071 霧の向こうに、持ち帰りたい夜が見えましたわ
ヴィンターを離れた白銀列車には、灰緑の毛布と煮込みの匂いが残っていました。
窓の向こうには、霧ににじむ灯りが見えてきます。
「冬支度は、きちんと持ち帰れましたわね」
白銀列車がヴィンターを離れてから、しばらく経った。
窓の外では、冬支度市場の屋根も、布の山も、黒パンの屋台も、もう小さくなっている。初霜の白さは昼の光に溶け、町はいつもの冬前の顔へ戻っていた。
けれど、車内にはヴィンターが残っている。
右ソファの横には、蜜蝋を薄く入れた毛布箱。
その中には、灰緑の毛布。
食堂車には、燻製肉と豆と黒パン。
棚の奥には、蜂蜜バターの小さな壺。
ラウンジには、まだほんの少しだけ、煮込みと燻製の匂いが残っていた。
外の冬は遠ざかっていくのに、白銀列車の中では、冬支度市場が少しだけ暮らしになっている。
「お嬢様、毛布の位置はいかがでしょう」
ルークが、右ソファ横の箱を見ながら尋ねた。
「とてもよいです。近すぎず、遠すぎず、眠くなる前に手が届きます」
「それは何よりでございます」
「毛布にも家があると、落ち着きますわね」
「はい。畳んだ際にも形が崩れません」
ノアは窓側で、通り過ぎていく冬枯れの森を見ていた。
「ヴィンター、かなり車内に残りましたね。毛布も箱も食材も」
「町へ住む必要はありませんもの。よいところだけ持ち帰ればいいのです」
「この列車、そういうところありますよね」
「正しい結論ですわ」
アベルが厨房側から、蓋つきの小鍋を持って顔を出した。
「燻製肉の切れ端、少し残してある。夜に小皿で出す」
「夜に肉ですの?」
「少しだ。腹が減ってから騒がれる前に出す」
「先回りが上手ですわ」
「ティアは食い物と毛布の前で、だいたい顔に出る」
失礼である。
だが、反論するほど外れてはいない。
私は右ソファに沈み、灰緑の毛布を膝に掛けた。
毛布は昨日よりも白銀列車の匂いがする。ヴィンターの倉の匂いは薄くなり、代わりに暖炉と茶葉と蜜蝋の匂いが少し移っていた。
それが、とてもよかった。
風干しの小布は、右ソファの肘掛けにある。
灰緑の毛布は、膝の上にある。
低卓には、まだ温かい香草ミルク。
暖炉は、静かに燃えている。
白銀列車は、もう十分に暖かい。
十分に柔らかい。
十分に帰ってきた場所だった。
だからこそ、私は少しだけ首をかしげた。
「……夜は、もう少し柔らかくできますわね」
ノアがこちらを見る。
「夜を?」
「不便な話ではありません。困ってもいません。寒くもありません。お腹も、今のところ大丈夫です」
「最後、確認項目なんですね」
「大切ですわ」
ルークがすぐに問うた。
「お嬢様、何かご不便がございましたか」
「不便ではありません。白銀列車は完璧です」
「では」
「完璧なのですが……夜の顔が、少し昼と同じですわ」
ノアが瞬きをした。
アベルは厨房側で、少しだけ手を止めた。
ルークは黙って、ラウンジを見回した。
車内の灯りは、いつも通り十分だった。
読書に困らない。
食事にも困らない。
暖炉の火も美しく、窓の外が暗くなれば、硝子には室内の暖かい色が映る。
けれど、今のラウンジは、ただ明るい。
過ごしやすい。
それは正しい。
とても正しい。
ただ、ヴィンターで初霜を見て、湯気を持ち帰り、毛布を選んでしまった後だと、夜にももう少しだけ、帰ってきたくなる顔があってもよい気がした。
「夜の顔、ですか」
ノアがゆっくり言った。
「ええ。昼は昼でよいのです。けれど夜は、もう少しだけ、ぼんやりしてほしいですわ」
「暗くしたいんですか?」
「暗いのは困ります。本が読めません」
「明るくしたい?」
「それも違います。寝る気が逃げます」
「難しい注文ですね」
「夜ですもの。難しくて当然です」
アベルが短く笑った。
「飯がまずく見える灯りはやめろ」
「そこは最初に守ります」
「青い灯りもやめろ。肉が冷えて見える」
「青い灯りの肉は嫌ですわ」
「赤すぎるのも駄目だ。焦げが全部焦げに見える」
「それも困ります」
ルークが静かに頷いた。
「お嬢様のお顔色が悪く見える灯りも避けるべきです」
「顔色」
「はい。暖炉の火はよいのですが、強すぎる灯りや色の濃い灯りは、お嬢様のお顔に影を作ります」
「では、顔色もよく、料理もおいしそうで、本も読めて、眠気も逃げない灯りが必要ですわね」
ノアが額に手を当てた。
「条件が増えましたね」
「増えたのではありません。見えてきただけです」
私は毛布を少し引き上げた。
灰緑の毛布は、暖炉の光を受けると落ち着いた色に見える。けれど、車内の明かりだけでは、その起毛の影が少し平らだった。
せっかくの毛布なのに。
せっかくの右ソファなのに。
せっかく、冬がここまで整ったのに。
「白銀列車の夜は、もっと柔らかくなりそうですわ」
私がそう言うと、ルークが少しだけ真剣な顔になった。
「すぐに手配いたします」
「まだ何か分かっておりません」
「お嬢様に必要なものであれば、探します」
「頼もしいのですが、早いですわ」
ノアが窓の外を見た。
「もうすぐ夕方ですね。次の町、霧が出てるみたいです」
「霧?」
「ええ。前方、かなり白いです。水路か運河がある町かもしれません」
私は窓へ顔を向けた。
冬枯れの木々の向こうに、薄い霧が流れている。
最初はただの靄に見えた。けれど白銀列車が進むにつれて、その奥に低い石橋の影が見えた。水面がある。細い運河が何本も町へ入り込み、夕方の光を鈍く返している。
そして、灯りが見えた。
一つではない。
いくつもある。
橋の上。
運河沿い。
店先。
低い窓。
看板の下。
まだ夜には早いのに、霧の中で、小さな灯りが少しずつ浮かび始めていた。
白銀列車の窓硝子に、淡い琥珀色がにじむ。
外の灯りが、霧に溶けて丸くなる。
水面に映った灯りは、風もないのに細く揺れていた。
「……あれですわ」
私は思わず言った。
「何がですか」
ノアが窓に近づく。
「ああいう夜です」
「ああいう」
「外では少し寒そうです。足元も濡れていそうです。きっと袖も湿ります。けれど、見るだけならとても綺麗です」
「外の夜を見て、車内に欲しくなったんですね」
「正確には、外の不便はいりません。霧も、湿った袖も、滑る石畳も、人混みもいりません」
「それはそうでしょうね」
「でも、灯りがにじむ夜は、少し欲しいですわ」
アベルが厨房側から窓を見た。
「運河町か」
「知っておりますの?」
「霧が出る町は、水が近い。灯りと菓子を売る町もある」
「菓子」
私は反応した。
ノアがすぐに笑う。
「灯りより先に菓子へ行きましたね」
「違います。灯りと菓子は、きっと関係があります」
「まだ見てませんよ」
「こういう町には、灯りにかざしたくなる菓子があるはずですわ」
アベルが少し考えた。
「透ける飴ならありそうだな」
「ほら」
「まだ勝ち誇るな」
ルークは、すでに外套の厚さを考えている顔だった。
「霧の町でしたら、袖と裾が湿りやすくなります。足元も滑るでしょう」
「行く前から危険が多いですわね」
「はい。ですが、お嬢様がご覧になりたいのであれば、必要な準備をいたします」
「少しだけです。外の夜を全部見る必要はありません」
「承知しております。必要な分だけご覧いただき、すぐお戻りいただきます」
「たいへん分かっておりますわ」
白銀列車は、霧へ近づいていく。
夕方が、いつもより早く来たようだった。
窓の外の空はまだ完全には暗くない。だが霧が光を柔らかくして、町だけが先に夜の準備を始めている。
運河沿いの灯りが、一つ、また一つと増える。
白や青ではない。
冷たい光でもない。
多くは、蜂蜜に似た色だった。
少し赤く、少し金色で、霧の中で輪郭をなくす。
私は、右ソファの上で黙ってそれを見た。
ヴィンターの冬支度は、寒さを少しだけ楽しくした。
灰緑の毛布は、午後を少し遅くした。
毛布箱は、右ソファの隣に暮らしを増やした。
燻製肉と黒パンは、初霜の朝市を食堂車へ運んだ。
私の欲しいものは、まだ言葉になる前に、窓の外で灯っていた。
「灯りを買うのですか」
ノアが尋ねた。
私は首を振った。
「灯りだけを買うのではありません」
「では?」
「夜を、持ち帰りますわ」
ルークが静かに頷いた。
「かしこまりました」
「まだ何も決まっていませんわ」
「お嬢様が持ち帰るとお決めになりましたので」
「決めてしまいましたわね」
「はい」
アベルは、湯気の立つ夜茶を小さなカップに注いだ。
「行くなら明日だな。今夜は外から見るだけにしろ」
「なぜですの?」
「霧の町は、初日は足元を見る。腹と灯りは二日目からだ」
「料理人が町歩きの助言をしていますわ」
「転んで飯が遅れると困る」
「理由はいつも通りでした」
私は夜茶を受け取った。
ほんの少し蜂蜜が入っている。甘すぎず、湯気だけが柔らかい。
カップの縁に、窓の外の灯りが小さく映った。
琥珀色だった。
私はその光をしばらく見つめた。
白銀列車の夜は、十分に暖かい。
けれど、もっと柔らかくなれる。
そう思った瞬間、右ソファの夜に、次の楽しみができた。
窓の外で、霧の運河町の灯りが増えていく。
運河の水面が、細い金色の筋を揺らした。
石橋の向こうに、灯りを吊るした小さな通りが見える。
その町は、昼よりも夜のほうが、少し高く売れそうだった。
ヴィンターで整った車内に、今度は夜の気配が近づいてきました。
霧の向こうに見えたのは、運河町ルミエラの灯りです。
綺麗な夜は外にありました。
でも、眠くなる夜は、白銀列車の中にあります。




