069 冬は、右ソファで食べるものですわ
初霜の朝市で見た湯気が、白銀列車の食堂車へ戻ってきました。
右ソファと灰緑の毛布の前に、冬の皿が運ばれてきます。
「初霜の朝市は、白銀列車の中で完成しましたわ」
右ソファに座ったまま、私は厨房から漂ってくる匂いにそう確信した。
窓の外では、ヴィンターの屋根に残っていた初霜がゆっくり消えている。朝市の湯気はまだ通りの奥に白く立っていたが、その音も匂いも、防音ガラスの向こう側にある。
こちら側には、暖炉がある。
灰緑の毛布がある。
蜜蝋の匂いが薄く残る毛布箱がある。
そして厨房には、アベルがいる。
つまり、冬を迎える席としては、もう整っている。
ノアは窓側で、外と厨房を交互に見た。
「外の朝市、まだ賑わってますね」
「ええ。でも、私はもう戻ってきました」
「ものすごく満足そうですね」
「朝市の良いところだけを持ち帰ったからですわ」
ルークが私の膝の毛布を少し整えた。
「お嬢様、足元は冷えておりませんか」
「冷えておりません。むしろ、食べる準備が整いすぎています」
「それは何よりでございます」
厨房側から、黒パンを切る音がした。
硬い皮に刃が入る、ざくりとした音。次に、鉄板へ置かれる低い音。少し間を置いて、焦げ目の匂いが立ち上がる。
アベルの声が飛んできた。
「まだ来るなよ」
「右ソファから動く予定はありません」
「ならいい」
「持ってきてくださる前提ですわね」
「そのために皿を温めてる」
たいへん頼もしい言葉だった。
朝市で見たものが、厨房の中でひとつずつ白銀列車の料理に変わっていく。燻製肉を刻む音。鍋を混ぜる音。チーズの包みを開く音。赤い根菜を火にかける音。
市場では全部が外に向かって開いていた。人の声、荷車、霜、布埃、白い息。
ここでは、全部が私の前の皿へ向かって集まっている。
「冬支度市場は、ここまで持ち帰って完成するのですわ」
ノアが首を傾げた。
「市場で食べるんじゃなくて?」
「市場で見て、白銀列車で食べるのです」
「ぜいたくな結論ですね」
「正しい結論です」
アベルが大きな木皿を持ってきた。
ルークが右ソファの前の低卓を少し寄せ、灰緑の毛布の端を膝の内側へ整える。
その瞬間、会話は一度止まった。
皿の上には、朝市がいた。
厚く切った黒パンは、表面だけが濃く焼かれている。焦げた端に、白いチーズがゆっくり沈み、ところどころ泡を立てていた。上には炙った燻製肉が薄く重ねられ、脂の縁が小さく光っている。
隣には、豆と燻製肉の煮込み。朝市で見たものより少し濃く、少し静かで、豆の形が残るぎりぎりまで煮られていた。木べらですくった跡が、鍋の底の匂いを連れてきている。
赤い根菜は、皮を外され、厚めに割られ、蜂蜜バターを落とされていた。バターは根菜の熱で溶け、赤い身の割れ目へ入り込んでいる。皿の端には、小さな器に入った温かい香草ミルクが置かれていた。
アベルは皿を置き、短く言った。
「朝市より、埃は少ない」
「最高ですわ」
「熱い。チーズが伸びる。急ぐな」
急ぐなと言われた時ほど、急ぎたくなる。
私は黒パンを手に取った。指先に、焼きたての熱が少しだけ伝わる。パンの端は硬い。けれど中央はまだしっとりしている。そこへチーズが沈み、燻製肉がのっている。
噛む。
まず黒パンの焦げ目が来た。
次にチーズの塩気。
その後から、燻製肉の煙が戻ってくる。市場で白い息と一緒に吸ったあの匂いが、今度は口の中でほどけた。噛むほどに脂が出て、パンの酸味と混ざる。
私は目を閉じた。
「黒パンの焦げ目と、燻製肉の煙と、溶けたチーズが、ひと口の中で冬になりましたわ」
ノアが自分の皿を見ながら言った。
「その表現、ちょっと分かるのが悔しいです」
ルークは私の皿の位置を少し直した。
「お嬢様、チーズが垂れます」
「垂れる前に食べます」
「熱さにご注意ください」
「熱さも込みですわ」
次に、豆と燻製肉の煮込みを食べた。
豆はやわらかい。けれど完全には崩れていない。噛むと中から燻製肉の脂と塩気が出てくる。小さく切られた肉は、屋台で見たものより焦げが少ないのに、煙の匂いが深い。スプーンを入れるたび、煮込みの底から冬の重さが持ち上がった。
これは、外で立って食べるものではない。
椅子に座って、毛布を膝に掛けて、急がずに食べるものだ。
私は赤い根菜へ手を伸ばした。
蜂蜜バターが、まだ少し溶け残っている。根菜を割ると、湯気が細く上がった。口へ運ぶと、最初に甘さが来る。次に、土の匂い。最後に、バターの丸い塩気。
「これは、朝の冷えを覚えている甘さですわ」
アベルが鍋のそばから言った。
「霜が降りた朝の根菜は、そう見える」
「味ではなく?」
「味もある。だが、見え方も味になる」
料理人が言うと、妙に重い。
ノアが香草ミルクを飲み、少し驚いた顔をした。
「これ、甘くないんですね」
「甘くしたら飯とぶつかる」
アベルが即答した。
「香草と塩を少しだけだ。燻製の後に飲む」
私は器を持った。
温かい。白い湯気が鼻先へ来る。甘くないミルクは、香草の青い匂いと、ほんの少しの塩気があった。燻製肉の煙を口の奥から流して、また次の一口を食べたくさせる。
「これは危険ですわ」
「何がだ」
「終わりません」
「食えば終わる」
「食べるほど次が来ます」
「それは飯として正しい」
アベルは満足そうだった。
ルークは私の毛布の端を直しながら、皿の温度を見ている。
「お嬢様、煮込みのおかわりは少量にいたしましょう」
「まだ頼んでおりません」
「頼まれる前に調整いたします」
「信頼が厚いのか、警戒されているのか」
「どちらもでございます」
私は黒パンをもう一口食べた。
チーズがまた伸びる。
燻製肉が、口の中でほどける。
右ソファが背中を支え、毛布が膝を沈め、暖炉が横で静かに鳴っている。
窓の外では、初霜が消えかけていた。朝市の人々はまだ動いている。寒さの中で、湯気を立て、声を出し、火を守っている。
私はその景色を見ながら、車内で食べている。
それが、たまらなくよかった。
◇
食後、ラウンジにはしばらく湯気と燻製の匂いが残った。
アベルは皿を下げ、ノアは窓を少し曇らせた湯気を見て笑っていた。ルークは毛布箱の蓋を開け、灰緑の毛布を私の膝から少しだけ直している。
「お嬢様、食後に眠くなられるようでしたら、このままお休みください」
「まだ眠くありません」
「目が少し沈んでおります」
「毛布のせいです」
「お食事の影響もございます」
「黒パンとチーズは、かなり強かったですわ」
ノアが椅子に座ったまま、外を眺める。
「初霜、もうほとんど消えましたね」
「ええ」
私は窓の外を見た。
朝の白さは薄れ、屋根の色が戻り始めている。市場の木箱からも霜は落ち、石畳の端に小さな水滴が残っているだけだった。湯気はまだある。けれど、朝だけの白さはもう終わりかけている。
外の冬は、長く持ち帰れない。
けれど、味なら持ち帰れる。
匂いなら、少し残る。
毛布の重さなら、膝の上に置いておける。
「冬は、外で少しだけ見て、車内で食べるものですわ」
ノアがゆっくりこちらを見た。
「ヴィンターで覚えたこと、そこに落ち着きましたね」
「ええ。ようやく分かりました」
「寒さと戦うとかじゃないんですね」
「戦う必要はありません。白銀列車の中にいれば、寒さを我慢する必要はないのですから」
ルークが静かに頷いた。
「はい。お嬢様に寒さを我慢していただく必要はございません」
「だから、外の冬は少しだけでよいのです。白い息を見て、湯気を見て、食材を選ぶ。あとは戻って、暖かい場所で食べる」
アベルが厨房側から言った。
「次の町でもそうするんだろ」
「その町に、おいしいものがあれば」
「あるだろ。なきゃ作る」
「たいへん頼もしいですわ」
食堂車の奥で、鍋の余熱が小さく鳴った。
私は右ソファに沈み、灰緑の毛布を少し引き上げた。毛布はもう、昨日より白銀列車の匂いがする。蜜蝋の箱も、ラウンジに馴染んでいる。ラヴェルの風干し小布は肘掛けにあり、ヴィンターの毛布は膝にある。
風の町の軽さと、冬支度市場の重さ。
どちらも、白銀列車の中で喧嘩しなかった。
「ヴィンター、とても良い町でしたわ」
ノアが微笑んだ。
「市場、だいぶ気に入ってましたもんね」
「ええ。長く住むには埃っぽいですが、少し歩いて、毛布と食材を持ち帰るには最高です」
「褒め方が正直」
ルークが外を確認した。
「本日中に出発されますか」
私は窓の外をもう一度見た。
初霜はもう消えていた。市場は昼の顔へ向かっている。毛布屋の女商人が、店先の布を広げ直しているのが小さく見えた。木箱職人の通りには、人の流れが戻っている。朝市の湯気は細くなり、代わりに昼の声が増えてきた。
もう十分だった。
この町からもらうものは、白銀列車の中に入った。
「出発しましょう」
ルークはすぐに頷いた。
「承知いたしました」
「ただし、燻製肉の塊はまだありますわね」
アベルが言った。
「ある」
「黒パンも?」
「ある」
「蜂蜜バターは?」
「ある」
「では安心です」
ノアが笑った。
「安心の基準が食料在庫」
「旅には大切ですわ」
白銀列車が、静かに動き始めた。
窓の外のヴィンターの市場が、ゆっくり後ろへ流れていく。毛布屋の布の山。木箱の店。黒パンの屋台。初霜の朝市があった通り。白い息を吐く人々。
それらが少しずつ遠ざかる。
けれど、膝には灰緑の毛布がある。
ラウンジには蜜蝋の木箱がある。
食堂車には燻製肉と豆と黒パンがある。
ヴィンターの冬支度は、きちんと持ち帰った。
私は右ソファに沈んだまま、最後にもう一口、香草ミルクを飲んだ。ぬるくなっていたが、それも悪くなかった。
暖炉がぱちりと鳴る。
車輪の音が、静かに続く。
白銀列車は、毛布と煮込みの匂いを乗せて、次の町へ向かった。
ヴィンターの冬支度は、白銀列車へ持ち帰られました。
灰緑の毛布、蜜蝋の木箱、燻製肉と黒パンの匂い。
白銀列車は、毛布と煮込みの匂いを乗せて、次の町へ向かいます。




