。

 それが、とてもよかった。


 風干しの小布は、右ソファの肘掛けにある。

 灰緑の毛布は、膝の上にある。

 低卓には、まだ温かい香草ミルク。

 暖炉は、静かに燃えている。


 白銀列車は、もう十分に暖かい。

 十分に柔らかい。

 十分に帰ってきた場所だった。


 だからこそ、私は少しだけ首をかしげた。


「……夜は、もう少し柔らかくできますわね」


 ノアがこちらを見る。


「夜を?」

「不便な話ではありません。困ってもいません。寒くもありません。お腹も、今のところ大丈夫です」

「最後、確認項目なんですね」

「大切ですわ」


 ルークがすぐに問うた。


「お嬢様、何かご不便がございましたか」

「不便ではありません。白銀列車は完璧です」

「では」

「完璧なのですが……夜の顔が、少し昼と同じですわ」


 ノアが瞬きをした。

 アベルは厨房側で、少しだけ手を止めた。

 ルークは黙って、ラウンジを見回した。


 車内の灯りは、いつも通り十分だった。

 読書に困らない。

 食事にも困らない。

 暖炉の火も美しく、窓の外が暗くなれば、硝子には室内の暖かい色が映る。


 けれど、今のラウンジは、ただ明るい。

 過ごしやすい。

 それは正しい。

 とても正しい。


 ただ、ヴィンターで初霜を見て、湯気を持ち帰り、毛布を選んでしまった後だと、夜にももう少しだけ、帰ってきたくなる顔があってもよい気がした。


「夜の顔、ですか」


 ノアがゆっくり言った。


「ええ。昼は昼でよいのです。けれど夜は、もう少しだけ、ぼんやりしてほしいですわ」

「暗くしたいんですか?」

「暗いのは困ります。本が読めません」

「明るくしたい?」

「それも違います。寝る気が逃げます」

「難しい注文ですね」

「夜ですもの。難しくて当然です」


 アベルが短く笑った。


「飯がまずく見える灯りはやめろ」

「そこは最初に守ります」

「青い灯りもやめろ。肉が冷えて見える」

「青い灯りの肉は嫌ですわ」

「赤すぎるのも駄目だ。焦げが全部焦げに見える」

「それも困ります」


 ルークが静かに頷いた。


「お嬢様のお顔色が悪く見える灯りも避けるべきです」

「顔色」

「はい。暖炉の火はよいのですが、強すぎる灯りや色の濃い灯りは、お嬢様のお顔に影を作ります」

「では、顔色もよく、料理もおいしそうで、本も読めて、眠気も逃げない灯りが必要ですわね」


 ノアが額に手を当てた。


「条件が増えましたね」

「増えたのではありません。見えてきただけです」


 私は毛布を少し引き上げた。


 灰緑の毛布は、暖炉の光を受けると落ち着いた色に見える。けれど、車内の明かりだけでは、その起毛の影が少し平らだった。


 せっかくの毛布なのに。

 せっかくの右ソファなのに。

 せっかく、冬がここまで整ったのに。


「白銀列車の夜は、もっと柔らかくなりそうですわ」


 私がそう言うと、ルークが少しだけ真剣な顔になった。


「すぐに手配いたします」

「まだ何か分かっておりません」

「お嬢様に必要なものであれば、探します」

「頼もしいのですが、早いですわ」


 ノアが窓の外を見た。


「もうすぐ夕方ですね。次の町、霧が出てるみたいです」

「霧?」

「ええ。前方、かなり白いです。水路か運河がある町かもしれません」


 私は窓へ顔を向けた。


 冬枯れの木々の向こうに、薄い霧が流れている。

 最初はただの靄に見えた。けれど白銀列車が進むにつれて、その奥に低い石橋の影が見えた。水面がある。細い運河が何本も町へ入り込み、夕方の光を鈍く返している。


 そして、灯りが見えた。


 一つではない。

 いくつもある。


 橋の上。

 運河沿い。

 店先。

 低い窓。

 看板の下。


 まだ夜には早いのに、霧の中で、小さな灯りが少しずつ浮かび始めていた。


 白銀列車の窓硝子に、淡い琥珀色がにじむ。

 外の灯りが、霧に溶けて丸くなる。

 水面に映った灯りは、風もないのに細く揺れていた。


「……あれですわ」


 私は思わず言った。


「何がですか」


 ノアが窓に近づく。


「ああいう夜です」

「ああいう」

「外では少し寒そうです。足元も濡れていそうです。きっと袖も湿ります。けれど、見るだけならとても綺麗です」

「外の夜を見て、車内に欲しくなったんですね」

「正確には、外の不便はいりません。霧も、湿った袖も、滑る石畳も、人混みもいりません」

「それはそうでしょうね」

「でも、灯りがにじむ夜は、少し欲しいですわ」


 アベルが厨房側から窓を見た。


「運河町か」

「知っておりますの?」

「霧が出る町は、水が近い。灯りと菓子を売る町もある」

「菓子」


 私は反応した。

 ノアがすぐに笑う。


「灯りより先に菓子へ行きましたね」

「違います。灯りと菓子は、きっと関係があります」

「まだ見てませんよ」

「こういう町には、灯りにかざしたくなる菓子があるはずですわ」


 アベルが少し考えた。


「透ける飴ならありそうだな」

「ほら」

「まだ勝ち誇るな」


 ルークは、すでに外套の厚さを考えている顔だった。


「霧の町でしたら、袖と裾が湿りやすくなります。足元も滑るでしょう」

「行く前から危険が多いですわね」

「はい。ですが、お嬢様がご覧になりたいのであれば、必要な準備をいたします」

「少しだけです。外の夜を全部見る必要はありません」

「承知しております。必要な分だけご覧いただき、すぐお戻りいただきます」

「たいへん分かっておりますわ」


 白銀列車は、霧へ近づいていく。


 夕方が、いつもより早く来たようだった。

 窓の外の空はまだ完全には暗くない。だが霧が光を柔らかくして、町だけが先に夜の準備を始めている。


 運河沿いの灯りが、一つ、また一つと増える。

 白や青ではない。

 冷たい光でもない。


 多くは、蜂蜜に似た色だった。

 少し赤く、少し金色で、霧の中で輪郭をなくす。


 私は、右ソファの上で黙ってそれを見た。


 ヴィンターの冬支度は、寒さを少しだけ楽しくした。

 灰緑の毛布は、午後を少し遅くした。

 毛布箱は、右ソファの隣に暮らしを増やした。

 燻製肉と黒パンは、初霜の朝市を食堂車へ運んだ。


 私の欲しいものは、まだ言葉になる前に、窓の外で灯っていた。


「灯りを買うのですか」


 ノアが尋ねた。


 私は首を振った。


「灯りだけを買うのではありません」

「では?」

「夜を、持ち帰りますわ」


 ルークが静かに頷いた。


「かしこまりました」

「まだ何も決まっていませんわ」

「お嬢様が持ち帰るとお決めになりましたので」

「決めてしまいましたわね」

「はい」


 アベルは、湯気の立つ夜茶を小さなカップに注いだ。


「行くなら明日だな。今夜は外から見るだけにしろ」

「なぜですの?」

「霧の町は、初日は足元を見る。腹と灯りは二日目からだ」

「料理人が町歩きの助言をしていますわ」

「転んで飯が遅れると困る」

「理由はいつも通りでした」


 私は夜茶を受け取った。

 ほんの少し蜂蜜が入っている。甘すぎず、湯気だけが柔らかい。


 カップの縁に、窓の外の灯りが小さく映った。

 琥珀色だった。


 私はその光をしばらく見つめた。


 白銀列車の夜は、十分に暖かい。

 けれど、もっと柔らかくなれる。


 そう思った瞬間、右ソファの夜に、次の楽しみができた。


 窓の外で、霧の運河町の灯りが増えていく。

 運河の水面が、細い金色の筋を揺らした。

 石橋の向こうに、灯りを吊るした小さな通りが見える。


 その町は、昼よりも夜のほうが、少し高く売れそうだった。

ヴィンターで整った車内に、今度は夜の気配が近づいてきました。

霧の向こうに見えたのは、運河町ルミエラの灯りです。


綺麗な夜は外にありました。

でも、眠くなる夜は、白銀列車の中にあります。

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