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婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第8章 毛布と冬の煮込み編 ~冬支度の市場ヴィンター~

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069 冬は、右ソファで食べるものですわ

初霜の朝市で見た湯気が、白銀列車の食堂車へ戻ってきました。

右ソファと灰緑の毛布の前に、冬の皿が運ばれてきます。

「初霜の朝市は、白銀列車の中で完成しましたわ」


 右ソファに座ったまま、私は厨房から漂ってくる匂いにそう確信した。


 窓の外では、ヴィンターの屋根に残っていた初霜がゆっくり消えている。朝市の湯気はまだ通りの奥に白く立っていたが、その音も匂いも、防音ガラスの向こう側にある。


 こちら側には、暖炉がある。

 灰緑の毛布がある。

 蜜蝋の匂いが薄く残る毛布箱がある。

 そして厨房には、アベルがいる。


 つまり、冬を迎える席としては、もう整っている。


 ノアは窓側で、外と厨房を交互に見た。

「外の朝市、まだ賑わってますね」

「ええ。でも、私はもう戻ってきました」

「ものすごく満足そうですね」

「朝市の良いところだけを持ち帰ったからですわ」


 ルークが私の膝の毛布を少し整えた。

「お嬢様、足元は冷えておりませんか」

「冷えておりません。むしろ、食べる準備が整いすぎています」

「それは何よりでございます」


 厨房側から、黒パンを切る音がした。

 硬い皮に刃が入る、ざくりとした音。次に、鉄板へ置かれる低い音。少し間を置いて、焦げ目の匂いが立ち上がる。


 アベルの声が飛んできた。

「まだ来るなよ」

「右ソファから動く予定はありません」

「ならいい」

「持ってきてくださる前提ですわね」

「そのために皿を温めてる」


 たいへん頼もしい言葉だった。


 朝市で見たものが、厨房の中でひとつずつ白銀列車の料理に変わっていく。燻製肉を刻む音。鍋を混ぜる音。チーズの包みを開く音。赤い根菜を火にかける音。


 市場では全部が外に向かって開いていた。人の声、荷車、霜、布埃、白い息。

 ここでは、全部が私の前の皿へ向かって集まっている。


「冬支度市場は、ここまで持ち帰って完成するのですわ」

 ノアが首を傾げた。

「市場で食べるんじゃなくて?」

「市場で見て、白銀列車で食べるのです」

「ぜいたくな結論ですね」

「正しい結論です」


 アベルが大きな木皿を持ってきた。

 ルークが右ソファの前の低卓を少し寄せ、灰緑の毛布の端を膝の内側へ整える。


 その瞬間、会話は一度止まった。


 皿の上には、朝市がいた。


 厚く切った黒パンは、表面だけが濃く焼かれている。焦げた端に、白いチーズがゆっくり沈み、ところどころ泡を立てていた。上には炙った燻製肉が薄く重ねられ、脂の縁が小さく光っている。


 隣には、豆と燻製肉の煮込み。朝市で見たものより少し濃く、少し静かで、豆の形が残るぎりぎりまで煮られていた。木べらですくった跡が、鍋の底の匂いを連れてきている。


 赤い根菜は、皮を外され、厚めに割られ、蜂蜜バターを落とされていた。バターは根菜の熱で溶け、赤い身の割れ目へ入り込んでいる。皿の端には、小さな器に入った温かい香草ミルクが置かれていた。


 アベルは皿を置き、短く言った。

「朝市より、埃は少ない」

「最高ですわ」

「熱い。チーズが伸びる。急ぐな」


 急ぐなと言われた時ほど、急ぎたくなる。


 私は黒パンを手に取った。指先に、焼きたての熱が少しだけ伝わる。パンの端は硬い。けれど中央はまだしっとりしている。そこへチーズが沈み、燻製肉がのっている。


 噛む。


 まず黒パンの焦げ目が来た。

 次にチーズの塩気。

 その後から、燻製肉の煙が戻ってくる。市場で白い息と一緒に吸ったあの匂いが、今度は口の中でほどけた。噛むほどに脂が出て、パンの酸味と混ざる。


 私は目を閉じた。


「黒パンの焦げ目と、燻製肉の煙と、溶けたチーズが、ひと口の中で冬になりましたわ」


 ノアが自分の皿を見ながら言った。

「その表現、ちょっと分かるのが悔しいです」


 ルークは私の皿の位置を少し直した。

「お嬢様、チーズが垂れます」

「垂れる前に食べます」

「熱さにご注意ください」

「熱さも込みですわ」


 次に、豆と燻製肉の煮込みを食べた。


 豆はやわらかい。けれど完全には崩れていない。噛むと中から燻製肉の脂と塩気が出てくる。小さく切られた肉は、屋台で見たものより焦げが少ないのに、煙の匂いが深い。スプーンを入れるたび、煮込みの底から冬の重さが持ち上がった。


 これは、外で立って食べるものではない。

 椅子に座って、毛布を膝に掛けて、急がずに食べるものだ。


 私は赤い根菜へ手を伸ばした。

 蜂蜜バターが、まだ少し溶け残っている。根菜を割ると、湯気が細く上がった。口へ運ぶと、最初に甘さが来る。次に、土の匂い。最後に、バターの丸い塩気。


「これは、朝の冷えを覚えている甘さですわ」


 アベルが鍋のそばから言った。

「霜が降りた朝の根菜は、そう見える」

「味ではなく?」

「味もある。だが、見え方も味になる」


 料理人が言うと、妙に重い。


 ノアが香草ミルクを飲み、少し驚いた顔をした。

「これ、甘くないんですね」

「甘くしたら飯とぶつかる」

 アベルが即答した。

「香草と塩を少しだけだ。燻製の後に飲む」


 私は器を持った。

 温かい。白い湯気が鼻先へ来る。甘くないミルクは、香草の青い匂いと、ほんの少しの塩気があった。燻製肉の煙を口の奥から流して、また次の一口を食べたくさせる。


「これは危険ですわ」

「何がだ」

「終わりません」

「食えば終わる」

「食べるほど次が来ます」

「それは飯として正しい」


 アベルは満足そうだった。


 ルークは私の毛布の端を直しながら、皿の温度を見ている。

「お嬢様、煮込みのおかわりは少量にいたしましょう」

「まだ頼んでおりません」

「頼まれる前に調整いたします」

「信頼が厚いのか、警戒されているのか」

「どちらもでございます」


 私は黒パンをもう一口食べた。

 チーズがまた伸びる。

 燻製肉が、口の中でほどける。


 右ソファが背中を支え、毛布が膝を沈め、暖炉が横で静かに鳴っている。

 窓の外では、初霜が消えかけていた。朝市の人々はまだ動いている。寒さの中で、湯気を立て、声を出し、火を守っている。


 私はその景色を見ながら、車内で食べている。

 それが、たまらなくよかった。



 食後、ラウンジにはしばらく湯気と燻製の匂いが残った。


 アベルは皿を下げ、ノアは窓を少し曇らせた湯気を見て笑っていた。ルークは毛布箱の蓋を開け、灰緑の毛布を私の膝から少しだけ直している。


「お嬢様、食後に眠くなられるようでしたら、このままお休みください」

「まだ眠くありません」

「目が少し沈んでおります」

「毛布のせいです」

「お食事の影響もございます」

「黒パンとチーズは、かなり強かったですわ」


 ノアが椅子に座ったまま、外を眺める。

「初霜、もうほとんど消えましたね」

「ええ」


 私は窓の外を見た。


 朝の白さは薄れ、屋根の色が戻り始めている。市場の木箱からも霜は落ち、石畳の端に小さな水滴が残っているだけだった。湯気はまだある。けれど、朝だけの白さはもう終わりかけている。


 外の冬は、長く持ち帰れない。

 けれど、味なら持ち帰れる。

 匂いなら、少し残る。

 毛布の重さなら、膝の上に置いておける。


「冬は、外で少しだけ見て、車内で食べるものですわ」


 ノアがゆっくりこちらを見た。

「ヴィンターで覚えたこと、そこに落ち着きましたね」

「ええ。ようやく分かりました」

「寒さと戦うとかじゃないんですね」

「戦う必要はありません。白銀列車の中にいれば、寒さを我慢する必要はないのですから」


 ルークが静かに頷いた。

「はい。お嬢様に寒さを我慢していただく必要はございません」


「だから、外の冬は少しだけでよいのです。白い息を見て、湯気を見て、食材を選ぶ。あとは戻って、暖かい場所で食べる」


 アベルが厨房側から言った。

「次の町でもそうするんだろ」

「その町に、おいしいものがあれば」

「あるだろ。なきゃ作る」

「たいへん頼もしいですわ」


 食堂車の奥で、鍋の余熱が小さく鳴った。


 私は右ソファに沈み、灰緑の毛布を少し引き上げた。毛布はもう、昨日より白銀列車の匂いがする。蜜蝋の箱も、ラウンジに馴染んでいる。ラヴェルの風干し小布は肘掛けにあり、ヴィンターの毛布は膝にある。


 風の町の軽さと、冬支度市場の重さ。

 どちらも、白銀列車の中で喧嘩しなかった。


「ヴィンター、とても良い町でしたわ」


 ノアが微笑んだ。

「市場、だいぶ気に入ってましたもんね」

「ええ。長く住むには埃っぽいですが、少し歩いて、毛布と食材を持ち帰るには最高です」

「褒め方が正直」


 ルークが外を確認した。

「本日中に出発されますか」


 私は窓の外をもう一度見た。


 初霜はもう消えていた。市場は昼の顔へ向かっている。毛布屋の女商人が、店先の布を広げ直しているのが小さく見えた。木箱職人の通りには、人の流れが戻っている。朝市の湯気は細くなり、代わりに昼の声が増えてきた。


 もう十分だった。

 この町からもらうものは、白銀列車の中に入った。


「出発しましょう」


 ルークはすぐに頷いた。

「承知いたしました」


「ただし、燻製肉の塊はまだありますわね」

 アベルが言った。

「ある」

「黒パンも?」

「ある」

「蜂蜜バターは?」

「ある」

「では安心です」


 ノアが笑った。

「安心の基準が食料在庫」

「旅には大切ですわ」


 白銀列車が、静かに動き始めた。


 窓の外のヴィンターの市場が、ゆっくり後ろへ流れていく。毛布屋の布の山。木箱の店。黒パンの屋台。初霜の朝市があった通り。白い息を吐く人々。


 それらが少しずつ遠ざかる。


 けれど、膝には灰緑の毛布がある。

 ラウンジには蜜蝋の木箱がある。

 食堂車には燻製肉と豆と黒パンがある。


 ヴィンターの冬支度は、きちんと持ち帰った。


 私は右ソファに沈んだまま、最後にもう一口、香草ミルクを飲んだ。ぬるくなっていたが、それも悪くなかった。


 暖炉がぱちりと鳴る。

 車輪の音が、静かに続く。


 白銀列車は、毛布と煮込みの匂いを乗せて、次の町へ向かった。

ヴィンターの冬支度は、白銀列車へ持ち帰られました。

灰緑の毛布、蜜蝋の木箱、燻製肉と黒パンの匂い。


白銀列車は、毛布と煮込みの匂いを乗せて、次の町へ向かいます。

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