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婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第8章 毛布と冬の煮込み編 ~冬支度の市場ヴィンター~

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070 【閑話】 冬支度市場に、白い線路の噂が残りました

白銀列車が去った翌朝。

ヴィンターの市場には、毛布と煮込みの匂いだけでなく、白い線路の噂も残っていました。

 白い列車が去った翌朝、ヴィンターの市場には、いつも通り布を叩く音が戻っていた。


 朝から客たちは、布や薪を選びながら、町外れに残った白い線路の話もしていた。

 けれど市場の者たちは、まず今日の布を畳み、今日の薪を積む。

 不思議な線路より先に、冬は待ってくれない。


 毛布屋の女商人は、店先に積んだ灰色の膝掛けを一枚持ち上げ、ぱん、と広げた。


 夜のうちに入り込んだ埃が、朝の光の中で少しだけ舞う。霜はもう降りていない。だが空気はまだ乾いていて、冬の入口らしく、指先だけをじわじわ冷やしてくる。


「奥の深緑、売れなかったんだって?」


 隣の薪売りが、荷車の横から声をかけてきた。


 女商人は、毛布を畳み直しながら鼻で笑った。


「売る気で出したんじゃないよ」

「毛布屋が毛布を売る気なしに見せるのか」

「違うね。あれは、客が自分の欲しい重さを知るために見る毛布だ」

「よく分からん」

「薪屋には分からなくていい。あんたらは重けりゃ売れるだろう」

「重い薪は運ぶ方が嫌がる」

「毛布も同じだよ」


 女商人は奥の倉の方をちらりと見た。

 冬の底でしか出さない深緑の毛布は、まだそこに眠っている。


 昨日の令嬢は、あれを見て、ちゃんと退いた。

 指を沈め、目を奪われ、それでも買わなかった。


 あの手の客は、金で負ける客ではない。

 布で負ける客だ。


 そして、自分がどこまで負けていいかを、ぎりぎりのところで分かっていた。


「変な嬢さんだったな」


 薪売りが言った。


「守られてる寒がりだった」

「なんだそれ」

「自分で寒さを我慢する気がない顔だよ。だが、悪くない。冬支度市場では、そういう客ほど良い買い物をする」


 女商人は、灰緑の毛布が置かれていた棚を見る。


 あの毛布は、右ソファ用だと言っていた。


 右ソファ。

 最初に聞いた時は何のことかと思ったが、あの令嬢の顔を見ていればすぐ分かった。


 たぶん、あの列車の中に、彼女の定位置があるのだ。


 暖炉の右。

 茶の届く距離。

 料理の匂いが来る場所。


 そこへ膝に掛ける毛布を選ぶ。

 冬の真ん中を越えるためではない。

 午後を少し遅くするための毛布。


「深緑を買わなかったのは、正解だね」


 女商人は独り言のように言った。


「なんでだ」

「夕飯に戻れない」


 薪売りは少し考え、それから笑った。


「そりゃ大事だ」

「大事さ」


 女商人は、畳んだ毛布の端を軽く叩いた。


「あの嬢さんは、そこが分かってた」



 昼前になると、木箱職人の老人が杖をついて通りを渡ってきた。

 白い髭に、木くずが一つついている。


 女商人はそれを指で示した。


「また髭に木を飼ってるよ」

「木の方が勝手についてくる」

「昨日の箱、どうだった」

「いい場所へ行った」


 老人はそれだけ言い、店先の椅子に腰を下ろした。


「低い箱だったろう」

「低い箱だ。蓋が軽い。空気がこもらない。毛布を押し込まずに置ける」

「分かってる客だったかい」

「嬢さんより、周りが分かってたな。黒い護衛は毛布を傷めない持ち方をする。若い魔導師は寸法を持ってきた。料理人は匂いを気にしていた」

「料理人が毛布箱の匂いを?」

「飯に蜜蝋を入れるなと怒っていた」


 女商人は小さく笑った。

 大声では笑わない。市場の朝には、まだ少し冷えが残っている。


「なるほどね」

「何がだ」

「毛布も箱も飯も、同じ場所へ入るんだろうと思ってさ」


 老人は椅子に腰掛けたまま、女商人の店先を眺めた。


「ただの金持ちなら、飾りの箱を選ぶ」

「うん」

「だが、あの嬢さんは、開ける前に面倒な箱を嫌った」

「いいね」

「深い箱も嫌った。毛布が底で丸くなると言った」

「ますますいい」

「だから、低い箱を出した。あれで正解だ」


 女商人は腕を組み、満足そうに頷いた。


「毛布にも家が必要だって顔をしてたよ」

「言ってた」

「本当に言ったのかい」

「言った」


 老人は少し笑った。


「だから売った。道具を家と呼ぶ客は、雑に使わん」


 女商人は、その言葉を気に入った。


 道具を家と呼ぶ客。

 たしかに、あの令嬢はそういう客だった。


 甘やかされている。

 守られている。

 何も持たない。


 それなのに、触った布の重さは忘れていなかった。箱の深さも見ていた。

 市場に住む気はないくせに、市場で見たものを持ち帰る気だけは、最初からあった。


「白い列車の中で、あの箱が浮かなきゃいいけどね」


 女商人が言うと、老人は首を振った。


「浮かんだら、黒いのが直すだろう」

「あの護衛か」

「ああいう奴は、箱の向きまで揃える」

「違いない」


 二人は少しだけ黙り、店先を通る人の流れを見た。


 冬支度市場は、何事もなかったように動いている。

 布を買う者。

 薪を選ぶ者。

 豆の袋を抱える者。

 黒パンを紙に包んでもらう者。


 昨日、白い列車がいた場所だけが、少しだけ空いて見えた。



 昼過ぎ、燻製肉屋の男が通りかかった。

 荷を抱えたまま、毛布屋の前で立ち止まる。


「あの料理人、今日も来ると思ったんだがな」

「列車はもう出たよ」


 女商人が言うと、燻製肉屋は肩をすくめた。


「そうか。切り落としの選び方が妙だったから、もう少し見たかったんだ」

「そんなに変だったのかい」

「普通は見た目のいいところを欲しがる。あいつは炙った時に脂が戻るところを見てた」


 木箱職人が、髭についた木くずを指で取った。


「黒パン屋も似たようなことを言っていた」

「焦げる皮と、酸味の残る中身で選んでた、だろ」

「そうだ」

「根菜屋の婆さんも言ってた。大きいのだけじゃなく、小さいのも混ぜて買ったってな。煮るつもりの買い方だ」


 女商人は、通りの奥に目を向けた。


 黒パン屋の鉄板からは、今日も薄い湯気が上がっている。燻製肉の店では、朝より少し太い煙が棚の上に残っている。根菜屋の籠には、土つきの赤い根菜がきちんと並べられている。


 白い列車がいなくなっても、市場は市場だった。


 だが、昨日の料理人がじっと見て買ったせいか、朝から黒パンが少しよく出たらしい。燻製肉も、切り落としを欲しがる客が増えたという。


 誰かが見たものを、別の誰かが欲しがる。

 市場ではよくあることだ。


 ただ、昨日はその始まりが少し白かっただけである。


「嬢さんは食べたそうだったよ」


 燻製肉屋が言った。


「食べたそうだったね」


 女商人も思い出して笑った。


「でも料理人が止めてた」

「列車で食え、って顔だった」

「自分の台所へ持って帰る顔か」

「ああ」


 燻製肉屋は少し悔しそうに、けれど嫌そうではなく言った。


「うちの匂いだけ持っていかれた気がする」

「なら、いい買い物をされたんだよ」


 女商人はそう言い、毛布を一枚畳んだ。


 市場の品は、ここで使われるだけではない。


 誰かの家へ行く。

 誰かの寝台へ行く。

 誰かの鍋へ入る。

 誰かの膝で重くなる。


 昨日の白い列車は、ただそれを少し分かりやすく見せただけだった。


 布も、箱も、肉も、パンも、根菜も。

 どれも、持ち帰られるためにここにある。


「邪魔したな」


 燻製肉屋は荷を担ぎ直し、通りへ戻っていった。

 煙の匂いが、少しだけ残った。



 午後になる前、通りの端から白い線路の話がまた流れてきた。


 町外れに、列車が通った跡が残っているという。

 雪のようで、雪ではない。石のようで、石でもない。朝の光を受けると、うっすら銀を混ぜたように光る線。


 白銀列車はもういない。

 それでも線路は、町外れで静かに残っていた。


 さらに、その横には細い道があるらしい。

 人ひとりと、小さな荷車が通れる程度の道。

 ぬかるんだ轍を避け、凍った窪みを避け、冬前の小さな荷を運ぶには、ちょうどよい幅だという。


「誰か、あれを町の道にしようって言い出したかね」


 女商人が聞いた。


 木箱職人は首を振った。


「言い出した者はいる」

「いるのか」

「朝、測りに行ったらしい」

「それで?」

「測るたびに、少しずつ長さが違ったそうだ」

「どういうことだい」

「知らん。線路へ近づこうとすると、いつのまにか脇道の方に立っている。そういう道らしい」


 女商人は、少しだけ店の外へ出た。


 遠くに、町外れの白い線が見える。

 近くで見なければ、ただの光にも見えた。だが、日差しが当たるたび、そこだけ市場の埃を受けつけないように薄く光る。


「囲えそうかい」

「無理だろうな」

「どうして」

「囲われる顔をしていない」

「顔?」

「道具にも道にも、顔はある」


 白い線路の横を通って、隣町から蜜蝋の小さな包みが届いたらしい。

 いつもより少し早かった、と蜜蝋売りの小僧が首をかしげていた。


 少なくとも、ヴィンターの町外れに残った脇道は、大きな荷車には向いていなかった。

 大きな商いにするには細い。

 だが、冬支度市場には、そのくらいがちょうどよかった。


 蜜蝋が少し早く届く。

 袋の紐が切れる前に替えが来る。

 根菜屋の籠の修繕糸が間に合う。


 そのくらいの不思議なら、町は大げさに騒がず受け入れられる。


「誰のものなんだろうね、あの線路」


 女商人が言った。


 木箱職人は、町外れの白い線を見た。


「さあな」

「列車のものかい」

「たぶん、そうなんだろう」

「町のものにはならないか」

「ならんだろうな」

「惜しいね」

「惜しいくらいが、ちょうどいい」


 女商人は店へ戻った。


 ああいうものは、欲を出すと遠くなる。


 冬支度も、たぶん似たようなものだ。

 寒さを全部消そうとすると、かえって冬の顔が見えなくなる。


 少し冷えて、湯気を見る。

 少し重くて、起きられる毛布を選ぶ。


 昨日の白い列車は、そういう加減を知っているように見えた。

 いや、列車が知っているのか、あの令嬢の周りがそうしているのかは分からない。


 分からないままでいい。


「あの列車は、冬から逃げてたのかね」


 木箱職人がふと言った。


 女商人は、畳み終えた毛布に手を置いた。


 守られた外套。

 右ソファ。

 起きられる毛布。

 軽い蓋の箱。

 市場で食べず、列車で食べる料理。


 どれも、寒さに立ち向かうものではなかった。

 だが、逃げているようにも見えなかった。


 あの令嬢は、寒さを少しだけ見た。

 湯気を吸った。

 布を選んだ。

 料理の材料を持ち帰った。


 そして、きっと暖かい場所で冬を食べた。


「ただ、あの嬢さんは寒そうなものを、ずいぶんうまそうに見てたよ」


 木箱職人は少し考え、それから小さく笑った。


「なら、うちの箱も少し乗ったわけだ」

「うちの毛布もね」


 女商人は、店先の毛布をもう一枚広げた。


 いつもの通りだった。


 布を畳む。

 薪を積む。

 パンを焼く。

 肉を燻す。

 根菜を並べる。


 冬の前に、町を満たす。


 ただ、白い列車が来てから、その仕事が少しだけ違って見えた。


 誰かが寒さを我慢するためだけではない。

 誰かが暖かい場所へ持ち帰り、そこで少し笑うためのものでもある。


 そう思うと、毛布の重さも、黒パンの焦げ目も、根菜の土の匂いも、悪くなかった。



 夕方、女商人は奥の倉へ入った。


 棚の下に、深緑の毛布が眠っている。

 冬の底でしか出さない、一番重い毛布。

 持ち上げる前から眠くなる毛布。


 昨日の令嬢は、それを見て買わなかった。

 正しい判断だった。


 だが、いつかまた来る気もしている。


 冬の底で。

 右ソファの毛布に慣れて。

 もう少しだけ深く沈みたい顔をして。


 その時、あの黒い護衛はまた端の縫い目を見るだろう。

 料理人は、飯の時間までに戻れるかを考えるだろう。

 若い魔導師は、そこから動かせるかどうかを言うだろう。


 令嬢は、きっと真顔で言う。


 これは危険ですわ、と。


 女商人は笑った。


 倉の扉を閉める前に、深緑の毛布を軽く叩く。


「冬の底でまた来な」


 返事はない。

 けれど毛布は、少しだけ重くなったように見えた。


 外では、白い線路が夕方の光を薄く返している。


 冬支度市場の端で、誰のものでもない小さな道が、静かに町の外へ続いていた。

ヴィンターの市場に、灰緑の毛布と蜜蝋の木箱と、白い線路の噂が残りました。

白銀列車は、毛布と煮込みの匂いを乗せて次の町へ向かいます。

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